＜カイ＞の世界の時間はゆっくりと流れる。
＜リク＞の世界のように時期によって気候が変化する事もないので、緩やかな海流のように穏やかに過ぎ去っていくだけだ。
だが、＜カイ＞の世界では微睡むだけの刻でも、＜リク＞の世界ではあっという間に時間が過ぎ去っていた。

「セロニアス！」
『赤の神殿』でゆったりと寛いでいた彼に向かって、声が掛けられる。
一定の間隔で現れる＜リク＞の者であり、古の竜王が加護を約束した『人間』の血を引いている厄介な相手だ。
名をヒザキと言った。
その身に着けている『竜玉』の所為で、追い払う事も出来ない。
近くの＜リク＞の世界のヨコスカと呼ばれている場所が、ヒザキの領域なのだという事も、＜リク＞世界の時間を表す言葉である“月”が変わる度に、この神殿にやってくるのだという事も、今では知っている。
最初は全く相手にしていなかったのだが、何度も出会う内に、何時しか話し相手になった。
“ヒザキ。・・・アァ、マタ『祭』トカイウ日ナノカ。”
海原から視線を離さずに、彼はだるそうに尋ねた。
「あぁ。今日は、セロニアスの為に、新しい酒を用意させた。先月気に入っていたヤツも持ってきた。・・・飲むだろう？」
そう言って、ヒザキは持っていた品物を抱え上げた。
セロニアスと言うのは、ヒザキが付けた彼の『名』だ。
それは、赤の神殿に刻まれていた海竜王の名であって、彼の本当の『真名』ではない。
だがそれを教える気の全く無い彼は、好きなように呼ばせて、訂正しなかった。
“飲ム。”
漸くヒザキに視線を向けると、短的に応えて、彼はゆっくりと起き上った。
そうして差し出された杯を受け取る。
ヒザキは『人間』なのだが、＜リク＞の者としては異端だった。
＜リク＞の世界ではありえない紫の髪と深い蒼の瞳は、＜カイ＞の祖先を持つというヒザキ家の先祖返りの所為だったのだが、他家から嫁いできた母親にとっては、呪われた子供という意味でしかなかった。
生まれ落ちた我が子の髪色と瞳の色に絶望した母親は、彼を道ずれにこの神殿から身を投げたらしい。
他家から嫁いできた母親は死んだが、竜王の加護を受けているヒザキ家の直系として生まれてきたヒザキが＜カイ＞で死ぬ筈も無い。
海原に母親と消えた筈なのに、翌日神殿に戻っていた息子の姿を見て、父親は狂喜した。
ヨコスカ領を継ぐのに相応しい跡取りだと周りの者たちに宣言し、彼はずっとそうなるように育てられてきた。
母親の死の真相は、彼には伝えないように固く箝口令も敷かれていた。
だが、秘密は何処で漏れるのか解らない。
ヒザキの地位と権力目当てで近寄ってきた貴族の令嬢を、冷たくあしらった時、その口から飛び出した言葉は、彼の心を打ち砕いた。
周りの者を問い詰めても口を割らなかったので、父親に直談判してそれが真実だと知った瞬間、彼は酷く絶望したようだ。
何度目かの酒を交わしながら、ポツリポツリ漏らすヒザキの声は、沈んでいた。
彼はそれを黙ったまま聞いていた。
ヒザキの嘆きに対して、彼が出来る事は何もない。
記憶の中の姿は、過去のヒザキであって、今の彼ではないのだ。
海竜王の数少ない『友』であった＜カイ＞の青年は、＜リク＞の少女と恋に落ちた。
二人の間に出来た子供が、＜リク＞の世界のヒザキ家の始祖だ。
『友』であった青年の為に、竜王は竜玉を与えて加護を約束した。
青年には短剣を・・・そして、少女には指輪を。
それが古の『約定（まもり）』であり、ヒザキ家の家宝でもあった。
目の前のヒザキの姿は、記憶の中の青年と全く同じだった。
ふとすれば、意識が竜王の記憶に引きずり込まれそうな程の感慨。
やがて自分の事を話し尽くしたヒザキが押し黙ると、沈黙が漂う。
