夜明け前のハイウェイ。
愛車を飛ばしながら、緋咲は感情を持て余していた。
同じ事を繰り返すのは、ただのバカだ。
愚かだと理解しているのに、感情が納まらない。
走っても走っても、拓の悲しげな顔が脳裏から消えなくて・・・。
あんな顔をさせたい訳じゃないのに―――。
どうして、自分はいつもいつも傷付ける事しか出来ないのだろうか・・・。
何をしても、秀人には勝てないのか？
口惜しくて・・・情けなくて・・・哀しくて―――。
大事なものを見失って、壊してからじゃないと、いつも気付けない。
本当の、自分の『想い』。
泣かせたい訳では、決してないのに・・・。

産業道路をすっ飛ばして、頭も身体も冷やしてからマンションに戻ってきた緋咲は、まだ拓が眠っていると思っていた。
昨夜、あれだけ酷く抱いたのだから、起き上がる事も出来ないだろう―――と。
どんな顔をすれば良いのか、まだ心が決まらないが・・・自分の勝手な感情で拓を傷付けてしまった償いはしなければならない。
今度の事で、完全に拓に嫌われたとしても・・・。

だが、ドアを開けて部屋に入った緋咲は、愕然とした。
人気のない部屋と、空のベッド。
サイドテーブルの上に置かれた―――“紙”。
そこに書かれていた言葉を見た途端、緋咲は自分が本当に取り返しのつかない事をしたのだと・・・自覚した。
＜・・・ごめんなさい・・・。＞
震えた手で書かれた文字は線がぶれ・・・涙で滲んでいた。
グシャッとそれを握り潰して―――緋咲は身を翻した。

＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊

まだ日が昇らない、夜明け前の薄暗い中を、拓は当ても無く歩き続けていた。
駅まで行っても、まだ横浜に帰る電車が無いからだ。
途中の公園でベンチを見つけて、拓は膝を抱え込んで座った。
「―――はぁ・・・」
落ち着いたら、痛みがぶり返して・・・知らず溜め息が漏れた。
ジワッと目頭が熱くなったので、慌てて膝に顔を埋めた。
どうして、こうなってしまうのだろう。
なんで、自分はいつも緋咲を苛立たせてしまうのだろう。
嫌われたくないのに・・・こんなに・・・【好き】なのに。
自分に自信が無くて・・・どうして緋咲がこんな自分を選んだのかも理解らなくて。
それでも、緋咲が望むのなら、精一杯の想いで返してきたつもりだった。
なのに、あんな一方的に訳も理解らずに抱かれれば、最初に与えられた恐怖と悪夢が拭えなくて・・・。
拒絶したい訳じゃなくて、行為が嫌なんじゃなくて・・・心が通じていないのが、怖いだけなのに。
「・・・拓・・・ちゃんかぁ？」
不意に、上から声が降ってくる。
拓は思わず、ビクッとしてしまう。
まさかこんな時間に、こんな場所で自分を知っている者が現れるとは、思ってもいなかったのだ。
「―――たいじゅ・・・くん・・・？」
顔を上げると、目の前には幻ではなく、拓のこの街での友人が立っていた。
視線が合った途端に、大珠の顔付きが豹変する。
「泣いてた・・・のか？」
「・・・あ・・・。」
大珠の言葉に、拓は慌ててゴシゴシと袖で涙を拭って、ブンブンと首を横に振る。
「う・・・ううん。違っ・・・これは・・・あれ？・・・止まらな・・・」
見知った顔にホッとした所為か、緩んだ涙腺から零れる涙は止まらなかった。
ゴシゴシと何度も目元を擦る拓の手を、大珠の手がそっと掴む。
「何だよ・・・水くさいじゃんか。辛いんなら泣いても良いよ。」
「・・・何だか・・・大珠くんには・・・いっつも情けないトコ・・・ばっかで・・・」
ギュッと目を瞑ると、ポタポタと雫が滴る。
隣に座った大珠が、ポンポンと拓の肩を叩いて・・・引き寄せた。
「あのバカと、喧嘩でもしたのか？」
大珠の言葉に、拓は小さく首を横に振る。
喧嘩も何も、理由も理解らずだったのだ。
大珠は、拓と緋咲の関係を知っている数少ない相手なので、拓も気持ちを隠さない。
「―――き・・・嫌われちゃったの・・・かも・・・」
ううぅ・・・と泣きながら言う拓に、思いもしなかった事を聞いた大珠は目を丸くした
＜―――ありえねーーーっっ！！＞
内心の動揺を必死に押し隠して、大珠は拓を見詰める。
「どうして、そんな風に思うんだ？」
拓が抱えている悲しみを、言い易いように待つ。
「・・・分かんないけど・・・怒ってた・・・から・・・」
ポツリポツリ喋る拓も、どう説明すればよいのか戸惑っていた。
「怒らせるような事をしたのか？拓ちゃんが・・・あいつを？」
それこそ、晴天の霹靂だとでも言いたそうに、大珠は驚いた顔をした。
「―――ううん。会った時からもう・・・不機嫌だった・・・」
思い返す拓にしても、どうして緋咲があんなに苛立っていたのか見当も付かなくて。
―――途方に暮れているのだ。
「あぁ・・・そういや、この二・三日、“頭”が荒れてるって【紫】の連中がぼやいてたっけ・・・」
「え？」
急に思い出したように言ったのは、大珠の方だった。
その言葉に、拓は驚いたように顔を上げた。
「何でも、用事で『横浜』に行った後から、機嫌がぁ悪ィから、嫌いなヤツにでも会ったんじゃないかって・・・。俺はぁ、てっきり拓ちゃんと会えなかったからだろ・・・って、思ってたんだけど・・・」
心の中で、ザマアミロと思った事などおくびにも出さずに、大珠はつらつらとそう言った。
途端に、拓の鼓動がドクンッと鳴った。
大珠の言葉に、拓の脳裏に浮かんだ姿は秀人だった。
横浜で拓と緋咲が会っていないのだから、秀人と鉢合わせてしまったのではないかと思ったのだ。
だが、それ以上に思い当たる節に、拓は全身からザーッと血の気が引いていく音を聞いたような気がした。
二・三日前・・・それは、丁度拓が秀人と再会をした日。
その時、緋咲も横浜に来ていたとしたら・・・？
拓に会いに来てたら・・・？
欠けていたピースが、ゆっくりと嵌っていく。
苛立っていた、緋咲・・・。
それは、誰に対して・・・？
「―――拓ちゃん？」
突然蒼褪めて、只ならぬ様子の拓に、大珠が気遣う。
「ど・・・どうしよう・・・」
「拓ちゃん？どうした・・・？」
おろおろする拓に、ただ事じゃないと気付いた大珠は眉を寄せた。
「・・・本当に・・・嫌われちゃったんだぁ・・・。」
急に、ボタボタ零れ落ちた大粒の涙に、大珠はぎょっとした。
何だか物凄い勘違いを拓がしているようだが、あの男がそう簡単に拓の事を嫌いに成る訳がないのは・・・他の連中の方が良く知っている。
まぁ出来る事なら、このまま拓が勘違いをして、二人が別れてくれた方が、大珠たちには好都合なのだが・・・流石にこんなに悲痛な顔で泣いている拓を見るのは好意を抱いているだけに辛かった。
「拓ちゃ・・・」
「―――拓っ！！」
慰めの声を掛けようとした瞬間、飛び込んできた声に、大珠は目の前が真っ暗になった。
途端に、拓の身体がビクッと震える。
息を切らして走ってきただろうその姿からは、いつもの尊大な態度も・・・触れれば切られそうなオーラもなく。
そんな緋咲の姿に、大珠は自分の出番が終わってしまった事を思い知らされた。
それでも―――溢れ出る【感情（オモイ）】は許せなくて。
「――――ッ！！」
「大珠くん？！」
バキッ！と音がして、緋咲の身体が吹き飛ぶ。
大珠の渾身の力を込めた一撃が、緋咲の右頬にヒットしたからだ。
見事に決まったパンチに、逆に繰り出した大珠の方が驚いて・・・密かに口端を持ち上げた。
やれやれ・・・と思う。
実際、こんな損な役回りも勘弁してもらいたいものだ―――と。
「テメェ、拓ちゃん泣かすなって、言っただろ。３度やったら、有無を言わさず拓ちゃん掻っ攫うからな！！」
そう告げると、くるりと背を向けて拓に視線を向ける。
それは、緋咲に向けた刃のような物ではなく、とても慈愛に満ちた眼差しだ。
「俺に、無抵抗で殴られても良いヤってぐらい反省してるみたいだし・・・拓ちゃんも、もう泣かなくて済むよな。」
拓に向かってちょっと寂しそうにそう笑うと、大珠は拓の頬についた涙の跡を拭ってやった。
「―――大珠・・・くん・・・」
「ダイジョーブだって。ホントにダメだったら、俺が責任取ってやっから。何時でも、俺の胸に飛び込んできて良いヨ。・・・じゃあな。」
軽く胸を叩く動作をすると、含み笑いを浮かべたまま、大珠は二人から離れて朝靄の中に吸い込まれていった。

