覚えているのは優しい温もり。
ずっと寒くて凍えて・・・冷たい地に横たわったまま、消えそうな命に最期に与えられたそれは・・・。

「・・・助けてあげられなくて・・・ごめんね・・・」

与えられた温もりと、優しい言葉。
ぽたりと落ちた滴は、冷たい雨ではなくて・・・。
この世に生を受けた意味さえ分からずに、打ち捨てられた魂。
恨みと禍根に囚われて、移ろうカゲロウのような存在になる筈だった自分を、最期に両手で救い上げてくれた―――《ニンゲン》。
霞む視界の中、おぼろげに見えた世界が、最期の意識になった。

      ＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊

ハロウィンの夜。
それは、魔界の住人と亡霊と死者の魂が集う祭りの夜。
次元の結界が弱まり、生ある者が紛れ込むと戻れなくなる迷宮。
迷い込んでしまった者は、祭りに捧げられた生贄でもある。
生きている者とばれれば、魂を食べられて、亡霊の仲間になってしまう。

「―――今夜の〜メインディッシュは〜〜、甘くてー、瑞々しい魂ぃ〜♪ごちそう、ごちそう〜〜♪」

外れた調子で歌いながら、自慢のナイフを研いでいるジャック・ランタンを見つけて魔女の使い魔の黒猫“クロ”はこっそりとドアの陰から厨房を覗き込む。
テーブルに置かれた真っ白なまな板の上にぐったりと横たわっているのは、どうやら何処かから浚ってきた人間らしい。
これから、あの人間を使って料理をするらしいが、相変わらず悪趣味だな・・・とその場を離れようとした途端に、態勢を変えられたその人間の顔がこっちに向けられた。

＜・・・・え？＞

ドキンッと鼓動が激しく鳴った気がした。
ゾワッと背筋が逆立って、尻尾が立ち上がる。
キンキンと刃を合わせて、切れ味を確かめているジャック・ランタンのナイフは今にも踊り出して人間の身体を切り刻んでしまいそうで・・・固まってしまった思考を必死に巡らせる。

＜どうしよう・・・どうしよう・・・＞

うまい考えが思い付かない。
力も知恵も魔力も弱いクロが、出来る事など本当に少ないのだ。
それでも・・・。

「じゃ・・・ジャック？！」
「あぁん？―――クロー、じゃないかぁ〜。何の用〜？こっちにぃー、来るなんてぇー、珍しい〜〜。」
「あ・・・あぁ。今夜は特別な夜だからね。そ・・・それより、そこにいるのって、人間？・・・浚ってきたの？」
「ううん？！こーれ〜〜？」

ナイフで指そうとしているのを、ハラハラしながら目線をずらす。
近くで見たら、記憶の中の面影と重なって、間違いなさそうだ。

「今夜のメイン・ディッシュ〜〜♪うーまーそ〜〜。」

語尾を伸ばしながら喋るジャック・ランタンに、クロは視線を戻す。
今にも料理を始めてしまいそうな姿に、気ばかり焦ってしまって言葉が続かない。
何故、この人がこんな場所にいるのか・・・とか、メインディッシュにするなんて許せない・・・とか、何の解決にもならない気持ちばかりが全身に犇めく。
チラリと目線を周りに素早く走らせると、所々泥が付いているのが理解った。
どうやら、抵抗した際に、色々あったのだろう。

「ふーん・・・メインディッシュっていう割には、随分汚れてるね。」
「ううんー？！」
「ほら、そことか、こことか。高貴な御方に差し出した時に、口の中に泥とか入ったら、不味いんじゃない？」

必死に感情を抑え込んで、言葉を綴る。

「そーれーはー、まーずーいー。」

全く変わらない表情のまま、ジャック・ランタンは漸く包丁代わりのナイフを下した。

「あ・・・あのさぁ、ボクが洗ってきてあげるよ。お湯で洗った方が綺麗になるし、肉も柔らかくなって、美味しくなるかもよ。ジャックは先に外の料理を用意してれば・・・？」
「・・・なーんーで〜〜？」
「今夜は、何十年だか、何百年だか知らないけど・・・久しぶりに、貴族様がいらっしゃるんだって。だ・・・だから、今夜のハロウィンには大勢のお客様がいらっしゃるし・・・一杯美味しい料理を作った方が喜ばれると思うんだ。」
「おーう！そーれーはー大事ぃ〜〜。理解ったぁ〜〜、洗うのぉーたーのーむ〜〜♪」