二人は黙ったまま、酒を交わす。
彼が多くを語る事は無い。
いつもそこに静かに佇んでいるだけだ。
そして、深い緋の瞳は、絶えず海原を捉えている。
海の底、そこに何かがあるかのように。
ヒザキが懐から煙草を取り出して火を点ける。
言葉を飲み込む時に、ヒザキは喋らなくても良いように、それを咥える事を知っている彼は、口に付けようとしていた杯を止めた。
“ナンダ？”
「―――別に。」
彼の問い掛けに、ぼそりと返ってくるのは否定。
それが、記憶の中の青年の行動に照らし合わせると、全く違う意味を持っている事になる。
“何ガ知リタイ？”
「・・・何で、ここに来た？俺がセロニアスと会ってから、もう一年だ。特に何をするでもなく、この神殿に姿を顕した理由が解らない。」
彼の再度の問いに、漸くヒザキの口から零れ落ちたのは疑問。
納得したように、彼は一度酒を口に含んだ。
“―――待ッテイル。”
密かの沈黙の後、彼は遠くを見つめながらそう答えた。
「待っている？何を？それとも・・・誰か、なのか？」
次から次へと質問されて、彼はまた沈黙した。
ゆっくりと視線をヒザキに合わせて、目を細める。
そうすると、無表情なのに、何だか嗤っているように見えて、神気が増したように感じられた。
“イズレ解ル事ダ・・・尤モ、ソレガ何時ニナルノカハ、俺ニモ理解ラナイ”
そうして、杯を傾けて飲み干すと、空になったそれをヒザキに放り投げた。
遠くで法螺の音が響く。
今月の祭りの時間も終わってしまったのだ。
ヒザキが彼に会うには、またひと月待たなければならない。
「セロニアス！」
他の『人間』に会うのを嫌って、彼が立ち上がって海原に『飛翔（と）』ぶのを、ヒザキが呼び止める。
“旨カッタ・・・”
だが、彼はそう呟くと同時に、海中にその身を投じた。
後にはいつも通りの静寂。

『海竜神』が何を考えているのか、ヒザキには全く理解らない。
それでも、自分だけを容認して貰えるのが、何故だか嬉しい。
自分の容貌を長い間忌み嫌っていた筈なのに、この姿でヒザキ家の血を持っているからこそ、『海竜神』であるセロニアスの近くに居られるのだと理解った時は、複雑な気分だったのだが・・・。
身体の奥底に流れる血が、『海竜神』を前にすると喜びに沸き立つのを、ヒザキは知ってしまったのだ。
神である竜神に対しての畏怖と、慕情がない交ぜになった感情は、どうする事もできなくて、ヒザキの意識を支配したままだ。
その姿が消えた眼下の海原を見つめながら、ヒザキは辛そうに眉を寄せて唇を噛み締めた。
決められた儀式の時間以外は、神殿は結界が張られて＜リク＞の者は近付けなくなる。
次の儀式の時に、『海竜神』であるセロニアスが同じようにここにいるという保証は何処にも無い。
何かを待っているとセロニアスは言った。
ならば、待っているものが現れたら、彼はもうここには来ないのだろうか？
胸に湧き上がるのは焦燥。
引き止められる手段を、ヒザキは何も持っていなかった。

海底に沈んだ彼は、タクの元へと戻った。
変わらずに深い眠りについたままのタクの瞳は、一度も開かれない。
ただ、短かった髪だけが生きているのを主張しているように、背中まで伸びていた。
腰まであったあの長さにはまだ足りないけれど、柔らかな髪先が、彼の動きによってできた波に揺らいだ。
“―――タク・・・”
もう何度目になるのか判らないが、それでも彼はその名を呼んだ。
消えかかっていた身体には、すっかり力が戻っていて、色の失われた世界である海底でも、タクの姿はほんのりと光り輝いているように見えた。
彼は、周りを見回した。
彼とタクがいるこの場所には、今や数多くの物が揃っていた。
全部、タクが彼にくれた物だ。
