御殿辺公園入り口・午後８時。
一度自宅に戻った千冬は、特攻服を脱いで・・・目立たないように黒皮のジャケットと細い黒のジーンズに着替えてから、メールで約束を漕ぎ着けた場所までやってきた。
流石に自分の方が距離が近いので早く着くだろうと思っていたのに、良く見れば薄暗がりに小さな身体が影として視える。
それが約束の相手である拓だと気付いて、千冬は小さく微笑った。
ふわふわの白い徳利セーターの上に大きめのジージャンを着込んで、明るい色のジーンズの裾を折って履いている拓の姿は、とても温かそうだったが・・・身体のラインが全く理解らないので、拓の持つ柔らかな印象と小柄な身体の所為で、一瞬女の子に見えた。
いつもは緩やかなパーマの掛かった髪も、千冬の希望通りに落として・・・さらさらのストレートだ。
寒さに弱いらしい拓は、今夜は柔らかそうなイヤーマフを付けている。
少し俯き加減の口元から、白い吐息が零れているのが、千冬の目に焼きつく。
「あ、千冬さん、こんばんは。」
「・・・待たせた？」
「えっと・・・僕も、今来たばっかりですから。」
バイクの音で気付いたらしい拓が振り返って、笑顔を向ける。
それに千冬は頷きながら、拓のすぐ傍にバイクを止めた。
「あの・・・今夜は、服が・・・いつもと違うんですね。」
「あんま、目立ちたくないから。」
「え？」
「ヒロたちに見つかると面倒。・・・さぁ、行こうか。」
「あ・・・はい。」
キョトンとする拓に艶やかな笑みを見せると、千冬は暗闇に視線を向ける。
今夜は、『聖龍連』のパレードは１３４号を流す予定なので、海側は走れない。
頭の中で目的地までの経路をザッと計算して、千冬は自分のバイクに跨った拓を振り返った。
「知り合いの店が、鎌倉にあるから、今夜はそこに行くよ。」
「鎌倉・・・ですか？あの・・・でも僕、今夜は手持ちがあんまり・・・」
取り敢えず、行き先を拓に告げると、拓は困ったように呟いた。
その台詞に、千冬はちょっとだけ綺麗な眉を寄せる。
デートのつもりで誘っているのに、何時まで経っても拓は甘えようとしない。
当たり前のように何の遠慮もないのも問題だが、流石にこう毎回だと誘った身としても困ってしまう。
「嫌なら、これから朝まで俺の部屋のベッドの中だけど？」
だから、甘く告げる―――拓が断らないように。
「え？・・・あの・・・それは・・・ちょっと・・・」
真っ赤になって困ったように俯くその姿に、千冬は苦笑する。
想像通りだとしても、やはり思った以上に可愛い拓の姿に、千冬の方がこのまま自宅に連れ帰りたくなってしまった。
「―――あの・・・足りなかったら、後で返しますから・・・お金・・・」
「んー？まだ言うかな、この口は。」
真っ赤な顔のまま、本当に困ったように目線を落として言う拓に、千冬は我慢できなくなった。
クスッと笑って身を乗り出すと、バイクに乗ったまま横に並んだ拓の腕を摘んで引き寄せるとそのまま唇を摘み取った。
驚きに、拓の目が大きく見開き、身体が硬直する。
一瞬触れた唇は、細絹のような千冬の髪が持つ金色の残像を残して離れる。
「ふふ・・・前金で貰ったから、これで許してあげる。」
綺麗に笑った千冬に、拓は茫然としたまま指先を唇に持っていく。
そうして、千冬の見ている前で見る見る内に頬を綺麗に染め上げた。
「“１３４号”で行けないから、“４６７号”から藤沢の横を通って鎌倉まで抜けるから。途中で絡まれても、無視して構わない。」
「・・・は・・・はい。」
「まぁ、こっちの走りに着いてこられる奴等が、いるとは思えないけど。」
そう言って、千冬はエンジンを掛ける。
ハーレーとは排気量が違うので、拓も置いていかれないように必死だ。
二台のバイクは、４６７号を風のように南下した。

千冬が拓を連れて行った店は、モダンな店構えの洋館風の喫茶店だった。
鶴岡八幡宮前の若宮大路を外れて、源氏山公園の方へ入っていく少し判り辛い場所にあるにも係わらず、その店は結構な数の客で混んでいた。
「いらっしゃいませ。・・・って、慎くん？」
「久しぶり。」
