赤の海竜王が沈んでいった海溝へ、同じように沈んでいこうとした彼は、海水を通して伝わってきた波動に気付いて、ゆっくりと瞳を開けた。
＜ウエ＞に向けた視界に広がったのは、脳裏に焼き付いていた緋色の髪。
そして、ずっと見たかったアクアマリンの綺麗な瞳。
焦がれるように、彼はその幻想を抱き締めるように両腕を広げた。
“アァ・・・夢ノヨウダ・・・”
身体の中から、温かな何かが湧き上がって胸を締め付ける。
満たされた感覚が、全身を突き抜けて・・・漸く、彼は過去の竜王たちの『想い』に気付いた。
愛しい護り子たちを、傷付ける事なんて、慈愛と叡智の塊の彼等にできる筈もない。
最期に見れた幸せな幻想に、彼は溢れる想いのままに、微笑んだ。
『・・・何時マデモ・・・幸セヲ・・・願ウ・・・・・・』
そっと呟くように、『声音（こえ）』を発した。
次の瞬間、幻想は確かな衝撃と共に、彼の腕の中へ飛び込んできた。

余りにも想定外の現象に、彼は素で驚いた。
一瞬、頭の中が真っ白になる。
『―――お願い、消えないでっ！！』
大きなアクアマリンの瞳から、キラキラと光の粒が零れ落ちる。
告げられた言葉に、彼は目の前の相手が幻想などでは無くて本物のタクなのだと、漸く理解した。
だが、動揺は収まらない。
彼の役目は終わった筈なのだ。
それなのに・・・何故？―――と。
どんなに記憶の中を探しても、答えは見つからなくて、硬直したまま彼はタクを凝視した。
そんな彼に対して何を考えたのか、タクは彼の腕の中で彼を抱き返して、そのまま尾鰭を器用に動かして、上に向かって泳ぎ始める。
小さくて細い身体なのに、必死で泳いで彼を持ち上げようとするタクの姿に、彼は途方に暮れた。
どうすれば良いのか、全く考えられなくて。
暗い海の色が、上に行くにつれて色を変えていく。
柔らかな月光が届く海中で、彼は酷く息苦しくなった。
傷付いた身体の個所ではなく、胸が痛くて溜まらない。
一気に泳いだ所為で、疲れが出たのかタクの腕の力が弱まる。
だが、最後までタクは彼を離さなかった。
『人魚』の姿のタクは、意識を全部奪うほど、綺麗だった。
海底で眠ったままのタクとは全く違う輝き。
―――生きている姿。
彼の『輝（ヒカリ）』は、何処までも眩しかった。
余りの眩しさに、彼はほんの少しだけ目線を落とす。
“・・・ナゼ・・・？”
小さな波動で問い掛けると、タクはそっと彼の手に自分の手を重ねた。
“一杯、助けてくれた・・・”
柔らかく響くような波動が、彼に伝わる。
“・・・俺ハ・・・”
“・・・さっき、目が覚めた後で、周りを見て・・・理解ったの。―――ボクの贈り物・・・全部、ちゃんとあって・・・凄く嬉しかった。アナタノの声も、本当はずっと聞こえてた・・・でも・・・”
思わず身動いた彼に、タクは少しだけ悲しそうな顔をした。
“・・・ごめんなさい。ボクは・・・リューヤを好きなの。ずっと一緒に居たい・・・だから『人間』になりたい・・・の。＜カイ＞の者なのに、＜リク＞に憧れるのは、いけない事だとしても・・・”
重なった指先から、タクの心が流れ込んでくる。
彼は、指先を絡めて、そのまま指先に口付けた。
“―――理解ッテイタ・・・オ前ノ心ガ何処ニアルノカモ・・・。『絆』ヲ試スヨウナ真似ヲシテ、スマナカッタ。”
彼の言葉に、タクは小さくフルフルと首を横に振る。
そうして、見惚れそうな程綺麗な微笑を浮かべた。
“・・・ありがとう。”
柔らかな声と共に、タクは彼を見上げると、飛び上がるようにして彼の頭を両手で抱え込んだ。
“――――――”
瞠目した彼の髪を指先で掻き分けると、酷い傷跡が残っている額が顕れる。
力の源でもあった角があった場所。
無理やり引き抜いた所為で、抉られた様な痕が残っていた。
そこにタクはそっと口付けた。
ビクンと、彼の身体が硬直する。
柔らかな感触が触れた個所が、熱を持ったように酷く熱くなる。
“・・・どうか・・・”
流れ込んでくるタクの祈りが、彼の中に流れ込んできて・・・額が焼けるようだ。
『人魚』の治癒力を使っているのだと彼が気付いた時には、醜く引き攣れたような傷跡が薄れて、跡形もなく消えていく。
そうして、綺麗になった個所が盛り上がって、新たな角が生えた。
