ヨコスカの都市は、大きな港湾が広がる交易の拠点でもあった。
様々な様式の帆船や船が港に停泊している。
諸外国との貿易も、カナガワ帝国に入る前に、ここに集められる。
＜カイ＞とは深い関係を持ち続ける所領なので、古の海神への信仰もカナガワ帝国内では一番根強く残っていたりする。
船の航行の安全祈願の為に、大々的で長期な旅船の出航の前には必ず『海神祭』というお祭りが催されるらしい。
その際に、同時に開催される武闘会がリューヤの目当てではあったのだが。
“獏羅天”の首領であるスオウの一撃によって負った傷は、未だに完全に治っていなかった。
己の力量不足を痛感したリューヤは、傷の手当てをした後で、酷く落ち込んで、一時はヨコハマに戻ろうとまで言い出した。
ナツオ王とマコトの元にタクを置いて、一人で秘法を捜しに行こうと考えたらしい。
最悪、魔女の薬が切れて＜人魚＞に戻っても、海王であるマコトの傍ならば危険はないと判断しての事だったのだが、タクはどうしても納得しなかった。
一緒に居ないと心が壊れてどうにかなってしまう・・・と大泣きしたタクを泣き止ませる為には、考えを取り消すしかなかったからだ。
街外れの小さな宿屋に泊りこんで早３日。
このままタクを連れて陸地を旅するのはどう考えても危険だ。
だから、リューヤはショウナン地方へ行くのに、陸路ではなく海路を選んだ。
明後日には、ショウナン行の帆船が出航する。
金が無い訳ではないが、二人分の旅費は安くない。
しかも、ショウナン地方はリューヤでさえ足を踏み入れた事のない未知の地域だ。
この先、どんな事が待ち受けているか理解らないだけに、所持金は多いに越した事は無い。
「・・・リューヤ？」
防具を身に着けて、剣を握りしめたリューヤの姿に、タクは目を見張った。
「出掛けてくる。」
「ま・・・待って！大会に参加するの？！だって・・・まだ・・・」
「下位のクラスで腕試しをしてくるだけだ。実戦でなければ、勘が鈍る一方だから。」
背中を向けたまま告げるリューヤに、タクはゾクリと身を震わせた。
振り返らないリューヤが、もう決心している事に気付いて。
確かにリューヤの腕ならば、殺し合いではない試合なら向かう処敵無だろう。
「じゃあ、ボクも・・・」
「駄目だ。」
ベッドから降りようとしたタクを、リューヤの強い声が留めた。
「え？」
「何処であの連中に出会うか理解らない状態で・・・お前を一人にできない。すぐに戻ってくるから、ここで待っててくれ。」
続けられた静かな声に、タクはそれ以上の言葉を失った。
すれ違う心。
あの夜から、互いの気持ちが微妙にずれている気がする。
口付けて、互いの温もりを確認しながら眠りについて・・・なのに、薄い膜に覆われたように想いが重ならない。
＜ニンゲン＞になりたい気持ちは変わらない。
ずっと、リューヤと一緒に居たい気持ちも・・・。
なのに、一緒に居たいと願う『誓い』に囚われ過ぎて、大事な何かを失いそうで、怖い。
同じ相手に二度の負けを喫してから、リューヤが遠くなってしまったようで・・・タクは心細くて仕方ないから、一緒にいたいのに。
「―――う・・・うん。」
心と裏腹に、唇から零れ落ちたのは肯定。
パタンと閉じられたドアを追いかけてしまわないように、タクはギュッとシーツを握りしめた。
不安が心を押し潰そうとする。
何の力もないタクにはどうする事もできない。
足手纏いになるのは理解っているし、自分を護ってくれる為に、リューヤは行動しているのだ。
一緒に居る時の優しい態度も、甘い時間も変わらない。
リューヤの腕の中に居られる瞬間は、言葉に出来ないぐらい幸せで、嬉しくて。
ずっとそのままで居られたら良いのに、と何時も思う。
窓辺に寄って、外に視線を向ける。
真っ直ぐに伸びた大きな背中が、歩いて行ってしまう。