かぼちゃ頭の表情は変わらなかったけれど、ジャック・ランタンが納得してくれたのは理解った。
茶色かった色が、濃いオレンジへと変わったからだ。
鮮やかなオレンジ色は、機嫌の良い証拠でもある。
中から発光するような状態で、ジャック・ランタンはフワリと浮いて、部屋を出て行った。
どうやら、別の材料を貯蔵庫へ取りに行ったらしい。

「・・・はぁ・・・」

張り詰めていた空気が途切れて、クロの口元から溜め息が零れ落ちる。
処刑台の上でぐったりしている相手が、目を覚まさないでくれたのが一番良かった。
自分に突き付けられたナイフを目にしたら、きっと凄く怖がらせてしまうだろうから。
それでも、時間稼ぎもそう大した時間は取れなかった。
ジャック・ランタンが戻ってくるまでに何とかしなければ、本当に生贄になってしまう。
キョロキョロと辺りをもう一度見まわしたら、戸棚の中に小さな小瓶が見えた。
ピンク色の中身は、魔力増強の元だ。
魔女の館で世話になった時に、散々忠告を受けた代物。

『一時的に魔力は増強するけれど、反動で何が起こるか理解らない“魔薬”だから・・・力の弱いお前は口にしては駄目よ。』

寂しがり屋の魔女は、何の力もない自分を使い魔にしてくれて、側に置いてくれた。
今夜、ここに連れてきてくれたのも、他の魔人と関係を持って、自分の身を守れるようにと考えてくれたからだ。
そんな必要なんか全くないのに。
ずっと魔女の傍で、静かに過ごせるのならそれだけで良かった。
だけど、出会ってしまった。
自分がここでこの人を見つけてしまったのは、きっとその為だから。

「・・・マスター・ミリア・・・ごめんなさい。ボクは、やっぱり魔にはなれない半端者です。」

自嘲気味に呟いて、小瓶の蓋を爪で切り裂く。
口に付けて一気に飲み干すと、途端に全身がカっと熱くなった。
熱が無い筈の身体に、熱量が広がっていく。
視界が揺らぐ。
余りの高揚感に意識が全部持って行かれそうになったけれど、クロは必死に耐えた。
そうして気を抜けば放出してしまいそうな『魔力』を、身体の中心に集めていく。
何をすれば良いのかは、不思議なことに自然と身体が理解していた。

「絶対、助けてあげる・・・今度は、ボクが・・・」

ぐったりとした身体を抱き締めて、今は固く閉じられた瞼をそっと撫でる。
あの時、綺麗な瞳から暖かな滴を零して、死に逝くクロの為に泣いてくれたただ一人の・・・相手。

「あなたを救うよ・・・」

中心に集めた魔力を、抱き込んだ相手に注ぎ込む為に、唇を合わせて・・・ゆっくりと息を吹き込むように流し込んでいく。
触れた個所はまだ暖かくて、その温もりに泣きたくなった。
元々、魔力の少ない自分だから、増量されても大した強さにはならないし、何が出来るわけでもない。
―――だから、祈る。
堕ちてしまった自分が神様に祈る事は出来ないから・・・目の前の相手を救ってくれる事のできる者が現れてくれるように。
ただ・・・それだけを。
折角暖かくなったクロの身体から熱が抜けていく。
指先から冷たくなっていく器。
ふとすれば消えてしまいそうな感覚を必死に繋ぎ止めて。
―――ただ、クロは与え続ける・・・自分の全てを。

“・・・助けてあげられなくて・・・ごめんね・・・”

記憶の中に、言葉が蘇る。
与えられた温もりと・・・優しい言葉。

あなたは、きっと知らない。
知る筈もない。
それでも・・・。

クロの身体から力が抜けていく。
霞む視界の中で、目の前の姿が変わっていく。
魔力と共にクロの姿も重なっていく。

＜あぁ・・・良かった・・・。＞

心の底から安堵した。
力の無い自分でも・・・出来る事があった。
最後の一滴までも魔力を使い切ったから、全身から力が抜けた。
魔法が解ける。
何の力もない小さな・・・黒猫。