店の中に入った途端に、店員に声を掛けられる。
上は白いカッターシャツに、赤のチョーカーと黒のベストで、下は細身の黒いコットンパンツに、同じ黒いエプロンを腰に巻いている。
柔らかなブラウンの長髪が、後ろで一つに紐で結わいてあって、振り返った動作で跳ねた。
その見事に整った顔が、千冬の姿に柔らかな笑みを浮かべた。
「こっちに来るの珍しいね！今、マサキ・・・じゃなくて、店長呼ぶから。」
「あー、忙しそうだし・・・別にわざわざ呼ばなくても良いよ。今日は、食事しにきただけだから。―――席、空いてる？」」
「えっ、・・・こっちの席？」
「・・・連れが居るから。」
「あ、ごめんっ！後ろの子、慎くんの連れかぁ。」
「・・・は、初めまして。」
千冬が身体をずらしたので、覗くように視線を合わせて尋ねられて、拓は慌ててペコリと頭を下げた。
「―――初めまして。・・・何だよ、ここに慎くんがこっちの友達を連れてくるの、初めてじゃないか？慎くんの・・・“彼女”？」
「え？・・・あ・・・あの・・・」
笑顔のまま、千冬を肘で突くように言う相手の、思っても見なかった台詞に、拓の瞳が驚いたように見開かれる。
幾らジージャンやセーターで厚着をしているので身体のラインが見えないとはいえ、どう見ても自分は“彼女”には見えないと思う。
千冬は、少し困ったように微笑しながら、拓の唇に人差し指を当てて言葉を封印させた。
『・・・今夜は、そういう事にしといて。』
耳元に口を寄せて、千冬はそっと拓に囁く。
途端に、拓は耳まで真っ赤になって・・・小さく頷いた。
「うーん・・・今夜は結構予約のお客様も多いからなぁ。慎くんだけなら、“上”に行ってて貰うんだけど・・・」
「“上”でも構わないけど・・・今夜はあいつ等来る予定ある？」
「流石に今夜は来ても忙しくても全然相手してらんないって言ってあるから、あいつ等が来るとしても店が終わってからだと思うよ。今なら、貸切。」
「じゃあ、上の方が良いや。後であっちから注文するけど・・・」
「理解った。じゃ、これ鍵・・・っと、ヒーターの付け方とリモコンの位置は理解るよな。」
「理解る。サンキュ、“ヒロ”さん。」
ポケットから取り出された鍵をそのまま千冬に渡すと、千冬は綺麗に微笑う。
「ああ。ごゆっくり。」
応える相手の笑みも柔らかなものだった。
「じゃあ、行こうか。」
クルリと振り返ると、千冬は拓の腕を掴んでドアの外へ出る。
「―――千冬・・・さん？」
「上に行くには、外の階段からなんだ。」
キョトンとする拓に向かって、千冬は苦笑しながらそう説明した。


店の外に出て外観を良く見ると、確かに建物の端に白い螺旋階段が二階に向かって伸びていた。
「ちょっと暗いから、足元気をつけて。」
「う・・・うん。」
カンカンと音を立てながら、千冬がブーツで慣れた様子で上がっていく。
確かにライトの当たらない場所なので、足元がよく見えなくて、拓は手摺に掴まりながらゆっくりと一歩ずつ上るしかなかった。
階段を登り切ると、そこは西洋風のバルコニーの様になっていて、幾つかのテーブルと椅子が置かれていた。
そうして、壁側には幾つかのドアが付いていた。
その内の一つの前に千冬は立って、持っていた鍵をノブの下の鍵穴に差し込んだ。
カチャッという音がして、ドアが内側に開く。
何の躊躇もなく入った千冬が、慣れたように室内の電気を付けた。
天井の灯りに照らし出された、そこは８畳程の広さの個室だった。
真ん中に蒼く透明なガラスのテーブル。
三人掛けの革ソファーが対面で二つ置かれている。
壁には、アンティーク調の食器棚が並んで、ガラス窓の向こうには高級そうなガラスのコップが幾つも並んでいる。
その隣には、ワインセラー。
冷蔵庫も付いている。
そこは、お店というよりは、お洒落な応接間という感じだった。
「変わってないなぁ、ここは。」
エアコンのスイッチを付けて、グルリと部屋を一望した千冬は、ドアの側で恐縮してしまったまま入れなかった拓の側に戻る。
「ほら、座って。大丈夫だよ・・・ここは、知り合いの店だって言っただろ。」
