ヨコスカで行われる月に一度の『海神祭』。
九つ月のそれは、いつもと海の様子が違っていた。
長い航海をする旅船の無事を祈願する為に、＜カイ＞の世界に近いヨコスカ領内で遥か昔から行われてきた儀式。
古の文献では、海底深くに海竜王が沈んだと言われている場所。
この海を支配していた海竜の冠には赤色が使われていた為に、『赤の神殿』と呼ばれていた遺跡で、儀式を行うのは代々この地を治めてきた領主の直系。
現ヨコスカ領の権主は、ヒザキ家の一人息子であるカオル＝ヒザキだった。
病気で他界した父親の後を継いで、今春からヨコスカ領を拝任しているのだが、はっきり言って彼は古臭い儀式が好きでは無かった。
家宝だと言われている、その昔に先祖が『竜神』から賜ったという“短剣”と“指輪”は、確かに見事な物だったので、所用しているが、すっかり＜カイ＞の世界と接触の無い今、『祈り』など何の意味もないだろうと思っていた。
風が吹けば海が荒れるし、嵐になれば帆船などあっという間に沈んでしまう。
昔は、海竜神の怒りだと恐れられていたが、今では季節によって変わる風向きと海流の所為で波が変化する事も理解っている。
総ての事象を、伝説の生き物に当て嵌めようとして、儀式を続ける意味が果たしてあるのかどうか・・・。
尤も祭りを行えば、人が集まり自然と土地が潤うので、開催する事に異論はない。
問題は、祭りの最中に領主として『赤の神殿』に籠って、祈りを捧げなくてはならない事だ。
―――面倒くさい・・・。
簡潔に言えば、それが本音だ。
偶像に向かって、『願う』事はどれ程無意味な事なのだろうか・・・と。
神殿内の祈りの間で、やさぐれながらヒザキは懐に隠し持っていた煙草を取り出した。
祈りの最中は絶対禁煙を、最初に口煩い部下に嫌というほど聞かされていたが、その相手が現在重傷で寝込んでおり、お目付け役がいないので、彼はここぞとばかりに吸い出した。
「――――――」
大きく息を吸い込んで、肺を循環させた紫煙を吐き出す。
元々ヘビースモーカーな彼が、半日も我慢したのだ。
ヒザキは口に煙草を咥えたまま、祈りの間から出て歩き出した。
この地でも珍しい彼の紫の髪が、海を渡る潮風に吹かれてたなびく。
眼下に海原が広がる回廊まで歩いてくると、そのまま柱の一つに寄り掛かった。
視界に映る海の色は、先月の祭りの夜から一変していた。
青く美しく輝いていた海面が、今は何処までも深い藍に彩られている。
先月の海神祭りの最中に、居住でもあるヨコスカ城に寄せられたのは信じられない情報だった。
＜カマクラ領主が、頬に傷のある男を、捜している模様。『秘宝』と関係あり。＞
城に投げ込まれた怪文書に書かれていた文を、最初は悪戯だろうと取り上げなかった。
だがトーナメントに出場している者の中に、確かに頬に傷を持つ男がいるのを確認した時から、興味が沸いたのだ。
だから信頼している近衛隊である“ロクサーヌ”に指示を出したのだが・・・。
結果は惨憺たるものだった。
海上の城砦と呼ばれている城の目前で、彼等は得体の知れない者に襲われて、全滅した。
虫の息である者達を、異変に気付いた門番が助けに行った時には、その場には誰もいなかったらしいが。
「―――人魚・・・か。」
ポケットに無造作に突っ込んでいた細工箱の中から、透明なガラス玉を取り出す。
“人魚の雫”と呼ばれて、市場に出回っている物の殆どは紛い物だ。
伝説の生き物である＜人魚＞の涙など、誰も見た事がないのだから、真偽を見極められないので、沢山出回っているが、ツチヤもアイガもこれは本物だと寝込んでいるベッドの上でそう告げた。
城に連れてこようとした人物の瞳から零れた涙が、これになったのだ・・・と。
箱の中には、同じ物が幾つもあった。
確かに大きさも均一ではないし、中には歪な形の物もある。