「・・・ニャァ・・・」

もう、言葉を話す事も出来ないけれど、満足感がクロの全身を包み込む。。
霞む目の前で、今まで固く閉じられていた瞼が震える。
フルフルと揺れた睫毛が、ゆっくりと動いて綺麗な瞳が顕れた。
漆黒の宝石のように魔を魅了する瞳なのに、その輝きは何処までも澄んでいる。
その輝きは、昔見た記憶の中のものと全然変わっていなかった。
一瞬、それが大きく見開かれた後で、ズルリと床に落ちそうになった小さなクロを両手で受け止めてくれた。
暖かな掌の温もり・・・それが、クロの覚えている最期の記憶。

ハロウィンの夜。
クロにかけられた魔法は、消えてしまった。

＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊

目が覚めたら、そこは見知らぬ場所だった。
そして、目の前には小さな黒猫。
その小さな身体が突然力を失ったかのようにズルリと身体の上から滑り落ちそうだったから、拓は思わず手を差し出してしまった。
両手の中、小さな身体がくにゃりと柔らかくて・・・冷たくて。
ドキッと胸が鳴った。
ゾワリと背筋が粟立って・・・思わず、尻尾が揺れた。

“―――尻尾？”

物凄い違和感に、視線を向けると・・・ありえない物がそこにあって、拓は唖然とする。
ビクッと硬直すると、それも同じようにピーンと立った。

「・・・フニャ？・・・っっ！！」

思わず零れ落ちた声が、鳴き声だったので、更に拓の驚愕が激しくなる。
心臓の鼓動も、胸を飛び出してしまいそうな程、激しくて耳に痛いほどだ。

＜・・・何？一体どうなって・・・んの・・・？＞

拓は途方に暮れた。
目が覚めたら目の前に居たのは小さな黒猫で・・・見知らぬ部屋の中で。
しかも自分が横になっているのは、どう見ても巨大なまな板の上だ。
周りには、見た事もないような器具や、道具が煩雑に置いてあったりする。
状況確認をもう一度整理しようとして、拓は手の中の小猫に視線を戻した。

「つーいーかーのー料理ぃーー♪」

突然、遠くの方で聞こえてきた声に、拓は思わず身を竦ませる。
まだ幾分距離があるような小さな声だったけれど・・・部屋の外から聞こえたそれは、確かに意識を失う前に耳にした声だったから。
途端に、意識を失う前の記憶が鮮明に蘇った。
暗闇の中に浮かぶジャック・ランタン。
ハロウィンの仮装かと思っていた拓に向かって、死神の鎌を振り下ろしたかぼちゃのお化け。

＜・・・こっちに・・・来る？！＞

慌てて拓がキョロキョロと辺りを見回すと、隅の方に隠れられそうな隙間を見つけた。
一瞬躊躇するが、意を決して慌てて起き上がると、黒猫を腕に包み込んだままでそこに飛び込んだ。
鼻が曲がりそうな異臭がしたけれど、構っている場合ではないと気を取り直して、小さな隙間で身を縮こませる。
息を潜めて隠れていると、段々外れた歌声が近付いてきた。

「クーロー、メインディッシュはーきーれーいー？」

フワフワと浮かびながら部屋の中に入ってきた巨大なパンプキンヘッドのジャック・ランタンは、次の瞬間固まったかのように動きを止めた。
そうして、空っぽのまな板を見つけると、キョロキョロと辺りを見回す。
両手に持った巨大な包丁から滴り落ちる紅い滴が、余りにも怖くて直視できない。

「・・・クゥーロォー・・・」

低く、地獄の底から響くような声が部屋の中に満ちる。
ゾクリと拓の背筋が凍った。

「・・・裏切った・・・逃がした・・・獲物・・・殺す、殺す・・・コロス・・・」

色が変わって真っ赤になった大きなパンプキンが、呪詛のように呟きながら部屋を飛び出していく。
巨大な鎌を背負った姿は、最初に見た時と全く同じだった。
余りの怖さに、身が竦んで、拓は暫くその場から動くことが出来なかった。
だが、何時までもここに隠れていても仕方ないし、何時戻ってきたあれに見つかるかもしれないので、隠れていた場所からこっそりと動き出す。
両手で抱えていた小猫は、相変わらずピクリとも動かなくて・・・どうなっているのか尋ねる事もできない。
先程のジャック・ランタンの台詞からすると、自分を助けてくれたのはこの子なのだろう。
綺麗で滑らかなビロードのような黒い毛並だからだろうか。