一つ・二つ・三つ・・・と、降り積もった総てが、彼の宝物だった。
どれだけ彼が嬉しかったのか・・・どれだけ、大切な物なのかを、見て欲しいのに。
閉じられた瞼をそっとなぞって、彼は願うようにそこに口付けた。
「・・・まだ、タクは目を覚まさないのかい？それで、あんたは何時まで、この状態を続けるんだ？もっと簡単な方法を教えてやったのに。」
何処からともなく顕れた魔女が、境界ギリギリの場所で、つまらなさそうな声を出した。
その声を、彼は無視する。
「・・・何であの方法を使わないのかって聞いてるんだよ！無視をするのはお止め！」
怒った魔女が、腰に手を当てて睨みつけてくる。
高い音に、彼は少しだけ眉を寄せて魔女を見返した。
“ウルサイ・・・。”
静かにするように、告げる。
途端に、魔女は面食らった顔をして、深いため息をついた。
「あんたねぇ・・・。」
“オ前ハ傍観者ナノダロウ？ナラバ、黙ッテ見テイレバ良イ。”
魔女の言葉を遮るように、彼はそう答えた。
それ以上魔女に何も言わせないように。
途端に、カッと眦を吊り上げた彼女は、怒りで頬を紅潮させたまま姿を消した。
海底に静かな静寂が戻る。
彼は、そっとタクを抱き上げると、その胸に耳を当てた。
トクン・・・トクン・・・。
規則正しい音が、彼の胸にも響く。
魔女は、眠り続けるタクを見て、―『人間』と“絆”を繋げて『誓約』を口にした所為だ―と彼に告げた。
そうして、緋色の短剣を彼に寄越した。
タクの髪から作られたそれで、“絆”を交わした『人間』の男の心臓を刺せば、“絆”は失われるらしい。
だから、力を使ってタクの記憶を奪ってから目覚めさせて、言いくるめて殺させればいい―――と甘言の言葉を囁いた。
余りの馬鹿馬鹿しさに、彼は取り合わなかった。
力を使って、思うままにしてどうするのだ？
自分が本当に望んでいるのは、そんな事ではないのに。
タクの鼓動を確かめながら、微睡もうとした彼は、次の瞬間に顔を上げた。
そうして、視線を上に向ける。
『赤の神殿』を望むように見上げると、そのまま眼差しをきつくした。
“―――来タカ・・・。”
ヒザキや、いつも感じる気配とは異なる波動に、彼は小さく呟く。
抑えきれない程の殺気まで感じて、彼はゆっくりと口端を持ち上げた。
何かが心の奥底から湧き上がってくるような、感覚に全身の鱗がざわめいた。
腕の中のタクの身体をそっと手放すと、彼は＜リク＞に向かって飛翔した。

『赤の神殿』は異様な雰囲気に包まれていた。
船に乗ってきたのは、迎えの者だけでは無かった。
船が神殿についた途端に、剣で脅していた彼等を、あっという間に拳で昏倒させてしまった侵入者は、そのまま神殿内に入ってきて、祈りの間にいたヒザキを見つけて剣を突き付けた。
物凄い殺気に中てられて、ヒザキは動く事が出来なかった。
だが、目の前の相手の印象的な頬の傷に、固まった意識の中、記憶の扉が開く。
「お前は・・・あの時の・・・」
「・・・銀髪の男は何処だ？」
低い威圧感のある声が、男の口から発せられて、漸くヒザキは我に返った。
同時に、目の前の男が、セロニアスの待っていた相手なのだと理解した。
リューヤは、愕然としているヒザキを強い視線で睨み付けたまま、大きく息を吸い込んだ。
「―――出てこいっ！！」
周りの空気がビリビリ振動する程の、怒声。
“・・・漸ク・・・来タカ・・・。”
応えるように神殿の奥から声が聞こえて、リューヤはバッと振り返って、跳躍した。
凄まじい勢いで、声の方へと向かう。
部屋を出て、回廊を渡っていくと、眼下が海になっている露台が見えた。
そうして、そこに立っていた姿に、リューヤの視線が止まった。
「タクは何処だっ？！」