「―――で・・・でも・・・ここ・・・っ！？」
手を掴んだ千冬が、そのまま拓を導いてソファーに座らせる。
座った途端に、フカッとした感触で包み込まれて・・・思った以上に身体が沈んで拓は驚く。
慌てて差し延ばした手を、千冬が掴んで引き寄せる。
「・・・び・・・びっくりした・・・」
「確かに初めて座ったらビックリするね・・・ふふっ、拓ちゃんの心臓、凄いドキドキしてる。」
「え？・・あ・・・千冬さ・・ん・・・」
千冬の言葉に、漸く自分の今の体勢に気付いた拓が、焦ったように身じろぐ。
千冬の腕の中・・・抱き締められている状態に、顔から火が吹き出そうだ。
「ずっと、このままで居たいけど・・・。―――腹も減ったし、何か食べよ。拓ちゃん、何が良い？あ、これがメニューね。」
「あ・・・ぼ・・・僕は・・・」
そっと差し出されたメニューに、千冬から赤い顔を隠すようにして、拓は必死で文字を目で追っていく。
「ま、お任せしちゃっても大丈夫だけど・・・拓ちゃん、嫌いな物ある？」
「えっと・・・特に無いです。」
「じゃあ、肉と魚だったらどっちが好き？」
「それは・・・肉の方が、好き・・・。」
「肉・・・ね。ん・・・理解った。ちょっと、待ってて。」
そう言うと、スッと立ち上がって千冬は壁に掛けられた受話器を外す。
「あ、ヒロさん？えっと・・・注文良い？―――え？もう雅紀さんが作ってるって？・・・あぁ・・・しょうがないなぁ・・・。じゃあ、メインは肉にしてって言って。・・・そう。後は任せるから。宜しく・・・。」
少し困ったような声で、そう喋っている千冬の声を聞きながら、拓は部屋の中を物珍しそうにキョロキョロと見回している。
受話器を戻して、視線を向けた千冬が、そんな拓の様子に微笑った。
「何か・・・珍しい物あった？」
「え？・・・あ・・・」
声を掛けると、途端にビクッとして身を縮込ませる拓に、千冬はゆっくりと隣に座りなおす。
「そんなに、緊張しなくても・・・」
「でも・・・こんな部屋、あんまり見た事ないから・・・その・・・落ち着かなくて・・・」
モジモジしながら小さく告げる拓の膝の上の手を、千冬はそっと握る。
「ここは、俺の・・・一族の者がやってる店だから。」
「一族？千冬さんの・・・？」
「そう。去年行った島の、覚えてる？」
「え？・・・は、はい。」
「あの時に拓ちゃんが会った、一総さんは？」
「―――はい。あの・・・色々お世話になった方でしたよね？僕、本当に一杯ご迷惑掛けちゃって・・・」
「あっちは、全然迷惑じゃなかったみたいだけどね・・・」
しゅんと肩を落として告げる拓に、気付かれないように千冬は小さく呟く。
「え？」
「・・・ううん。何でもない。だから、この店はその一総さんの・・・」
キョトンと拓が聞き返すと、千冬は困ったように微笑った。
「―――慎ちゃーーーんっ！！」
ドカッとドアが蹴破られる勢いで開いて、両手に皿を抱えたコック姿の青年が部屋の中に入ってくる。
「・・・ひっ！！」
その余りの勢いに、拓は思わずビクッと身を竦ませた。
「・・・雅紀さん・・・ちゃん付けは辞めてくださいって、何度も言いましたよね。」
そんな拓を庇うような体勢で、千冬は入ってきた人物を見て眉を顰めた。
「えー、慎ちゃんは、慎ちゃんだって！様付けなんて、他人行儀みたいで嫌じゃんかぁ。それに、こーんなちっこい頃から知ってんだから、今更。」
千冬の底冷えするような目線を受け止めながらもニコニコした笑顔のまま、青年は持っていた料理皿をテーブルの上にセッティングした後で、右手を自分の腰ぐらいの高さで示した。
それから、ハタと気付いたようにその視線を、千冬の腕の中で凝固していた拓に移す。
「あれ？・・・その子・・・」
小首を傾げて呟く相手に、ハッとしたように拓は姿勢を正す。
「あのっ！な・・・夏の時はお世話になりました。」
目の前の人物を真っ直ぐに見つめて、ペコリと頭を下げる。
「あー、うん、ゴメン。多分君の言っているのって、俺じゃないよ。俺は、雅紀って言うんだ。」