「・・・ニャ（クロ）？」

零れ落ちた声は、やはり鳴き声にしかならない。
取りあえず場所を変えて、この子に気付いて貰わなくてはならないのだ。
そう決心すると、拓はドアを開けて外に出る。
空飛ぶかぼちゃのお化けが飛んで行ったのは左だったから、自然と逆の方へ足が向かった。
なるべく暗くて静かな方へ向かって拓が歩いて行くと、何処からともなく甘い匂いが漂ってきた。
途端に、クゥッと拓のお腹が鳴る。

＜・・・ぅぅぅ・・・そんな場合じゃないのに・・・＞

自己嫌悪に陥りながらも、どうしても誘惑に勝てない。
そっと匂いが漂ってくる方向にある部屋の中を覗き込んだら、拓の視界の中に溢れかえる様なお菓子の山が飛びこんできた。

＜お菓子の・・・山？＞

部屋の中、所狭しと置かれていたのは、カラフルで綺麗で本当に美味しそうなお菓子だった。
思わず、ごくりと喉が鳴った。
隠れているのも忘れて、フラフラと近付こうとして、ハッと気を引き締める。
物凄く後ろ髪を引かれたけれど、そんな場合じゃないと拓は気を取り直して別の場所を探した。

＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊

やがて、物凄く長い廊下に幾つもの扉がある場所に辿り着いた時、先の方の廊下の壁にジャック・ランタンの影を見つけて慌てて辺りを見回したけれど、隠れられるような場所が何処にも無くて、仕方なく直ぐ側にあった部屋の一つの扉を開けて拓は中に潜り込んだ。

「・・・裏切り者は、何処だ、何処だ？許さないぞぉ、クロ！お前も一緒に盛り付けてやる！！」

ドアの直ぐ外を、ジャック・ランタンが叫びながら通り過ぎていくのを、ジッと耳を澄ましてやり過ごす。
見つかったら、確実に殺されるという恐怖から、息が詰まった。
眩暈がしそうな緊張をやり過ごして、声が遠くになって聞こえなくなった途端、拓はヘナヘナとその場に崩れ落ちてしまった。

＜もう嫌だ・・・帰りたい・・・＞
「・・・ニャァ・・・」

吐息と共に、声が漏れる。

「―――誰？」
「フギャ？！」

突然掛けられた言葉に、拓はビクゥッと全身を硬直させた。
余りの恐怖に振り返る事すら出来ない。

「悪いけれど、今夜は誰の誘いも受ける気は無いんだ。出て行ってくれないか？」

機嫌が悪そうな、静かな声が響く。
怒鳴られるよりもずっと底冷えしそうな口調に、ゾクゾクと拓の身体が震える。
部屋の中に漂っていたのは、総てを拒絶するかのような冷気だった。
ブルリと身体を震わせて、懐に抱き締めていた小さな身体を冷気に晒されないように更に包み込むようにして、言われたように部屋を辞そうとしてドアノブに手を掛ける。
だけど、何度捻ってもガチャガチャという音がするだけで、入ってきた筈のドアを開く事は出来なかった。
その瞬間、閉じ込められてしまったという意識に捕らわれて思考がフリーズした。

「―――追い出さないと・・・解らないのか？・・・っ！？」

ユラリと奥から何者かが出てくる。
背後から響く声に、完全にパニックになった頭は考える事を拒否した。
考えるよりも早く、身体が反応する。
相手の身体が一瞬動きを止めた瞬間を見逃さないで、素早くドアとは反対の窓際まで拓は飛び退いた。
いつもよりも軽い身体は、信じられない反射速度で動いて、望みどおりの位置に辿り着く。
そのまま窓を開けて、外に逃げようと桟に手を掛けて身体を浮かせた所で、拓は飛び降りる先が深淵の闇に包まれている事に気付いて、間一髪で態勢を立て直した。
だが、どうしよかと思案したのは一瞬で、大きく開けた窓枠に立ったまま、不安定な状態で逃げられそうな場所を探す。

「ま、、、・・・って！」
「―――ニギャッ！！」

少し離れた場所に、逃げられそうなバルコニーを見つけて・・・そこにジャンプしようとした途端に、尻尾を掴まれた。
いきなり全身を駆け抜けた衝撃に、一気に身体の力が抜けて、拓は窓枠から足を滑らせてしまった。
―――落ちるっっ！！
浮遊感に包まれながら、ギュッと目を瞑る。
だが、落下する筈の身体は動かなかった。
恐る恐る開けた視界の先・・・足元は深淵の闇のままだったけれど、拓は自分の身体を支える腕に漸く気付く。