大珠が去った後、のろのろと起き上がった緋咲が、黙ったままで拓の座っていたベンチの横に座った。
互いに無言のまま、時間だけが過ぎていく。
休日の公園で、まだ朝早いとはいえ男二人で一緒にベンチに腰掛けているのも恥ずかしいのだが・・・。
「―――悪かった。」
先にボソリと呟いたのは、あろう事か緋咲の方だった。
余りの衝撃に、拓の思考が固まった。
「・・・泣かせちまった。」
そうして、緋咲が酷く落ち込んでいる事に気付いた拓は、慌てて固まってしまった頭を回復させる。
「ちが・・・あの・・・」
うまく言葉が見つからなくて、拓は口篭る。
自分から確かめるのが怖くて・・・何よりも緋咲に嫌われたくなくて・・・。
「２・３日前に・・・横浜に来たって・・・本当？」
ぎゅっと目を瞑って、拓は覚悟を決めて問い掛けた。
途端に、緋咲が身動ぎしたので・・・拓はそれが本当の事なのだと知った。
「―――あぁ。秀人と・・・会ってたろ・・・」
小さな肯定の言葉と共に、一番考えたくなかった事実が返ってきて、拓は目の前が真っ暗になった。
見られていたのだ―――寄りによって、緋咲に。
一番知られたくない相手に。
「―――嫌わないで・・・。」
消え入りそうな声で、懇願する。
「拓？」
「・・・緋咲くんが、秀人くんの事・・・嫌いなのも、対立してるのも知ってる。でも、秀人くんは、ボクの初めての【友達（シンユウ）】なんだ。友達を嫌いになんかなれないから・・・だから・・・秀人くんを友達だって言う・・・僕を・・・嫌いにならないで・・・」
辛そうに告げる拓の言葉に、緋咲は自分の中の苛立ちが消えていくのを感じていた。
あんなに酷い八つ当たりをしたのは、緋咲の方なのだ。
嫌われても仕方ないのは、自分の方なのに・・・拓は尚も緋咲の心を思って、精一杯の想いを返してくる。
そんな拓を、どうして、自分は信じられないのだろう。
今、ここに―――緋咲の横に、この小さな存在は確かに『在』るのに。
小さく震えて言い募る拓を、緋咲はそっと抱き寄せた。
壊した筈だった。
自分から“絆”を・・・手放してしまったのに・・・。
こうして、拓がその糸を差し出してくれるのだ。
どんなに傷付いても・・・壊しても・・・全てを享受して―――【想い】を返してくれる相手。
「―――好き・・・だ。」
勝ち負けとか、誰より強く思われているだとか・・・そんな事は本当は些細な事なのだ。
自分の想いがどれだけ強いのかを、緋咲は拓に伝えれば―――それだけで良かったのだから。
耳元で囁かれた愛の告白に、拓は一瞬で耳まで赤くした。
「え？・・・あ・・・」
「―――お前は？」
茹蛸の様に真っ赤になった拓が、オロオロとしていると、緋咲が甘く問い掛けた。
嫌わないでと懇願した相手に、愛の告白をされてしまった以上、拓も自分の心を曝け出すしかない。
それが、穴があったら入りたくなるぐらい恥ずかしい想いでも。
「ぼ・・・ボクも・・・好き・・・大好き・・・」
消え入りそうな声だったが、蕩けそうな表情が、言葉以上に拓の気持ちを代弁していたので、緋咲は満足した。
口端を密かに持ち上げて・・・。
酷くSEXYなその独特な―――会心の『微笑』。
途端に、拓の全身から力が抜け堕ちる。
拓の大好きなその表情は、拓だけのもの。

＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊

「・・・どうして、秀人には全開の笑顔になるくせに、俺には怯えた笑みしか見せないんだ？」
自室に戻ってきた緋咲は、どうしても気になっていた事を、タバコの煙を吐きながらそう問うた。
その途端に、ベッドの上に座っていた拓は困ったように首を傾げた。
「どうしてって・・・自分がどんな顔してるかなんて・・・気にした事なかったし・・・」
一瞬、ムッとした表情を浮かべた緋咲に、慌てて拓が言葉を探す。
折角、仲直りしたのに・・・また蒸し返されては堪らない。
最初に、自分が拓に対してどういう行動を散々取ったのか、すっかり棚上げしている相手に聞かれる質問では、決してないだろうと思ってもだ。
これで、秀人の傍は暖かくて安心できるからだなんて言ったら、その足で秀人を【殺（ヤ）】りに行きそうだし・・・。
「―――不安だから・・・。」
小さく呟くと、拓はそっと緋咲の腕を掴む。
「・・・拓？」
「絶対・・・嫌われたくないから・・・。」
まどろむ様に気持ちを吐露する拓に、緋咲は目を細める。
灰皿にタバコを押し付けて、姿勢を変えると拓を引き寄せる。
大人しく腕の中に納まった拓は、少し赤い顔のまま目を逸らす。
「―――大体、緋咲くんだけしか、抱かれたりしないもん。させないし・・・。」
頬を染めて呟く拓に、漸く緋咲は諸々の感情を吹っ切った。
「・・・嫌なのか？」
「・・・嫌とか・・・そーゆーんじゃなくて・・・」
「じゃ、しようぜ。」
ニヤッと笑って緋咲が言うと、拓は絶句した。
「俺なら、良ィーんだろ。」
「だから・・・そーゆー事じゃ・・・！」
抗議の言葉は、降ってきたキスに奪われた。
それでも、それは酷く優しいものだったから・・・。
『・・・ん・・・』
甘い声が上がる。
昨夜の行為を消し去るように、濃密で甘い時間。
最初に壊れた関係から始まったのだから・・・時間をかけて互いを知っていくしかないのだ。
どんなに傷付いても・・・傷付けてしまっても・・・。
互いを、選んでしまったのだから―――。

“好きになった方が、負け”
世の中には、そんな言葉があるが。
負ける事が、より相手を好きになるのだと言うのなら。
『ずっと負け続けても良い』―――と、思った。
―――ずっと傍に居る事を、許されると言うのなら・・・。

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