眼前で足を止めたリューヤが、殺気を漲らせて対峙する。
相対する『龍神』の方は、静かに佇んでいるだけだ。
ただ、その瞳の色が緋色から紅色に変化していた。
“俺カラ奪エルカ？”
「―――返して貰うっ！」
見下すような声に、リューヤはギリッと唇を噛み締めてから、絞り出すように言葉を発した。
意識では、相手の人外の強さを理解っていても、全身を流れる血が、“滾る”感覚を抑えられない。
腰に挿していた長刀を引き抜くと、蒼く輝くそれをリューヤは構えた。

あの夜、異変に気付いたナツオ王や＜カイ＞の世界の南海王であるマコトが駆けつけてくれた時には、既にタクは手の届かない場所に連れて行かれてしまった後だった。
そうして、タクが言っていたように、相手が＜カイ＞の世界の神である『龍神』である事も告げられた。
まさか、＜カイ＞の世界でも禁忌である場所の海底に、古の昔に滅んだ筈の海竜族の者が棲んでいたとは、南海王であるマコトも知らなかったようで、タクを連れ去った相手の容貌を伝えたリューヤに、愕然と瞳を見開いて力を失ったかのように膝をついた。
そうして、隠されていた秘密を口にして、平伏するような格好でタクを諦めるように、リューヤに懇願した。
星が示したタクの『運命の相手』は、実は＜リク＞の世界の『人間』だけでなく、縁が複雑に絡み過ぎて、誰が相手になるのかが、誰にも理解らなかったから、マコトはずっと手中の中で大切に保護していたと言った。
それなのに、いつの間にか『人間』であるリューヤと出会い、『運命の相手』として選んでしまったから、だから一端は諦めて認めもした。
だが、＜カイ＞の世界の神である『龍神』が望むのなら、タクを『人魚』に戻して捧げなければならない―――と。
その言葉を聞いた途端に、リューヤは愕然として・・・次の瞬間その場から駆け出した。
色々な感情が嵐のように全身を駆け抜けて、頭が真っ白なまま、リューヤは走り続けた。
そうして気付いた時には、目の前に広がったのは、今は失われた故郷だった。
―――＜隠仁（おに）＞の隠れ里。
今は誰もいないその地で、『人間』となったタクと一緒に住む事が、リューヤの秘めた望みでもあったのに・・・。
獣のような咆哮を上げて、リューヤは慟哭した。
いつの間にか降り始めた雨が、そんなリューヤの姿を覆い隠すように包み込んだ。
『・・・リューヤ・・・』
雨に混じって、優しい声が響く。
穴が開いてしまったような胸の中に染み込むような言葉に、リューヤはぼんやりと視線を上げた。
そうして、目の前の景色に溶け込むようなタクの姿を見た。
「・・・・・・・・」
信じられない光景に、リューヤは言葉が出なかった。
おぼろげなタクは、輪郭をゆらゆらさせながら、リューヤに向かって微笑った。
『・・・待って・・・る・・・から・・・ずっと・・・』
消えてしまいそうな姿に、思わず差し出した手が、すり抜けてリューヤは辛そうに眉を寄せた。
「―――タク！」
『・・・大好き・・・リューヤ・・・』
触れ合えない事に、タクも寂しげな笑みを受かべて・・・そうしてフワリとリューヤに寄り添った。
『・・・やくそく・・・』
いつものように背伸びをして、タクはそっとリューヤの唇に触れるようにキスをした。
「・・・っ！」
我慢できなくて、抱き締めようとしたリューヤの腕がタクを抱き締める事は適わなくて・・・そのまま掻き消えるようにタクの姿は雨の雫に消えてしまった。
リューヤの頬にも、雨とは違う滴が流れ伝う。
真っ直ぐ前を向いたまま、リューヤは長い間その場に立ち尽くしていた。

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