「・・・ニャッ！！」
「・・・暴れないで！・・・怖がらせたのなら、ごめんよ。」

逃げなければと暴れ捲るが、しっかりと掴まれた身体は逃げ出す事も出来ない。
絶望に包み込まれかけたら、そっと背後から声が掛けられた。
同時に、拓の頬にかかる長い髪が目に入った。
月の光を浴びて、輝く銀糸の波。

「ねぇ・・・子猫ちゃん。君は誰・・・？ハロウィンが魅せる一夜の夢なのかい？」

先程までの全てを拒絶するような声ではないその響きは、今度はストンと耳に届いた。
同時に、拓の全身に広がっていくのは安堵。
部屋の中に引き戻して、拓の身体をそっと抱き締めたのは他人の空似でなければルーファスだった。
まさかこんな場所で会うとは思わなかったけれど、拓はこれで元の世界に帰れると思った。

「―――ニャッ・・・ニャニャッッ！！」
＜気付いて・・・僕だよ！ねぇ、お願い・・・！！＞

必死に声を出すけれど、相変わらず拓の唇から零れ落ちるのは鳴き声だけ。

「・・・あぁ。そんなに泣かないで。今夜この城に集う者たちなら、下級の使い魔でも喋れる筈なのに・・・君は一体何処からきたんだい？」

情けなくて辛くて言葉にできない思いが、ポロポロと零れ落ちる滴になる。
その雫の数滴が、頬を伝って・・・胸元に大事に抱き締めていた小猫に降りかかった。

「・・・・」
「―――ニャ？」
「・・・君の同族なのかい？―――この子は随分と力を使い果たしてしまっているね。・・・って、まさか君の伴侶って訳じゃ・・・」

固く閉ざされていた小猫の瞼が小さく震える。
慌てて両手で包んでそっと胸元から離すと、思いもよらなかった言葉がルーファスから返ってきて拓は目を丸くした。

＜えぇ？！伴侶って・・・？！はっ、そう言えば、ボク今猫なんだったっけ・・・！ちょ・・・ち・・・違うからっ・・・！！＞

慌てて否定しようとするけれど、口から出るのは意味を成さない鳴き声だけなので、がっくりと肩を落とす。
これでは、どうする事も出来ない。
ここから逃げ出して、帰る事も今の自分の状態を伝えられないのでは難しいだろう。
しかも、ルーファスには自分が拓だという事が理解っていないようなのだ。

「―――ルーファス様？お加減は如何ですか？そろそろ夜の女王様がお出でになりますが・・・」

コンコンとドアがノックされ、小さな声が聞こえてくる。
途端に、拓はビクッと身体を震わせた。
今、他の誰かに見つかったらどんな目に合わされるのかが理解らないので、恐怖にブルブルと震える身体が止まらない。

『・・・大丈夫だよ。』

耳元で囁かれる声と、ルーファスの優しい手が拓の背に添えられる。

「―――理解った。ちょっと野暮用で、匂いが移ったから・・・それを落としてから顔を出すと伝えてくれ。」
「・・・畏まりました。」

丁寧な口調の相手は部屋の中に入ってくる事もなく、何処かへと歩いて行ってしまった。
聞き耳を立ててジッとしていた拓は、漸く安堵したと同時に全身が弛緩してフラリと倒れこむ。

「・・・っと。」
「・・・ミャ？」
「うん。じゃあ、一緒に入ろうか。」
「―――にゃ？」

支えてくれたルーファスに感謝を告げようとしたら、何故か見惚れそうな程綺麗な笑みが返ってきた。
そのまま、ヒョイッと拓の身体が持ち上がる。
確かにいつもの拓とルーファスの関係でも似たような状態だけれど、今はその体格差が更に広がったような気がする。
普段の、何処かのんびりとしていて・・・浮世離れした嫋やかで綺麗な王子様風情の雰囲気は変わらないのに、ルーファスのこの強引さは何なのだろう？