「え？」
拓が下げた頭を上げると、その人は困ったように苦笑している。
「全く同じ貌だし、間違えても仕方ないよ。拓ちゃん、この人は雅紀さんって言って、一総さんの双子の弟だから。」
「―――双子？」
「そう、俺は、千冬雅紀！初めまして。そうか、君が拓ちゃんなんだ。君の事は、カズから色々と聞いてるよ。俺、ずっと会いたかったんだよねぇ。」
ニコニコしながら言う相手に、拓は漸く相手が去年の夏にお世話になった相手ではない事を理解した。
そうして、会いたかったと言われた事にキョトンとする。
「え、どうして・・・？」
「だってさぁ・・・慎ちゃんが、わざわざ実家に連れ帰った相手だって言うから、もっとこう体格の良い男なのかと思ったら・・・こんなに可愛い子だったんだ。」
「・・・雅紀さん？一総さんから色々と拓ちゃんの事を聞いたんじゃないんですか？」
しみじみと呟かれて、拓は真っ赤になった。
ピクリと千冬の細眉が上がる。
「そりゃもう、あのカズが手放しで絶賛する相手なんて、滅多にいないじゃん？慎ちゃんの相手として申し分無いなんていうから、ご当主さま確定だと思ってた訳。しかも、四千家の中でも豪傑で有名な千夏家の琢磨を退けたツワモノって聞いたから・・・どんだけ“漢”なんだ？って思って・・・！」
笑いながら続けられた言葉に、拓は昨年の夏の出来事を思い出してちょっと遠い目をする。
確かに、今考えてみても、随分とムチャな事ばかりしてしまった記憶はあるのだ。
あの時は、その一瞬一瞬が精一杯で、自分が出来る限りの行動だったのだが・・・。
「―――拓ちゃんは、そういう意味では大した“漢”ですよ。」
「・・・千冬さん？」
「だって、そうだろ？拓ちゃんは、身を挺して俺を助けてくれた。他の誰にも出来なかった事なのに・・・俺でも半分諦めてたのに、最後まで信じて・・・。俺がこうやって、俺として今もここに居られるのは、全部拓ちゃんがしてくれた事の結果だよ。」
「そ・・・そんな！僕は・・・」
「それに、長い間の四千家の呪縛から俺を解き放ってくれたのも、拓ちゃんのお陰なんだ。」
拓の肩を抱き寄せて、千冬は大切な宝玉を護るかのように、そっと息を吐くように言葉を綴った。
その言葉に含まれる重みを知っているからこそ、拓は少しだけ困ったように微笑んだ。
「・・・そっか。慎ちゃんの事は、一族の中でも本当に特異だったからな。カズもずっと気を揉んでたし・・・。それで？呪いが解けたんなら、漸く慎ちゃんが直系の男子として認められて、当主になるのか？ん？」
「―――今更、四千家の他の当主たちが納得しませんよ。まだまだ、お祖母様が現役ですから・・・」
「でも、お社様にも認められたんじゃないのか？」
「・・・雅紀さん。その話はまた今度に。それより、折角の料理が冷めてしまうので、頂いても良いですか？」
「あ？・・・あぁ！そうだった！！ゴメンゴメン。えっと、口に合うかは理解らないけど・・・これが今夜のウチの特殊メニューだから。メインは肉で良いんだったよな。」
「ええ。」
「―――デザートはまた後で持ってくるから。じゃあ、ごゆっくり。」
軽く手を上げると、そのまま颯爽とドアから出て行く。
鮮やかな程の身の翻し方に、拓は唖然とその背を見送るしか出来なかった。
「・・・顔は一緒だけど、一総さんとは、正反対の性格してるから、雅紀さんは。」
言葉も出ない拓の様子に、気付いた千冬が苦笑する。
「さ、本当に料理が冷めちゃうよ。食べよ。」
「は・・・はい。」
千冬の声に、漸く我に返って拓はテーブルの上の料理を眺めて、ゴクッと唾を飲み込んだ。
「うわぁ・・・」
そこにあったのは、緻密な模様や様々な彩の美味しそうな料理の数々だった。
どちらかというと西洋風なそのテーブルセッティングに、拓は一瞬息を止める。
「あ・・・」
「ん？どうしたの？」
「えっと・・・僕・・・こーゆう料理を食べた事がないから・・・どうやって食べれば良いのか・・・」
「え？あぁ。ここじゃ、礼儀作法なんか気にしなくても構わないよ。どうせ、二人しかいないし。美味しく食べればそれで構わないって。」