彼等が嘘を言っているとは思えなかったが、信憑性は今一つだ。
遥か遠くに、陽が傾いていく。
指先で弄んでいたガラス玉を箱に入れて、ヒザキはまたポケットに戻す。
港の方から、祭りの終了の合図とも言える法螺が鳴り響く。
これで、今回の彼の仕事も終了だ。
祈りの間に戻って、迎えの者がやってくるのを神妙な面持ちで待っていれば良い。
寄り掛かっていた柱から離れて、元の場所に戻ろうと踵を返す。
短くなってしまった煙草を捨てて、新しい煙草に火を点けようとしたヒザキは、背後の違和感に気付いて振り返った。
口に咥えていた煙草が、落ちて床を転がった。
目の前に、一人の青年が立っていた。
夕暮れの朱に染まった海原を背に、まるで今そこから上がってきたかのような姿で、佇んでいる。
言葉もなく見つめてしまったヒザキの存在に気付いた青年は、少しだけ表情を歪めた。
“マダ、人間ガ残ッテイタカ・・・”
直接、耳に届くその音に、ヒザキの意識は捕り込まれた。
銀の髪に緋色の瞳を持ち、日に焼けた所為では決してない褐色の肌の色。
余りにも異質な容貌と、更にその全身から漲る神気。
「・・・っ！」
驚愕と畏怖がない交ぜになった表情で、ヒザキが一歩後ずさる。
相手は静かに佇んでいるだけなのに、圧倒的な威圧感に背筋がゾクリと粟立った。
“オ前ニ用ハ無イ。サッサトココカラ立チ去レ。”
絶対的な命令と共に、強烈な波動がヒザキを襲う。
吹き飛ばされそうな勢いだが、何かに守られているかのようにヒザキの身体はその場から飛ばされなかった。
“ソレハ、竜王ノ守リ・・・。ソウカ、オ前ハ・・・。”
緋い瞳を細めてヒザキを見遣ると、青年は一瞬懐かしむように視線を流して、背を向けた。
“出直ソウ。”
そう一言残すと、眼下の大海原へと身を翻した。
青年の身体以上の巨大な水柱が立って、盛り上がった海水が、神殿にまで押し寄せてヒザキの踝辺りまで水浸しになった。
波のうねりが収まった後、眼下の海はいつも通りの凪を取り戻した。
まるで今の出来事が全部夢だったとでもいうように、視界に映る海は変わらない。
だが、濡れた足の感触が、それを完全に否定している。
「・・・・・・」
言葉もなく、ヒザキは立ち尽くした。
たった今目の前で起こった出来事に魂を奪われてしまったかのように―――。
その後、彼を迎えに来た部下たちが、祈りの間に居ない彼を捜して回廊までやってくるまで、ヒザキはその場から動けなかった。

＜カイ＞の裂け目とも言われている海溝の傍の海底。
禁忌の海域と呼ばれているその場所で、タクは横たわっていた。
陸から取り戻した『人魚』は、今もその瞳を固く閉じたままだ。

あの夜、彼の腕の中で取り戻した筈の『人魚』は、必死に『人間』に向かって手を伸ばしていた。
それを引き裂くように、海竜である彼はその身体を抱えて海の世界に戻ったのだ。
魔女の薬で『人間』と同じように空気を吸うように変化したタクの身体は、水の中で息をする事が出来なくなっていた。
身体の中の空気が、総て口から泡となって消えていくと同時に、息苦しさに辛そうな表情を浮かべたタクに、彼は口付けた。
嫌がって逃れようとする身体を押さえつけて、そうして海の息吹をその身体の中に吹き込んだ。
抵抗する力が失われて、涙を湛えた大きな瞳がゆっくりと閉じられるまで、彼はずっとその状態を崩さなかった。
意識を失って、全身から力が抜け落ちたタクは、彼の目の前で見る見るうちに『人間』の姿から『人魚』に戻った。
黒かった髪が、鮮やかな色を取り戻す。
切ってしまった所為で、長さは戻らなかったが、時が経てばまたあの美しい緋色が広がるだろうか。
桜貝のような淡い珊瑚色の尾鰭に戻ったタクの美しい姿は、彼の意識の全てを奪った。
月の光が差し込む＜カイ＞の世界で、タクの姿は恐ろしく綺麗で儚げだった。