それを確認したタクは、漸く唇を離した。
すると小さかったそれが、目の前でどんどんに立派に大きくなっていく。
同時に、彼の中から失われた筈の強大な力が戻ってくる。
“・・・何ヲ・・・シタ・・・？”
己の変化に愕然としながら視線を向けた彼に向かって、タクは微笑った。
“ボクが眠っている時に、深淵の魔女がやってきて・・・ボクは、沢山教えて貰った。リューヤの事もマコト兄さんの事も・・・アナタの事も。禁忌の海域から出ない筈のアナタがどうして＜リク＞にいたのかも、全部・・・ボクの為だって・・・”
アクアマリンの瞳が、ゆるりと揺れる。
タクの言葉に、彼は辛そうに瞳を伏せた。
“さっき、リューヤと一緒に上に向かっていたら・・・アナタが沈んでいくのが見えたの。そうしたら、胸が苦しくて辛くて・・・痛くて。どうしたら良いのか理解んなかったら、リューヤが・・・背中を押してくれたの・・・”
だが、続けられた言葉は思いもよらなかったもので。
“・・・まだ、決着が付いてないから、アナタを連れてこい・・・って。ふふ・・・凄いでしょ？何にも言わなくても、リューヤはボクの事を一番良く知ってくれる・・・”
ほんのりと頬を染めながら、タクは幸せそうにそう告げた。
“俺ハ・・・”
その貌に見惚れながら、胸に突き刺さる様な痛みに、彼は途方にくれた。
叡智を誇る海竜の力を取り戻した筈の彼でも、理解らない『未知の運命』。
彼の考えていた『未来（さき）』では、ありえない展開が次から次へと顕れて、運命の歯車が勝手に転がり始める。
目を閉じて逡巡していた彼は、少しの沈黙の後で、漸く決心したように・・・タクの身体を抱き締めた。
そうして、次の瞬間には『赤の神殿』の露台へと飛翔していた。

すっかり威厳を取り戻した『龍神』は、月の光の元で神々しいまでの輝きを放つ。
その腕に抱かれているのは、緋色の髪と桜色の尾鰭を持った綺麗な『人魚』。
神話の世界のように美しい光景に、ヒザキは言葉もなく魅入られたように視線が外せなかった。
『リューヤ！』
『龍神』の腕の中の『人魚』のアクアマリンの瞳が、嬉しそうに細められる。
呼ばれたのは、先程海から上がってきた男だ。
散々『龍神』と死闘を繰り広げて、海原に放り出された男に向かって『人魚』は手を差し伸べる。
険しい表情は、変わらず『龍神』を睨みつけている。
「―――勝ち逃げは、許さない・・・」
『俺は、力を取り戻した。さっきのようにはいかない。』
刀を構えた男と、『龍神』が対峙する。
途端に、背後の海原が大きくうねり出し、海が荒れた。
『・・・だ・・・・ダメーーーーッッ！！』
超音波のような音が、神殿内に響き渡る。
男が苦悶の表情を浮かべ、『龍神』も酷く眉を潜めた。
叫んだのは『人魚』だった。
そうして、ポロポロと泣き始める。
『―――タク？』
「・・・タ・・・ク・・・」
同時に声が響く。
『リューヤも海神様も・・・戦っちゃやだ・・・』
フルフルと首を横に振りながら、泣きじゃくる『人魚』に、一触即発だった緊張感が消えて、オロオロとした空気が辺りに漂う。
「全く。・・・すっかり、気が抜けちまったよ・・・」
腰に手を当てて、魔女が溜め息を零す。
「―――＜リク＞で『人魚』を泣かすんじゃないって、散々言ってるだろ？この馬鹿者たちが・・・」
呆れたように言う魔女に、『人魚』が涙に潤んだ瞳を向ける。
魔女は艶然と微笑むと、『人魚』の顎を持った。
その場に緊張感が漂う。
そんな場の雰囲気を物ともせずに、魔女はそのままキョトンと自分を見つめていた『人魚』に口付けた。
「・・・っ！！」
『―――――――――』
瞬時に真っ赤になった男と、驚愕に瞳を見開く『龍神』。
キスされた『人魚』は、声も無く大きな瞳を更に見開いている。
ボンッ！
大きな音と共に音が爆ぜて、辺りが煙に包まれる。
「・・・まぁ、結構楽しませてくれたお礼に、無償で『願い』を叶えてやるよ。」
視界のきかない中で、何処からか魔女の楽しそうな声が響いた。
そうして、漸く煙が収まって辺りが見渡せるようになった時、魔女の姿は何処にもなくなっていた。
そして『龍神』の腕の中に居たのは―――。
「―――タクッ！」
叫んだ男が、『龍神』からひったくるようにその身体を抱き締めた。