ふふっと笑って千冬が自分のグラスに注ぎいれたのは、どうみても赤ワインだった。
今更な気がするが・・・一応自分たちは未成年であるし、ここまでバイクで来たのだが・・・。
ちょっとだけ困ったように拓が目線を向けると、千冬は意味深な笑みを浮かべる。
「これは、俺にとっては水みたいなものだから・・・酔ったりしないよ。拓ちゃんも、飲む？」
「―――え？」
言われてほんの少しだけどんな味なのか興味を持ったが、慌ててブンブンと首を横に振る。
「・・・遠慮・・・します・・・」
小さく呟いて、料理に集中する。
逃げるように目線をずらして・・・目に付いた料理に意識を捕らわれる。
それは透明なグラスに入った色鮮やかな物で・・・小さく切った野菜などがゼリー状に固められたものだった。
食べるのが勿体無いぐらいにキラキラ光っている。
「うわぁ・・・」
手に取って、スプーンを使って一口食べた拓は、口に入れた途端に、顔を綻ばせた。
「・・・凄く、美味しい」
幸せそうに蕩けた顔のまま、拓は絶賛状態でスプーンを動かした。
「ふふ・・・そんな顔して拓ちゃんに食べてもられる料理の方に、嫉妬しちゃいそうだよ。まぁ・・・雅紀さんの料理の腕だけは本当に凄いからねぇ・・・」
そんな拓の様子に、千冬は柔らかな笑みを浮かべながら、自分も料理に手を付け始めた。

実際、料理はどれを食べても申し分ない程洗練されていて、目にも舌にも十分に満足できる最高の物だった。
特に、後から持ってきて貰ったデザートの美味しさといったら、あれだけたっぷりと食事を取った後だというのに、物凄く美味しくて感動できる味だった。
初めて食べる物だったので、洋風の名前を言われても全く拓には理解出来なかったのだが・・・口に含んだ途端に口内に広がった味は、至福と言っても過言では無いほど美味だった。
しっとりと柔らかく滑らかな口当たりのココア風味のシフォンに、大きないちごの粒の入ったジャムと、熱く蕩けたチョコレートがかけられていて、横に甘酸っぱいオレンジ色のシャーベットが添えられていて・・・。
料理の時以上に顔中に蕩けそうな笑顔を貼り付けて、嬉しそうにデザートを食べる拓に、千冬は自分の分まで差し出した程だ。
尤も、その見返りにデザート代わりに拓の甘い唇を散々奪い取って、千冬はデザート以上に拓の心をドキドキさせたが―――。

「・・・はぁ。」
思った以上にお腹が一杯になってしまい、拓が小さく息を付く。
「・・・美味しかったぁ・・・」
それから、うっとりと表情を綻ばせて微笑う。
トロンとした拓の笑顔に、引き寄せられるように千冬は口付けた。
「・・・っ！」
「・・・付いてた。」
ペロッと出された舌が、拓の口端に残っていたチョコレートを舐め取る。
そのまま深く重なるキスに、拓は顔を真っ赤にしたまま固まった。
千冬の目元の赤さは、酔っているかのように見えたが・・・腕の強さは確実に拓を追い詰める。
そのままソファーに押し倒されそうな状態に気付いて、流石に拓は身動いだ。
「あ・・・あの・・・」
「―――何？」
「こ・・・こんな場所で・・・」
真っ赤になってウルウルする拓に、千冬は綺麗に微笑う。
「我慢できない。拓ちゃんが、凄く美味しそうだから。」
見惚れてしまいそうな綺麗な笑みを浮かべながら、千冬が告げた言葉は、拓を更に追い詰めただけで。
声も無くブンブンと頭を小さく横に振る拓は、小動物の様に怯えている。
だが、そんな姿が更に千冬を煽っているのだと、拓が知る由も無く。
密かな抵抗もあっさり口付けで封じ込まれて、裾から潜り込んでくる低い体温の千冬の指先に、ビクリッと拓の身体が震える。
「ねぇ、食べても―――良い？」
どうすれば良いのかグルグル回っている拓の迷いを、全て奪い取っていくかのような千冬の優しい愛撫に、逃げ道は何処にも無くて・・・諦めたように拓は瞳を瞑る。
「―――千冬さんっ―――っっ！！」
バタンッッ！！
瞬間、時が凍りついたかと思った。
笑顔でドアを開けたままの状態で固まっている者。