「・・・リュー・・・ヤァ・・・」
窓に凭れ掛かるように身を預けながら、タクは零れ落ちる涙を止められなかった。

どれ位経ったのか理解らなくなった頃、不意に階下の騒がしさにタクは意識を取り戻した。
幾つもの荒々しい足音が、近付いてくる。
「ここか？！」
「―――何が出てくるか解らん！注意しろ！」
部屋の外で交わされる言葉に、タクは激しく動揺した。
何が起こっているのか、全く理解らない。
ガタガタ震えながらベッドの上で縮こまっていると、大きな音と共にドアが蹴破られて、武装した兵士が何人も部屋の中に雪崩れ込んできた。
「・・・ひっ！」
余りの恐怖に、タクの口から悲鳴すら出ない。
「あれぇ？化け物は何処だ？」
一番最初に飛び込んできた小柄な兵士が、気が削がれたように呟いた。
「―――部屋を間違えたのか？だが・・・」
続いて入ってきた背の高い男の声が、タクの姿を捉えて途切れる。
「子供？」
「ほんと？あれ、でもこの色は奴隷にしちゃ珍しいねぇ。」
「おい、お前―――」
「・・・やっ！」
近付いてきた者達から逃げるようにベッドの上を移動したら、反動で幾つものガラス玉が転がった。
「うわー、なにこれ？キラキラしてキレ―。」
小さな兵士がそれを抓んで、光に翳す。
「―――それが“人魚の雫”だ、アイガ。どうやら、タレこみは間違いないようだ。」
「へぇー、こんなちっこいのが＜人魚＞？だって、俺等人間と変わんないじゃん？！伝説じゃ下半身が魚だって・・・神殿の銅像もそうだったし、もっと絶世の美女が良かったなぁ、オレは。」
「お前の主観で決めるな、バカ。」
詰まらなさそうに唇を尖らせる少年に向かって、叱りつけるように言うと、青年兵士はタクに更に近付いた。
「このヨコスカの統治者であるヒザキ様が、お前を連れてくるように仰せだ。一緒に来てもらうぞ。」
カーテンに身を隠すように縋りついていたタクは、強い力で腕を掴まれてしまって、恐怖に捕り込まれた。
「いやっ！・・・リューヤ・・・！リューヤッ！！」
泣きながら、ただ一人の名を呼ぶ。
その度に、大きな瞳から零れ落ちた涙がガラス玉となって零れ落ちる。
「うわー、本物だぁ。」
「・・・いいから、お前も手伝え。」
「えー、オレが手伝うと、こんなちっこいの殺しちゃうかもよ？あんま煩すぎたら、面倒くせーモン。」
ニコニコしながら言われた言葉に、タクは蒼褪めた。
次の瞬間、反対側から大きな手で口を塞がれた。
「じゃあ、口を抑えとくからお前は足を持て！あの厄介なのが戻ってくる前に行くぞ。」
「ええー？オレとしてはあれとも戦って見たかったんだけどなぁ・・・残念。まぁ、あんま遅くなってヒザキ様に怒られるのもヤだし・・・」
ブツブツ言いながらも、小柄な身体の何処にそんな力があるのかと思う状態で、暴れるタクの足を軽々と抑え込んで抱えてしまう。
身動きを封じ込められて、荷物の様に抱えられてタクは絶望した。
ポロポロと零れ落ちる涙が、床にコロコロと転がっていく。
殴られたり、乱暴な事はされなかったが、知らない＜ニンゲン＞に抱えられているという恐怖がタクの全身を覆い尽くす。
目の前が真っ暗になって、タクは意識を失った。

宿の外に控えさせていた馬に、タクを抱えたまま大柄な兵士が跨ったのと同時に、リューヤは戻ってきた。
そうして、多くの兵士の姿と馬上のタクの姿に愕然とした。
「―――タクっ！！」
一瞬で間合いを詰めたリューヤがタクを取り戻そうと腕を伸ばす。
だが、それは空を切った。
「アイガッ！」
「了解！んじゃ、ここはオレが引き受けたぁ！」
青年が呼ぶと、空を切って小柄な身体が降ってきた。
その両手に持っているのは奇妙な形の偃月刀だった。
繰り出された刀を、間一髪で避けたリューヤの前に立ち塞がる。
「退けっ！！」
低い怒号が、リューヤの口から迸る。