「・・・え？・・・ボク・・・戻って・・・？―――リューヤっっ！！」
茫然と言葉が零れ落ちた後で、タクは感極まったように自分を抱き締めるリューヤに抱き付いた。
そんな二人の姿を見た後で、『龍神』は表情を失くして、空になった己の腕をだらりと落とした。
緋い瞳が、自嘲気味な色を醸し出して・・・そうして浮かんだのは微笑だった。

運命の傍観者だと言っていた筈の、魔女の心まで変えてしまうほどの『絆』。
彼の唯一の『輝』がそれを望むのなら、答えはもう出てしまっている。
変えられなかった『未来（さき）』。
大切な『人魚』は、彼の助けを必要とする事は、もう無い。
クルリと背を向けようとした彼は、次の瞬間瞳を見開いた。
リューヤの腕の中から伸ばされたタクの指先―――タクの左手が、彼の手に触れたからだ。
「・・・待って・・・」
小さな声が、響く。
不安に揺れるその音に、彼は辛そうに眉を潜める。
そうして、その指先に別れのキスを落とした。
『―――お前の幸せを・・・願う。・・・タク。』
静かに告げる言葉に、タクは泣きそうな顔をした。
『悲しむ事はない。俺はいつでもお前を見守っている。お前が呼べば何処へでも飛翔んでいく。』
柔らかな表情でそう告げた後、彼はリューヤを睨み付けた。
『―――気を抜けば、いつでも奪う。忘れるな。』
突き付けるようにそう告げると、今度こそ彼は背を向けた。
眼前に広がる何処までも深い藍色の海原が、彼を迎え入れるように輝いた次の瞬間、彼の姿は吸い込まれるかのようにその藍の中に飛翔した。
月光を浴びた銀髪が、風にたなびく。
神々しい『海龍神』の姿に戻った彼は、やがて一条の銀の光となって海底へと消えて行った。

その後、『赤の神殿』は大騒ぎだった。
いつまでも戻らない領主を捜しにきた者達と、何故か途中から軍船で合流したナツオ王直々に率いてきた海軍によって、遺跡の静寂は破られた。
「―――タクちゃんっ！」
最初に飛び込んできたのは、豪華な衣装に身を包んだ南海王だった。
相変わらず超過保護なタクの兄は、あっという間にリューヤからタクを奪い取ってその腕に抱え込んで頬ずりしている。
「ちょっ・・・マコト兄さん・・・」
その腕の中でオロオロしながら、タクは困ったようにリューヤを見た。
小さく嘆息して、リューヤはそんなタクをクシャッと撫でた。
そうして、マコトの後ろからやってきたナツオ王に視線を向ける。
「―――どうだった？＜神＞は強かったか？」
気軽に尋ねるナツオ王に、リューヤは少しだけ眉を潜める。
「・・・勝てませんでした。」
端的に答えると、ナツオ王は破顔した。
「生き残って、奪い返した時点で、お前の勝ちだ。」
「・・・・・・・・」
続けられた言葉に、漸くリューヤも苦笑する。
そういう考え方もあるのだと、初めて気付いた自分がどれだけ必死で滑稽だったのか、今になって理解した。
「・・・ふざけるなっ！！」
「―――ヒザキ様？！」
激しい激昂が、辺りに響き渡る。
従者の止めるのも無視してズカズカと近付いたヒザキは、次の瞬間、リューヤを殴った。
不意を付かれたリューヤの身体が吹き飛ぶ。
「―――っ！」
空気が緊張を孕んだが、ヒザキの怒りは収まらない。
紫の髪が振り乱され、深い蒼の瞳が強い光を放った。
「『龍神』が・・・セロニアスが、どんな思いでいたのかも、知らないくせにっ！！」
怒声は、ヒザキの直接伝えられなかった想いだ。
見ている事しか―――本当に傍観者でしかなかった自分の立場が悔しくて、悲しくて。
信仰なんて無かった。
祈りなんて馬鹿馬鹿しいと思っていた。
＜カイ＞の世界の事なんて、全部嫌いで、自分も含めて無くなってしまえば良いとまで、ずっと冷めた心で生きてきた。
そんなヒザキを、『竜神』は否定しなかった。
相手にされなかっただけかもしれない・・・それでも。
数える程しか会わなかったヒザキでも、『竜神』がどれ程この男を辛抱強く待っていたのかを、今夜の出来事で理解したのだ。
恐らくは・・・この今は人間の姿になっている『人魚』の為に・・・。
ギリッと唇を噛み締めて、ヒザキは拳を握りしめた。
初めて人を殴った拳は痛くて仕方なかったけれど、それ以上に息苦しくて胸が痛くて。