彼の持つ竜王の記憶の中には、もっと艶やかで麗しい『人魚』の姿もあったが、彼に取っては過去の虚映の中の美女よりも、目の前に存在するタクの方がずっと美しいと思えた。
意識を失ったタクを腕に抱き締めたまま、彼は海底に潜った。
そこには、深淵の魔女が待っていた。
「間に合ったようだねぇ・・・」
面白そうに哂う魔女と、彼は無言で対峙した。
魔女の口車に乗って動いてしまった事は紛れもない事実だ。
それが、世界の均衡を崩す事になろうとも・・・彼は選んでしまった。
もう、元には戻れない。
「そんなに、タクが泡になるのは嫌なのかい？たかが『人魚』に、＜神＞と呼ばれた海竜族であるお前が総てを投げ出す価値があると？」
魔女の言葉に、彼は緋い瞳を真紅に変える。
途端に、海流が渦を巻いて魔女を襲う。
「おやおや？随分と感情的になっちまったもんだねぇ。まぁ、アタシはあくまでも傍観者でしかないから、運命の歯車がどう動くか見てる事しかできないが・・・同じ＜カイ＞の者としては、あんたにも頑張ってほしいと思ってるんだよ。」
襲い掛かる渦を、あっさりと退けながら、魔女はしたり顔で嘯く。
相手にはしてられないと、彼は背を向けた。
そうして、額に現した角を無造作に掴むと、それを力任せに引き抜いた。
強烈な痛みと共に、辺りに血が飛び散る。
“・・・持ッテ・・・イケ・・・”
フラリと身体を揺らしたが、腕の中のタクを手放さずに彼は魔女に対価の角を差し出した。
そんな彼に対して魔女の方が驚愕したようで、嘲るように見下していた瞳を大きく見開いて、固まっている。
「あ・・・あんた・・・」
“コレガ欲シカッタノダロウ？”
額から溢れる血にも表情を変えずに、彼は魔女を真っ直ぐに見返した。
その瞳に湛えられているのは、慈愛の『色彩（いろ）』。
竜王であった彼のものと同じ眼差し。
ギリッと唇を噛み締めて、魔女は彼を睨み返した。
「あんたら一族は、本当に馬鹿ばっかりだよ！無償の愛情を相手に与えるばっかりで・・・なんで欲しがらない？！力があるんなら、総てを手に入れちまえば良いじゃないかっ！」
怒ったように叫ぶ魔女に、彼は変わらない静かな瞳を返した。
“無償ジャナイ・・・オレハ、モウ手ニ入レテイル・・・”
そう告げると、彼は魔女の元を去った。

彼が長い間佇んでいた海底は、赤の神殿の真下だった。
海溝に沈んだ海竜王の最期の場所。
赤の神殿は、彼を崇めたてる為に建立されたのに、今では巨大な墓石だ。
竜王が傷付き穢されて海溝に沈んだ時、この辺りの海域は一面『紅（あか）』に染まった。
波は荒れ、低い陸地を飲み込み、船も人も大勢が犠牲になった。
大地を削り取られて、＜リク＞の世界が狭まったのは、遥か昔の話だ。
それでも＜リク＞の者達の勢いは止まらない。
海王たちが＜カイ＞の世界を纏め上げなければ、あのまま＜カイ＞の世界も『人間』に支配されていたかもしれない。
今はまだ人間よりも海王の力が強いので、戦わなかった海竜族とは違って海の主権は守られているが・・・。
色の無い世界に横たわるタクの姿は、あの神殿に残っている石像のようで、生きている感が全く感じられない。
光の届く＜カイ＞の世界でなければ、彼の『輝（ヒカリ）』は失われてしまう。
泡となって消えてしまうのが嫌で、行動を起こしたのに、心が無い抜け殻になってしまうのでは全く意味がない。
あの夜から、総てを拒絶するように眠りについたままのタクの傍らに彼は寄り添う。
抱き上げた身体は、冷たい彼の身体よりもずっと温かいのに、生命力に満ち溢れたアクアマリンの瞳は閉じられたまま。
“・・・タク・・・”
あの夜の様に、彼は呼びかける。
幾度も・・・幾度も。
あの時は、彼の呼びかけに応えるように開かれた美しい瞳だったが、今は固く閉じたままで、彼を見つめる事もない。