「その子も一緒に洗った方が良いよ。一体何の匂いを頭から被ったのか理解らないけれど・・・ちょっと酷すぎるから。」

苦笑されて、拓は思わず自分の袖を嗅いでしまう。
隠れたり逃げるのに夢中で全く意識していなかったけれど、確かに全身から酷い匂いが漂っていた。
片手で小猫ごと抱えあげられてしまって、お湯の張られたバスタブの傍に連れ込まれて拓は観念した。
取りあえず先に、小猫の方をお湯に浸したタオルで綺麗に拭ってやる。
先程、涙が触れた瞬間に、ピクリと動いた筈の瞼は、変わらずに今も固く閉ざされたままだ。
綺麗になった小さな身体を乾いた布でそっと包み込むと、拓はソファーの上にあった柔らかなクッションの上に小猫を横にした。

「おいで・・・」

自分を呼ぶ相手に呼ばれるままに、仕方なく着ている物を全部脱いで拓もバスタブの中に入る。
いくら知っている相手とはいえ、こんな風に裸で一緒にお風呂に入った事などないので、羞恥で全身が色づく。
それでも真っ白な泡のたった、物凄く良い匂いの暖かな湯に浸かったら、拓の全身から一気に力が抜けた。
フラリと湯の中に倒れかけた身体を、背後からの腕が支えてくれる。
そのまま優しい指先は、慣れた手付きで拓の頭の先から丁寧に洗い始めた。
その余りの気持ち良さと、甘くて心地良い匂いについ全身を委ねてしまった。

「・・・ふにゃぁ・・・ん・・・」

ついと流れた指先に、耳の後ろを擽るように洗われて、思わず声が漏れてしまう。

「ふふ・・・ここ、感じるんだ。そんな可愛い声で鳴かれたら我慢できなくなっちゃうよ？それとも、誘っているのかい、小猫ちゃん？」

クスクスとルーファスに耳元で笑われて、思わず身が竦んだ。
言葉を理解して、身構える間もなくカプッと耳を甘噛みされて、ゾクッと全身に震えが走った。

「・・・にゃ、っ・・・」

嫌々をするように頭を振ったら、今度は項を強く吸われてしまう。
身を捩るように逃れようとした身体が、甘い疼きに硬直する。
信じられない展開に、大きな瞳が零れ落ちそうな程見開かれる。

「ふふ・・・これで、君は私の今宵の相手確定だよ。ほら、私の付けた痕が・・・あぁ、白い肌に雪の結晶はよく映えるね。その黒髪と黒曜石の瞳にも・・・。」

赤い爪先が、拓の項についた痕をゆっくりと辿る。
その仕草に、拓はとうとう耐え切れなくなった。

「―――っっ！！」

そのまま先に進みそうな雰囲気と、相手の意思に漸く気付いて、拓はバスタブの中で本気で暴れた。
バシャバシャと水飛沫が跳ねて、泡が宙に舞っっていく。
無我夢中で甘い拘束の腕の中から逃げ出すと、拓はそのままバスタブから飛び出した。
無意識に溢れた涙が、頬を伝って流れ落ちていく。

「待って・・・っっ！」
「・・・フーッ！！」

追いかけてこようとしたルーファスを、拓は全身で拒絶した。
だって、自分にはもう心に定めた相手が居て、彼以外となんて想像もつかない。
大体、自分の性別は男なんだから、いつもいつもこんな風に迫られるのも間違っている―――と思うのだ。
彼等に言わせると、拓の身体には強い魔力が眠っていて・・・それがとても甘くて魅力的ならしいが・・・。
それでも、拓が好きなのは・・・傍に居たいと願ったのは時貞だけなのだ。
いつもなら主人である時貞の相手と考えて、こんな風にされないだけに、完全にルーファスには自分が拓だとは理解されていないのだと気付いてしまった。
それが、何だか情けなくて、悲しくて・・・心が押し潰されそうだった。

「・・・ニャーッッ！！ニャーーーーッッ！！」

叫ぶように、鳴きじゃくる。
たった一人の、その『名』を呼びたいのに・・・声が出ない。

＜助けて・・・助けて・・・時貞くんっ！！＞

伸ばされるルーファスの腕をすり抜けて、拓は夢中でドアへと向かう。
衣服を拾うにはルーファスの傍に戻らないといけないから、途中にあった飾り布を掴んで身体に巻きつけた。
同時に、先に洗って柔らかなクッションの上に寝かせていた小猫を、両手で抱き上げる。

「逃げないでっ！！」

背後から追いかけてくるルーファスの声を振り切るように、拓は部屋を飛び出す。
あのまま部屋に一緒に居たら、駄目な気がしたのだ。
本当なら、帰れると・・・もう大丈夫だと思った相手から逃げ出すのだ。
―――行く当てなど何処にもなかった。