「奪い返したんじゃないっ！！あいつは、最初から・・・ずっと・・・」
言葉が途切れる。
言いたい事が山ほどあるのに、声が出ない。
『竜神』が何も言わずに消えたのに、ヒザキが言ってよい事じゃないのを理解っているからだ。
それでも、気持ちが収まらない。
仁王立ちしたまま、全身を怒りに奮わせていたヒザキの握り拳を、そっと掴む手があった。
睨み付けるように振り返ったら、そこに印象的な黒曜石の瞳があって、ヒザキを見詰めていた。
「・・・ありがとう。」
柔らかな礼が、そのさくらんぼのような唇から零れた。
ヒザキの拳を包んで、そこにキスをされる。
途端に、腕の痛みが消えた。
「こんなに海神様を想ってくれる人がいて・・・良かった・・・」
柔らかな微笑が溢れる。
「―――タク・・・。」
いつの間にか立ち上がったリューヤが、目線を落とす。
「すまん。」
ナツオ王も謝罪した。
マコトに睨みつけられて、肩を竦めている。
タクは、ゆっくりとヒザキを見上げた。
「アナタがいるなら・・・大丈夫。あのね―――」
そう言って、見惚れて声も出ないヒザキに向かって、綺麗というよりは可愛い元『人魚』は花が綻ぶように笑った。

時の止まった海底で、彼は微睡んでいた。
「―――寝てんのか？セロニアス・・・」
小さな呟きが降ってくる。
その声に呼ばれるように、『龍神』は目を覚ました。
そうして、仏頂面で目の前に立っていた男を視界に捉えて、密かに眉を寄せた。
何かを言おうとして、ゴボリッと泡を吐き出す。
音が出ない事に気付いて、彼はここが海底だった事を漸く思い出した。
“・・・・・・・・・・・”
無言で、目の前の男を凝視する。
「・・・ったく、辛気臭ぇトコだな。こんなトコで昼寝なんかしてんなら、神殿に戻ってこい。」
居心地悪そうに立っていたのはヒザキだった。
いくら＜カイ＞の世界の血と守りを持っていたとしても、＜リク＞の世界の者が禁忌の場所まで辿り着く事はありえない。
“・・・ヒザキ？”
彼の問い掛けに、ヒザキはそっぽを向いた。
「・・・た・・・タクとかいう『人魚』が、懇願すっから・・・仕方なく・・・って言うか・・・」
ボソボソと告げるヒザキの全身を、薄い膜が覆っている事に彼は気付いた。
目を細めて、懐かしい波動を受け止める。
“アァ。『人魚ノ雫』ヲ使ッタノカ・・・。懇願？何ガアッタ・・・”
ヒザキの言葉に、彼の声が強くなる。
微睡んでいる内に、何かを見落としたのか―――と。
そんな彼を見て、ヒザキは少しだけ口端を持ち上げた。
「―――いや。俺に、お前の友達になって欲しい・・・と。」
そうして、口から吐き出されたのは、呆れる程馬鹿馬鹿しい『詞（オモイ）』。
その響きを受け止めた『龍神』は、本気で驚いたように瞠目した。
“・・・・ハ？”
間の抜けた波動が、海底に広がっていく。
「・・・だから、あいつが言うには、お前は凄く優しくて強くて綺麗で・・・って、何で俺がこんな事言わなきゃなんねぇんだ？―――つまり、何でも一人で出来るけど・・・独りにならないで・・・だとよ。」
波に揺れる髪を掻き揚げながら、ヒザキは彼と視線を合わせないままで、ぶっきら棒にそう告げた。
その言い方が、彼の記憶の中の琴線に触れる。
赤の海竜王が気を許していた＜カイ＞の青年の姿が、ヒザキとだぶる。
紫の髪に、蒼の瞳・・・。
もしも生まれ変わりというものが存在するのなら、ヒザキの魂は確かに時の中に消えた友の物なのだろう。
「―――あと・・・」
一瞬、口中で言いよどむ。
だが、顔を上げた緋咲はまっすぐに彼を捉えた。
「待ってて―――だとよ。そう、伝えてくれれば理解る筈だから・・・って、おいっ！どうした？！」
ヒザキの目の前で、彼の全身が震え始める。
光の届かない海底の筈なのに、自ら輝くような姿が、歓喜の燐光を放つ。
“・・・ソウカ・・・”
震える響きが辺りを振動させる。
彼の鬣と、ヒザキの髪が海水に揺られて広がった。
「んで、どうすんだ？」
問うヒザキに応えるように、彼は人型になった。
そうして、ヒザキに向かって手を差し出した。
『旨い酒はあるんだろうな。』
「―――とびっきりの秘酒を飲ませてやるよ！」
差し出された手を掴んで、ヒザキは嬉しそうに笑った。