腰から抜いた長剣を、振り下ろす動作で、風が舞った。
「ヒュー！やっぱ、手ぇ抜いてたんじゃん。スゲー殺気。」
軽やかな跳躍で飛びずさった少年が、苦笑する。
だが、リューヤの剣捌きを見ながらも、怯えもしないで恍惚とした表情のまま唇を舐めた。
「オレさぁ・・・強い奴って好きなんだよね。だってさ、弱い奴だと全然楽しめない内に簡単に死んじゃうんだモン。さぁ、楽しもうよ。」
ユラリと立ったその姿は、狂気を孕んだ殺人マシンだ。
被っていた兵士の兜を振り払うと、その下から出てきた表情はまだ少年と言った方が相応しい容貌なのに、血走った瞳は血を求める狂人のように強い光を放っていた。
対峙している間にも、タクを乗せた馬は走り去っていく。
ぐったりしているタクの白い腕が、ダランと垂れ下がっていたのを見た時から、リューヤの意識は吹き飛んでいるのだ。
「―――邪魔だっ！！」
刀身を削り合いながら、リューヤの目線は目の前の相手を見てはいなかった。
「おいおい、どっちを向いてんのぉ？！どっちにしろ、オレを倒さないと行かせねぇよ！」
両手の刀で器用にリューヤの剣の勢いを殺しながら、挑発してくる。
言葉にするように、相手の実力は今日戦った剣士の誰よりも上だろう。
これだけ強いのなら、ヨコスカ城が抱える暗殺部隊の噂も本当かもしれない。
だが、先日相手をした“獏羅天”の首領であるスオウ程ではない。
あの男は、まだカナガワ帝国が制定する前のナツオ王の隠し玉だった。
ナツオ王が戦いから退き、玉座に着いたので、反旗を翻した男。
余りにも目に余るから、ナツオ王の止めるのも聞かずに、戦いを挑んで・・・。
結果は無様なものだった。
あの覇王であるナツオ王ですら、制御できなかった男であり、“玄武の騎士”であるワニブチでさえ、一目置いている者。
あれに比べたら、目の前の小僧などリューヤの敵ではない。
殺戮マシンと呼ばれたリューヤが本気を出せば、目の前には屍の山が築かれる。
それは過去の自分。
タクと出会って、命を与えられ・・・その手を取る為に、リューヤが封印した。
その為に、弱くなったとは言わせない。
言わせない為にも、リューヤは殺すのではなく、倒す剣を選んだのだ。
キイィィィンッッ！
甲高い音と共に、偃月刀が大きく弾かれる。
驚愕に目を見開いた少年の鳩尾に、リューヤは拳を突き入れた。
そうして、後ろを振り返る事なく走り出す。
一拍の後に、ドサッという音と共に地面に少年の身体が倒れた。

闘っていたのはほんの一刻だ。
だが、馬の脚では追いつけないかもしれない。
兵たちの武具に刻まれた紋章と、蹄の後を辿ってヨコスカ城だと辺りをつけたリューヤは、風よりも早く疾駆した。
城下街の石畳を、城に向かって一心不乱に走っていたリューヤは、城に続く吊り橋の前に幾つも倒れている物体に気付いた。
徐々に近付いていくと、見る見る内に塊は馬や人の姿になった。
そうして、吊り橋の手前にその姿を捉えた。
先程タクを馬で連れ去った青年兵士が、首を掴まれて・・・その身体がゆっくりと倒れていく。
雲に隠れていた月が、顔を出すと同時に月光を地上に広げる。
月の光に照らされたその立ち姿は、畏怖を覚えさせる程だったが、こんな惨状を引き起こすとは思えない程静かだった。
だからこそ、余計薄ら寒かったのだが。
“・・・タク・・・”
空気を震わせるような『声音（おと）』が聞こえた。
直接、耳に届くような不思議な感覚に、リューヤの足が止まる。
銀の髪に、緋の瞳を持った背の高い青年の姿は、＜ニンゲン＞の形をしていたけれど、間違いなく人ではなかった。
倒れていたタクを大切な者に触れるかのように青年は抱き上げた。
「・・・ん・・・」
呼び声に応えるように、開かれたタクの瞳が、大きく見開かれる。
「あ・・・あの・・・？」
