昼近くになって、タクは漸く起き上がれるようになった。
何時の間にかまた寝ていたらしく、その間にリューヤが頼んでいた食事が部屋に届いた。
穀物がメインの食事は、野菜スープや果物やキノコなどが使われていて、魚や肉は見当たらなかった。
その事に気付いたタクは、嬉しくてギュッとリューヤに抱き付いた。
嬉しそうに口にして、その美味しさに先程までの気分の悪さなど吹き飛ばしたかのようにニコニコと笑顔を見せるタクに、満足したようにリューヤも目元を和らげた。
そうして、二人で仲良く分け合って、美味しく食べた後で、食事のお礼も兼ねて昨日の酒場へ足を運んだ。
昼過ぎの酒場は夜程の喧騒はなかったけれど、それでも旨い料理と酒を求める者達が集まっていた。
「いらっしゃ・・・って、来てくれたんだ！昨夜は、気まずい思いをさせてすまなかったね。」
二人の姿を見つけた店主が、笑顔で迎えてくれた。
「いや。こちらこそ、旨い料理を頂いた。」
「あの・・・ご馳走様でした。」
カウンターに座って、二人でお礼を告げると、店主の笑みが更に深まった。
「ははっ、気に入ってもらえて何よりだよ。ウチの料理に金貨分の価値があるとは流石に恐縮しちゃうから、あれでも一番高い材料を使ったんだ。それより、あれほんとに飲めたのか？」
ふと、声を潜めて問う店主に、リューヤは少しだけ目線を下げた。
「飲めるようだが・・・」
「甘くて美味しかった。・・・でも、なんかフワフワして、ポカポカして・・・幸せで、眠たくなるの。」
呟いたリューヤの言葉に重なるように、タクは飲んだ感想を口にした。
「フワフワで、ポカポカ？」
余りにも抽象的な言葉に、店主がキョトンと目を丸くする。
「―――体質に寄るのか理解らないが、摂取後、酒を飲んだように酔っぱらうようだ。」
「はぁ？」
「天然の果実酒に近いんだろう。俺が口にしても甘いだけで、全く理解らなかったが・・・」
「・・・果実酒？ふーん・・・俺も昨日舐めたけど、別に酒って感じじゃなかったけどなぁ。あれ？じゃあやっぱ飲めたんだ。中が空洞な細い海草なんて俺、見た事ないんだけど・・・何処手に入れたんだ？」
「いや。あの花の茎で代用した。」
リューヤが指差したのは、店の外に置いてあった綺麗な花が沢山咲いている花壇。
同じように視線を流した店主は、納得したように大きく頷いた。
「あぁ！確かに、茎なら中は空洞だな。へぇ・・・甘い果実酒を花の茎で飲むのか。女の子たちが喜びそうなメニューになりそうだ。」
「店に出す前に、一度専門機関に成分を依頼した方が良いと思うが・・・」
新しいメニューを考えてうっとりしている店主に、リューヤが冷めた目付きで呟いた。
「・・・リューヤ？」
「何だ？」
「えっと・・・ボク、よく覚えてないんだけど・・・凄く、気持ち良かった。」
「―――ぶっ！！！」
上目使いのタクが告げた言葉に、店主が咥えていた煙草を吹き出した。
「・・・そうか。」
一瞬の間の後で、リューヤは小さく言葉を発した。
ニコニコ笑ってるタクには悪気は全くない。
感情に素直なタクは、思っている事を全部言ってしまう。
そんなに言葉を覚えている訳ではないから、時に足りない単語の所為で、物凄い意味深な言葉になってしまうのだ。
ゲホゲホと噎せて、水に救いを求めている店主に視線を向けながら、リューヤは妙に達観していた。

酒場を辞した二人は、宿に戻る前に、旅支度を整える為に街中を歩いていた。
次の目的地である都市＜ヨコスカ＞には大きな闘技場があるので、毎月それなりのトーナメントが開かれている情報も手に入れた。
後は、街道沿いの危険な場所と、地元の者だけが使う海路がある事も知った。
様々な情報や必要な品物を手に入れて、二人は宿に向かって歩いていた。
大分、陽は傾いてしまっている。
遥か彼方の山並みに沈んでいく太陽が、一日の終わりを告げる時間帯。
もう少しで宿に辿り着くという場所で、リューヤは足を止めた。
「・・・っぷ。」