拓に覆いかぶさったまま、ピキリと額に青筋を立てて動きを止めた千冬。
大きく瞳を見開いたまま、声も無く驚愕している拓。
「この馬鹿が、大変失礼な事をしました。申し訳ありません。」
―――一拍の後から現れた者が、何事も無かったかのように、冷静沈着にそう告げて、固まっていた者の首を掴んで外に放り出すと、そのままパタンとドアを閉じる。
一連の出来事が漸く理解ると同時に、時間も動きだす。
「・・・あの・・・今の・・・って・・・」
大きな目に大粒の涙を浮かべたまま、拓がフルフルと首を横に振って千冬に説明を求める。
起き上がった千冬は、垂れた髪を掻き揚げて、綺麗な顔を微妙に歪ませた。
「・・・あぁ。厄介な奴等に見つかった。ゴメン、拓ちゃん・・・鍵閉めときゃ良かった・・・」
深い溜め息を吐いて、千冬は拓を慰めるように抱き締めた。
ドアの外は外で、何やら揉めているようだ。
涙の滲む拓の目尻に優しくキスをして、千冬は拓の乱れてしまった服を手際よく直すと、安心させるように、手を握った。
「何も気にしなくて良いから・・・」
「・・・千冬さん・・・？」
トントン。
千冬の言葉に、拓がキョトンと見返した途端に、ドアがノックされる。
ドキッと拓が驚いて、目線が泳ぐ。
「ちょっと、話してくる。ここで待ってて。」
そんな拓の様子に、千冬は困ったように微笑って立ち上がる。
「・・・あ・・・」
置いていかれる不安に、思わず見上げてしまうと、柔らかなキスが降りた。
「すぐ、戻るから。」
一瞬で身体を離した千冬が、ドアに向かう。
カチャッと小さく扉を開けて、二言・三言何かを言うと、そのまま細い隙間からスルリと外に出て行く。
パタンと扉が閉まって、力を失ったかのように拓はソファーに突っ伏した。
「はぁ・・・ビックリした・・・」
何だかもう、頭の中が一杯一杯でグラグラで、物凄く疲れた気がする。
緊張の連続に耐え切れなくて・・・柔らかなソファーの気持ち良さやお腹が一杯なのも手伝って・・・いつしか拓の意識はウトウトと薄らいでいった。

部屋の外に出た千冬は仁王立ちの状態で、目の前の人物を睨み付けた。
「―――で？」
「すみません、慎様。この馬鹿を、止められませんでした。」
眼鏡を掛けた理知的な顔付きの青年が、詫びるように頭を下げる。
チラリと向けた視線の先には、床に崩れ落ちるように咽び泣いている男が一人。
最初にドアを開けて固まった男だ。
「ううぅ・・・俺の千冬さんがぁ・・・」
訳の理解らない事を呟きながら、でかい図体で床に“の”の字を書いている姿ははっきり言ってウザイ以外の何でもない。
「宗近・・・こいつ、踏んづけて良いか？」
「喜ぶだけですよ。」
「―――じゃあ、止めとく。」
額にピキッと怒りマークを浮かべた千冬が、すらりとした足を持ち上げようとしたら、そんな言葉が返ってきたので、嫌そうに戻す。
そうして、溜め息を付いて髪を掻き揚げた。
「あ、ごめんねー、慎くん！今夜は大切な連れがいるから、慎くんの邪魔したら駄目って言う前に、こいつ飛び出しちゃって・・・」
下から階段を登ってきた千紘が、持っていたトレーで床に座り込んでいる男の頭を殴る。
パカンと良い音が辺りに響き渡った。
「いてぇ！」
「・・・自業自得だ。」
涙目で顔を上げる男に、眼鏡の青年が冷静に告げる。
「―――うん。宗近くんにまで、迷惑掛けちゃ駄目だろ？」
「千紘さん・・・こいつが馬鹿なのは今更ですから。それより、慎様がいらっしゃるなら、俺たちは帰った方が・・・」
「いや、こっちがもう帰るから。」
「慎様？」
「食事も済んだし・・・雅紀さんには悪いけど、今夜はもう帰る。」
「えぇ？最後の客も帰って、もうすぐ店が終わるから、今夜は色々話せるぞーっ！・・・って物凄く上機嫌でキッチンで皿洗いしながら踊っている雅紀に、なんて言ったら・・・」
千冬の言葉に、千紘がザッと青褪める。
「・・・今夜は、無理。折角、雅紀さんの料理の御陰で、ご機嫌で蕩けそうだったから、ちょっと強気でお願いして甘えてたら、こいつがいきなり部屋ん中に飛び込んできた。・・・ショックで、凄く怯えてる。少し、泣かれた。」