目の前の相手を凝視したまま、タクは唇から息を零すように音を発した。
途端に、青年の顔に浮かんだ微笑は、恐ろしい程美しかった。
“オレノ・・・光・・・”
ゆっくりと近付く眼差しに捕り込まれたように、タクは視線を外せなくなる。
奪い返そうとしたリューヤは、自分の身体が地に縫い付けられたように、足が動かない事に気付いて愕然とした。
「―――タクッ！！」
心から溢れ出る想いのままに叫んだリューヤの声に、ピクリとタクの指先が動く。
だが、それが限界だった。
重なった唇が、タクの中の何かを奪い取った。
大きく見開かれた瞳に、涙が盛り上がる。
近付いた時と同じようにゆっくりと離れた顔に浮かんだ笑みが、悲しみの色に染まる。
“オレハ、選ンデ、シマッタ・・・オ前ガ悲シムノニ、耐エラレナクナッタ。”
柔らかい波動に、タクの瞳が驚いたように瞬いた。
“―――待ツダケデハ、失ウダロウ・・・ト。魔女ノ言葉ニ、俺ハ結局抗エナカッタ。”
タクの頬を伝う滴を慈しむようにそっと指先で拭って、告げられた言葉が強く意識を捉えた。
“・・・＜運命ノ者＞。俺デハ、駄目カ？”
問われてもタクは頭が痺れてしまって考えられない。
直ぐ側に居るリューヤの気配に、強く惹かれているのに・・・身体が動かない。
“海ノ底デ・・・オ前ガクレタ物ダケガ、俺ノ総テ。オ前ガ泡トナルノハ・・・嫌ダ！”
強く言われて、きつく抱き締められる。
そうして、タクは彼の耳に付けられている珊瑚の耳飾りに気付いて愕然とした。
よくよく見れば、彼の背に流れる銀髪を留めているのは、タクがずっと愛用していたお気に入りで・・・最後にお別れの代わりに海底に沈めた物だった。
「・・・お・・・にぃ・・・ちゃん・・・？」
掠れた声で、漸くタクは声を発した。
たった一度だけしか会わなかったけれど・・・まだタクが小さかった頃、禁忌の海域となっている海の奥深くに迷い込んでしまったタクを、助けてくれた優しい人。
薄暗い海の中で、その姿を見る事はどうしても出来なかったけれど、特別な存在なのだという事は、海王であるマコトから散々聞かされた。
そうして、会ってはいけない相手なのだという事も。
１０年以上も前に一度出会っただけなのに、記憶は鮮明に思い出せた。
“ソウダヨ・・・”
緋い瞳が柔らかく細められる。
途端に、タクの胸の中に湧き上がるのは不思議な感情。
“オ前ガ幸セナラ、見守ルダケデ良カッタノニ・・・星ガ俺ヲ、コノ世界ニ引キ戻シテシマッタ・・・”
少しだけ自嘲気味な声で、そう告げると軽々とタクを抱き上げて、リューヤを睨み付けた。
“オ前デハ役不足ダ。コノ子ハ、＜テン＞・＜リク＞・＜カイ＞トイウ『三柱世界』ノ至宝ニナル。今ノママデハ、任セラレナイ。”
月光の輝きを纏って、青年の背後に巨大な海竜王の姿が浮き上がる。
古の神殿に祭られている像と同じように威厳に満ち溢れているその姿に、リューヤは動けないままギリッと唇を噛み締めた。
“『赤ノ竜王ノ神殿』デ待ツ。俺ニ殺サレナイ程度ニ強クナッタラ、来イ。”
月光が強く光り輝き、その中にタクを抱えたままの竜王の姿が消えていく。
「―――リューヤッッ！！」
「・・・タクッ！！」
漸く身体の自由を取り戻したリューヤが駆け寄るよりも先に、その姿は空に掻き消えた。
竜王の腕の中から必死に伸ばされたタクの指先を、リューヤは掴む事が出来なかった。
胸が引き裂かれて、心臓が鷲掴みにされたかのような、苛烈な激痛が全身を襲う。
「うおおぉぉぉぉぉぉぉおおおおっっ！！」
リューヤは、絶望に捕り込まれて絶叫した。

天空に佇む月は、静かに世界を照らしていた。
そして、海は恐ろしい程の煌めきを秘めながらも変わらずに凪いでいた。




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