キョロキョロしていたタクが、止まり切れなくてリューヤの背中にぶつかるのと、そのまま掬い上げられるのは同時だった。
「しっかり、捕まってろ。」
短く告げると、リューヤは地を蹴った。
「あ、ちょっと・・・待ってくれっ！！」
背後から掛けられた声に、やはり自分たちが目当てかと、リューヤは走る速度を上げた。
腕の中のタクは、リューヤに言われたようにしっかりと両手でしがみ付いている。
追いかけてきたのは、二人。
しかも、蹄の音が響いて、相手が馬に乗っている事にリューヤは小さく舌打ちをした。
走る事に特化した軽い蹄の音に、追いつかれるのも時間の問題だと知ったからだ。
馬が入りずらそうな林の中を駆け抜けた先は、浜辺だった。
日が沈んだ後の薄暗さとはいえ、隠れる場所の無い浜ではあっと言う間に見つかってしまう。
素早く視線を彷徨わせたリューヤは、一槽の船が置かれているのに気付いて、その陰に身を潜めた。
直ぐに浜辺に姿を現したのは、騎乗した二人の男だった。
西方の異国風の服を身に纏って、頭上に被っている布の所為で、顔は見えない。
「―――いたか？」
「いえ・・・。こちらに逃げた気がしたのですが。しかし、あの男は本当に人間ですか？馬の脚から逃げ切るなんて・・・」
「ははは！どうだろうなぁ？」
馬上の会話を聞き取ったリューヤは、その声と笑い方で、相手が昨夜の者達だと確認した。
だが、何の為に自分たちを捜しているのかが理解らないので、陰から出ずに隠れ続けた。
「まぁ、あの小さい方は確実に違うだろう。」
「え？あの子供が、ですか？タイジュ様。」
浜辺を見渡しながら、尚も会話が続けられていく。
徐々に離れていく砂を蹴る音に、漸く詰めていた息を吐き出す。
「＜テン＞の者か・・・＜カイ＞の者か・・・。少なくとも、＜リク＞ではないな。」
だが、遠くから風に乗って聞こえてきた、タイジュと呼ばれた者が発した言葉に、リューヤはガツンと頭を殴られたような衝撃を受けた。
「・・・リューヤ・・・」
腕の中のタクが、震えながら縋りつく。
そんなタクの背中を宥めるように擦ってやりながら、リューヤはゆっくりと彼等の死角になる位置を選んで影を渡るようにその場を離れた。
どうしてバレたのか？
魔女の薬によって変化したタクの姿を見て、今までそんな風に看破した者など一人もいなかったからすっかり油断していたのかもしれない。
もしもタクが＜人魚＞だと発覚すれば、こんな風に旅をする事などできなくなる。
＜人魚＞は、不老不死の霊薬として、昔から多くの者が手に入れようとした『秘宝』でもあるのだ。
多くの＜ニンゲン＞が追い求め、海神の怒りを買って海域から追い出されるまで、数多くの＜人魚＞が捕らわれて悲惨な最期を遂げている。
今となっては神話とも思われている程だ。
だからこそ、リューヤも初めてタクと出会った時に、自分は死んだのだと思っていた。
なのに、伝説の存在が自分を助けてくれた事に、驚愕して・・・その美しさに惹かれて。
命の恩人という以上に、大切な相手になった。
荒唐無稽ともいえる想いであった筈なのに、“運命の相手”としてタクはリューヤを選んでくれた。
そうして、魔女の薬に頼らなくても＜ニンゲン＞になれる手段を、捜す旅をしているのだ。
ここでタクがその＜人魚＞だとバレてしまえば、陸の世界でタクをリューヤだけで守り切るのはどう考えても不可能だった。

宿屋に戻ったら確実に待ち伏せされているだろう事が、容易に思い浮かんで、二人はこのまま街を出る事にした。
旅に必要な物は、昼間に街中で手に入れてあったので、戻らなくても大丈夫だろう。
宿屋の支払いも、先に済ませてあるので問題ない。
心残りがあるとすれば、この街の名物だという美酒にありつけなかった事ぐらいだ。
取りあえず、森の中で野宿の為の場所を確保する。
半径５００ｍの間隔で、用心の為に罠を仕掛けてから、大樹を捜す。