千冬の説明に、沈黙が落ちる。
「―――それじゃ、確かに無理だな。・・・て、じゃあ・・・あの子、今、部屋の中で一人？！」
「こいつ等、入れる訳にいかないから。だから、もう帰るよ。」
冷ややかな氷のような視線を、泣き崩れている男に突き刺しながら千紘が尋ねると・・・千冬はそう言って、クルリと身を返してドアを開けた。
だが、中に入って一分もしない内に戻って出てきた千冬は一人だった。
そうして、困ったように千紘に目線を向けた。
「ヒロさん・・・。雅紀さんに・・・寝室の鍵、借りられるかな？」
「慎くん？」
「起こすのが勿体ないぐらい、気持ち良さそうにソファーで寝ちゃってるから・・・」
「じゃあ、そのままでも・・・毛布はあるし・・・」
「―――あそこじゃ、添い寝できない。」
きっぱり言う千冬に、千紘は苦笑した。
「了解。ちょっと、待ってて。」
「ついでに、赤ワイン追加で。」
階段を降りていく千紘の背中にそう告げると、了解の合図の様に片手が挙げられた。
「こちらに泊まっていくのですか？珍しいですね。」
「あんな状態で無理に起こしても、もうバイクの運転できないし・・・。どうせ、今夜はウチに泊まる予定だったから、拓ちゃん。」
「―――え？拓って・・・あの？」
「悠里さんから、何も聞いてないか？」
「いえ。話は聞いておりますが・・・それでは、あの方が浅川拓様なのですか？」
「そう。俺が見付けた、“龍珠”。」
珍しく言葉を濁す相手に、ちょっとだけ意識が捕らわれるが、確認するように尋ねられて、千冬は蕩けそうな微笑みを浮かべた。
「慎くん！はい、これ。」
「サンキュ、ヒロさん。じゃあ、悪いけどベッド使わせて貰うから。あと、間違っても寝室ん中には入って来ないで！」
戻ってきた千尋から鍵を受け取ると、そう釘を刺して千冬はドアを開ける。
そのまま部屋を突っ切るようにして、最奥のドアに向かう。
鍵穴に貰った鍵を差し込んで、開くと暗い部屋が広がる。
壁にあるスィッチを押して、灯りを付けると、真ん中に巨大なダブルベッドが一つあるだけの閑散とした部屋だった。
先程と同じようにリモコンで暖房を入れて、部屋の温度を上げると、千冬は眠っている拓の元へ戻った。
黒いソファーに半ば沈み込むような格好で眠っている拓の姿は本当に無防備で、あどけない表情など誘っているようにしか千冬には見えない。
本当なら、柔らかな唇や甘い身体を思う存分味わっていた筈だったのに、折角のチャンスも泡になってしまった。
流石に、彼らの目の前でそういう行為に及ぶのも白けるし・・・拓の眠りを妨げるのも勿体ない。
それでも、これ以上他人の視線に、大事な拓をこんな状態で晒すのも嫌なので、そっと身体の下に腕を差し込む。
「・・・ん・・・？ちふゆ・・・さ・・・」
「ここじゃ、風邪引くから・・・あっち行こう。もう少し寝てても大丈夫だから。」
「・・・は・・い・・・」
少し覚醒した拓が、まだ眠そうに呟く。
そんな拓を抱えあげたまま、千冬は柔らかな声を掛けて、優しく微笑う。
そんな千冬に安心したように身体を預けたまま、拓はまた眠りの世界に沈んでいく。
静かにベッドに下ろしても、その瞳が開く事は無くて・・・穏やかな寝顔のままだ。
完全防音の部屋なので、隣でいくら騒いでも響かないのは以前使用したので理解っている。
「お休み、拓ちゃん。良い夢を・・・」
そっと、額にキスを落として、千冬はそう呟いた。
そうして、部屋の灯りを一番暗くして、部屋のドアを閉めた。

二時間後、酔っ払いどもの追求から逃れた千冬は漸く寝室に戻ってきた。
久しぶりに一族の者達と交わす酒は、思った以上に気分を高揚させた。
ふぅっ・・・と軽く息を吐いて、千冬はベッドに近付く。
窮屈な服を全て乱暴に脱ぎ捨てると、少し大きめのガウンだけを羽織ってそのまま布団の中に潜り込む。
一瞬だけベッドが軋んだ音を立てたが、拓が目を醒ます事は無かった。
近付いて寝顔を見遣ると、ほんのりと頬が紅潮している。
拓がアルコールに弱い事を、千冬は知っていた。