彼の眼差しが辛そうに伏せられる。
弱い人間と『生命（いのち）』を交わして、『運命の相手』として儀式を行ってしまったタクの存在は、『人魚』でいた時よりも更に不安定だった。
『人間』になる為に、魔女の薬を服用しているタクに副作用が出るのもその所為だ。
無理やり身体を変えているのだから、何処かでそれを補うために力を奪われている。
更に、海の中でなら大丈夫でも、＜リク＞で泣く度に零れ落ちる涙の所為で、少しずつ体力が奪われて、酷く衰弱していた。
最初に月光の下で再会した時に、その事に気付いた彼は、本当はその場でタクを＜カイ＞に連れてくるつもりだった。
だが、傷付いた＜リク＞の者を慕うタクの姿に、一度は諦めたのだ。
そうして、魔女が再び現れるまで、彼はただ黙認していただけだった。
なのに、予言のように告げる魔女の『詞（こえ）』に身体が動いてしまった。
ぐったりとしていたタクの指先が、おぼろげな燐光を放っているのを確認した瞬間に、意識が真っ白になって、次の瞬間には＜リク＞の世界へと飛び出していた。
あのままではタクは確実に消滅していた。
＜リク＞の者との間に何があったのかは理解らない。
それでも、あの場所にいたのはタクだけで、今にも夜露に溶けてしまいそうだったから。
だから、彼は選んでしまった。
望んでしまった。
消えてしまうというのなら・・・この手に―――と。
ゆっくりと顔を近付ける。
柔らかな唇に、自分のそれを重ねる。
あの夜から何度も行っている行為。
『人間』でいる為に無意識に力を使い続けているタクの身体の均衡を取り戻すためには、どうしても『人魚』の姿でなければならないのだ。
本来の姿で、海の息吹を全身に与えて、弱まってしまった『生命』の力を取り戻させなければ、泡になるのを避けられない。
『運命の相手』と相思相愛になり想いが成就すれば、願いが叶うなどというのはあくまでも仮定の話であって、本当に実現できた事実は過去にない。
それは、彼の持っている竜王の記憶の中にも無かった。
竜王の流した血から生まれた彼も、暁の光の泡から生まれたタクも、存在理由は同じなのかもしれない。
確かな器を持って生まれた者達とは違うから、その分、相対する者に求めるのだろう―――足りない物を。
“ひとりは、さびしいよ・・・”
遠い昔に告げられた小さな言葉。
彼にその感情を植え付けたのは、他の誰でもなくタクだったのに・・・。
“サビシイ・・・一人ハ淋シイ・・・。”
呟いて、彼はそっとタクの頬を撫でる。
触れても、言葉は波動で帰ってこない。
耳に響く柔らかな声も、聞こえない。
泡になって欲しくなかったから・・・消えないで欲しかったから、世界の秩序を破って動いたのに。
自分の行動は間違っていたのだろうか？
魔女は、彼もタクの『運命の相手』だと言った。
もしも、もっと早く・・・あの『人間』よりも先に再会していたら、歯車は違った動きで回り始めたのだろうか？
理解らない・・・今となってはもう。
タクの身体を海底に静かに横倒わせて、彼は立ち上がった。
そうして、海底を蹴る。
目指すは頭上の『赤の神殿』。
あそこで待つと告げたからには、行かなくてはならない。
喩えどんなに待っても無駄だとしても・・・。
ただの『人間』である＜リク＞の者が、＜カイ＞の世界の神でもあった海竜族に敵う筈もない。
それでも、彼は確認したかったのだ。
総てを懸けても、あの男がタクを護る事を選べるかどうか。
だが、未だにその姿は現れない。
眠りについているままのタクの右手に現れた痣が消えない限り、二人の絆は途切れない。
喩えあの『人間』が死んだとしても、今のタクが泡となって消える事は無いが・・・。
『赤の神殿』から、月光の下の＜リク＞の世界を眺めながら・・・彼は待ち続けた。