片手でタクを抱えたまま、軽やかに太い幹に足を掛けると、あっと言う間にスルスルと登って枝が入り組んでいる丈夫な位置で身体を固定すると、タクを抱え直してマントに包み込む。
敵を偵察する時によく使っていた方法が、野宿にこれ程適しているとは考えていなかった。
最初は酷く怖がっていたタクも、すっかり慣れたようにリューヤの腕の中で安心したように瞳を閉じている。
完全に身を任せ切って、委ねている信頼に、リューヤは嬉しくなる。
海の者であるタクは、元はリューヤよりも体温が低かった。
薬によって変化してからは、すっかりタクの方が温かくて。
腕の中の温もりがリューヤにも伝わってくる。
眠りの世界に入って、力の抜けてしまったタクの身体をしっかりと抱えた状態で、リューヤは静かに瞳を閉じた。
そうして、先の事を考える。
先程の二人は、まだタクが＜人魚＞とまでは理解っていないようだった。
だから、このまま二度と会わなければ、大丈夫だろう。
着ていた服装から判断すると、西のショウナン地方の出身のようだ。
最終的に、リューヤが目指している場所。
高く聳える『不死（フジ）』と呼ばれる霊峰。
裾野に広がる樹海には、未だに＜テン＞の世界の者である＜天狗（テング）＞や＜鬼神（オニ）＞が生き残っているという伝説もある。
昔のリューヤだったら、眉唾物と一笑していたが、同じ伝説クラスの＜人魚＞と出会ってしまった今では、目を背ける訳にもいかない。
彼等は＜カイ＞の世界の者よりもずっと人に近いので、中には＜ニンゲン＞として生活している者たちもいるという噂だ。
尤も、信心深い新兵たちの酒の上での噂話を、何処まで信じてよいのかも疑問だが。
それでも、少しでも手掛かりになるのなら、どんな眉唾物の話でも良いのだ。
希望が潰えない限りは、一緒に歩いていけるから。
ゆっくりと瞳を開く。
まだタクに告げていない自分の事。
滅ぼされた一族。
今は亡き―――＜隠仁（オニ）＞の郷。
生まれついての身体能力の高さと、本能に特化すると思考を失う体質。
高ぶると爆発するような血の滾り。
タクはリューヤの事を＜ニンゲン＞と呼んでくれるけれど・・・自分は本当にそう、なのかが時折理解らなくなる。
「・・・ん・・・リュ・・・ヤ・・・」
腕の中で身動ぎしたタクが、小さく口を動かす。
意識を戻したリューヤは、目線を戻して・・・本の少しだけ微笑った。

再会は、最悪の形で現れた。
「・・・おやぁ？一年前に、殺して海に沈めた筈の男がどうしてここに居るんだ？」
人目の余りない街道から外れた小さな道を進んでいたのが裏目に出たらしい。
商隊を襲って林の中で金品の物色をしていたらしい集団とかち合ったのは、本当に偶然だった。
素早く離れようとしたリューヤの足が、止まったのだ。
そうして、対峙した相手から発せられた言葉に、タクは愕然とした。
「―――スオウ・・・」
対するリューヤから発せられる怒気も凄まじくて、初めて見るその姿にタクはゾクリと身体を震わせた。
「あれだけ傷付いて、崖から落ちて助かったなんて、噂に違わず化け物だなぁ。だが、俺が付けてやったその頬の傷は消え・・・」
大勢の屈強な男達を従えて、悠然と構える相手はリューヤとそれ程変わらない体躯で、金色の癖の強い髪の下の顔は、とても凶悪な集団にいる者とは思えない相貌だった。
だが、印象的な強い眼差しは、何処までも人を見下すような色を滲ませている。
嘲る様な言葉を最後まで言わせずに、リューヤが腰の剣を引き抜いた。
「黙れ！卑怯な手しか使えない連中がっ！！」
「卑怯？・・・戦法と言ってほしいな。どんな手を使ったって、勝ちゃいいのさ。まぁ、お前なんか別に普通に戦っても勝てるけどな。」
リューヤが繰り出した剣を、何時の間に抜いたのか理解らない腰の長剣で受け止めた相手がニヤリと嗤う。
途端に、その場は戦場になった。
宿敵を目にしたリューヤは、完全に頭に血が上っていた。
「・・・あ・・・」
タクの鼓動が激しく昂ぶる。