知っていて―――黙認したのだ。
最後に食べたデザートには甘さの所為で分かりにくくなっていたが、アルコール度数の高いリキュールやブランデーが結構含まれていた事に。
それを、拓は千冬の分まで平らげたのだ。
―――帰れる筈も無かった。
深く寝入っている拓は、千冬がそっと抱き締めても起きない。
それを良い事に、千冬はその髪先に甘くキスをした。
愛しむように額にも口付けて、それから柔らかな弾力の頬に。
最後に、甘い唇に触れる。
そこはほんの少しチョコレートの味が残っていた。
甘い唇を舐めた舌に感じたそれに、千冬の笑みが深まる。
最後に食べたデザートこそが、今日拓をここに連れてきた最大の理由だったから。
２月１４日のバレンタインデー。
昨年の記憶が蘇って、千冬は少しだけ苦笑する。
出会って半月も経っていないその日、どうしてもチョコレートに想いを込めて渡したかった千冬は、拓を地元に浚うという行動に出た。
そうでもしなければ、拓の側にはそれが当たり前の様に存在する邪魔が山の様に居たから。
あの時は、こんな関係では無かったから、連れ戻しに来た連中にあっさり奪い返されてしまったけれど。
こっちに逃れてきた中学時代から、腐れ縁のような八尋には、拓に執着する事について散々怒られたり呆れられたりしているけれど・・・それでも、諦め切れなくて。
最初は、龍神が護っている事が不思議で心惹かれて・・・その身を覆う気の清廉さに驚きが湧き上がり―――“龍珠”なのだと知って、欲しくなった。
それは、空を飛べる力ある【龍（カミ）】になりたかった“蛇”の願い。
拓を渇望するのは、自分の身体を流れる呪われた血が齎す故の感情なのだと、千冬はずっと思っていた。
その身を手に入れられれば、四神を統べる龍神にも匹敵する力が手に入るのだ―――と。
夏の出来事は、半分は自分の偽りと姑息な想いが生んだ罪に対する罰だった。
断られても十分可笑しくない話だったのに、拓は千冬を信じて・・・少しも疑わなかった。
呪われた血の呪縛に捕らわれて、自分でももう逃げられないと千冬でさえ諦めたのに、拓だけが最後まで諦めなかった。
全身に鱗が生えた自分の異形の姿を思い出して、千冬は少しだけゾクリと背筋を振るわせた。
拓が居なければ、自分はこの姿で今ここにいない。
あの時、拓が居たから・・・。
身の危険を顧みず、千冬の為に命がけで手を伸ばしてくれた拓が居たから―――拓だったから、“呪縛”は解けたのだ。
今も、拓は自分がどれだけ凄い事をしたのか理解っていない。
ただ、微笑って「良かった・・・」と言うだけだ。
千冬の顔が、苦しげに歪む。
“龍珠”を欲しがっていた呪われた血は失われた筈なのに、拓を求める気持ちは少しも衰えなくて・・・。
触り心地の良い髪も、柔らかな頬も甘い唇も・・・。
恋焦がれて狂いそうな感情を、優しい拓の性格を利用して手に入れた身体で治めた―――愚かな自分。
同情から始まった関係に甘えてずるずると引き摺っているのに、もう手放す事が出来ない。
千冬が想うほど、きっと拓の想いは深くない。
―――千冬から会いに行ったり、呼び出したりしなければ・・・拓が千冬に会いに来る事は無いのだ。
千冬が側に居なくなっても、間違いなく拓の生活は変らない。
それが、嫌と言うほど理解ってしまうから・・・千冬は更に拓を側に置いておかないと不安で仕方なくなる。
こんな風に抱き締めて、腕の中に拓の存在を感じていられるのなら、このまま時間さえ止まってしまっても構わないと思う。
永遠に抱き合ったまま眠りに就けると言うのなら。
それでも・・・キラキラと輝く黒曜石の瞳や、溢れ出る清廉な気は、拓が生きている証であり―――それが千冬を魅了して、ストンと心を射抜いたのだ。
『恋は堕ちるもの。』
それは、甘くて切なくて狂おしい程の・・・痛みを千冬に齎した。
「おやすみ・・・拓ちゃん。」
吐息が零れ落ちる。
小さくて柔らかな身体を抱え込むように包み込んで、千冬はそっと瞳を閉じる。
体温の低い自分よりも暖かな拓の温もりが、優しい夢を運んでくれるような―――そんな気がした。