激昂しているリューヤの心が伝わって、胸が痛くて溜まらない。
息苦しいまでの、激しい鼓動に意識が奪われる。
「・・・ダメ・・・駄目・・・戦っちゃ・・・」
震えながら、タクはリューヤを凝視した。
動きの速い二人の戦いは、目で追えない程だ。
時折響く剣戟の音と闇に浮かぶ煌めきで、彼等が刃を合わせている事が漸く伺えるほどの・・・死闘。
「相変わらず、嫌になる位・・・急所を突いてきやがる。だがまぁ・・・逆に言えば、そこしか狙われないって理解るから・・・」
素早い動きでリューヤの剣を受け流していた相手が、そう言って逆に剣を付き出した。
途端に、血の匂いが辺りに広がる。
「リューヤ！！」
タクの視界に映ったのは、肩先を切り裂かれたリューヤの姿。
同時に、タクの身体も同じ場所が焼けつくような痛みを齎した。
足が止まったリューヤを、蹴り倒したまま足蹴にすると、賊は剣を突き付けた。
「ぐっ！！」
「今度こそ、息の根を止めてやるよ！」
「・・・ぁ・・・」
月光に、光が煌めく。
振り上げられた刀身は確実にリューヤの身体を貫こうとしていた。
「―――いやあぁぁぁぁああああ！！」
タクの絶叫が空気を震撼させた。
キイィィンッッ！！
振り下ろされた筈の剣が、飛び込んできた影に弾かれる。
反射的に、バッと飛び退いた賊は、弾かれた剣を持ち直した。
「・・・誰だ？！」
訝しげな声が、次の瞬間に驚愕へと変わる。
「―――引けっ！」
慌てたように部下たちに怒鳴って、そのまま暗闇に身を翻していった。
黙ったまま佇むように賊と対峙していた姿が、ゆっくりとタクに向かって振り返る。
月明かりに照らされてその容貌を見たタクは瞳を見開いた。
月の光を集めたような銀の髪に、タクの大好きだった色鮮やかな珊瑚を思い起こす緋い瞳。
肌の色は初めて見る黒に近い褐色で、スラリとした長身のその姿は、海王神の様に神々しかった。
「・・・ぁ・・・」
茫然と見惚れてしまって、声も出せない。
ヘタリと座り込んでしまったタクに、青年の目が少し悲しそうに伏せられる。
そのままクルリと背を向けた相手に、タクはハッと意識を戻した。
「待って！あ・・・あの・・・ありがとう・・・リューヤを助けてくれて・・・！」
慌ててその背中に向かって声を掛ける。
それから、倒れたままのリューヤに駆け寄った。
傷付いた肩を踏まれた所為で、傷口は血と泥に塗れて酷い状態だった。
その痛々しい個所に、泣きたくなりながら・・・タクは傷口と泥を自分の服でそっと拭うとそのまま唇を寄せる。
＜人魚＞だったら治せる筈の傷も、＜ニンゲン＞の姿の今では効果が無いようで、傷は変わらない。
「・・・タク・・・」
呻くようにリューヤが息を吐き出す。
漸く意識を取り戻したようだ。
「リューヤァ・・・」
傷付いていない反対の手できつく抱き込まれて、タクはギュッとしがみ付いた。
「“獏羅天”の、連中は・・・？」
「あ・・・どっかへ行っちゃった・・・。―――海神様が・・・リューヤを助けてくれて・・・」
「海神様？どういう事なんだ？」
「あの・・・ボクもよく理解んない。でも・・・」
支離滅裂なタクの言葉に、未だに正常な思考が戻り切らないリューヤが眉を潜める。
だが、タクは遠くを見つめたままぼんやりと唇を開いた。
「―――海神様みたいな・・・人？」
ポロリと、タクの瞳から涙が毀れ落ちた。
「どうした？何処か痛むのか？」
「あれ？どうして・・・？」
記憶に焼付いた姿が忘れられない。
あの背中を追いかけたくなる気持ちが酷く湧き上がってきて、タクは苦しくなった。
大好きなリューヤの腕に抱かれているのに・・・安心している筈なのに、胸の中の一部分がぽっかりと空いているようで。
「怖がらせて、悪かった。」
タクの涙を自分の所為だと思ったリューヤの言葉に、更にギュッと胸が締め付けられる。
「泣くな・・・」
何度も口付けで涙を拭ってくれるリューヤの腕の中で、タクは裂けてしまいそうな心を抱えて小さく震え続けた。