「―――おはようございます、慎様。拓様。」
身支度を整えた千冬の後から、オズオズと部屋を出た拓は、昨夜自分がソファーで寝てしまった部屋に続いていたのだと気付いて驚いたが、部屋を出た途端に掛けられた声に、更に驚愕した。
「・・・一総さん？何時、こっちに？」
目線を向けた千冬も知らなかったようで、驚いたような声が響いた。
「都内での仕事を終え、今朝の便で島に戻ろうとした折、慎様と拓様がこちらにおいでだと、愚弟より呼び出されまして。」
優雅な雰囲気でスーツ姿のままソファーに座っていたのは、その醸し出す雰囲気からして上に立つ者の気品を兼ね備えている千冬家筆頭の千冬一総その人だった。
昨年の夏に、散々世話になった人に再会して、思わず顔を綻ばせ様とした拓は、次の瞬間自分の今の状況に思い至って、慌てて千冬の影に身を隠す。
「拓様？どうしました・・・？私をお忘れですか？」
声を掛けられても、恥ずかしくて顔を見れない拓はギュッと千冬の服の裾を握る事しか出来なくて・・・。
一方、一総の方は忘れられてしまったのかという憶測に、慌てたように立ち上がって二人の側に近付いた。
「あの・・・覚えてます。・・・けど・・・その・・・」
「―――一総さん。既に知ってると思うけど、拓ちゃん物凄い恥ずかしがり屋だから・・・皆が俺たちの関係を知ってるって聞いて、恥ずかしくてどうしたら良いか理解らないって。」
「・・・は？」
拓の代わりに千冬が答えたのだが、その言葉事態が理解出来なかったかのように、一総は不意を突かれたような表情を浮かべた。
「え？慎ちゃん、ちゃんと説明して島に連れてったんじゃ無かったのか？！」
一総と全く同じ表情で、驚いたように言ったのは雅紀だ。
千冬は困ったようにただ苦笑する。
「・・・あの時は、親戚が無理やり決めた婚約者と結婚させられそうで、それが嫌だから・・・女性として戻らなきゃならない千冬さんの、恋人のフリをして欲しいって言われて・・・それが一族公認になるなんて一言も聞いてませんっ！そりゃ・・・確かに最初はそんな話でしたけど・・・今じゃ、千冬さんが男だって皆さん、知ってるんですよ、、、ね。―――なのに、どうして・・・？」
真っ赤になったまま、拓は泣きそうな小さな声で言い募った。
「うわぁ・・・」
雅紀は片手で目を覆って天井を向いた。
一総も無言のまま眉間に皺を寄せて・・・指先で額を押さえた。
「慎くん、やるぅ！」
「計画的犯行ですね。」
「・・・うあぁ・・・そんな役なら俺がやったのにぃ・・・！」
顔を見合わせて笑いあったのは、千紘と眼鏡の青年で・・・その横で大柄の青年が頭を抱えて唸っている。
「理由は事実だったけど、公認になるっていうのは内緒にしてた。怒ってる？―――ごめんね。」
「・・・・・」
素直に謝る千冬に、拓は困ったまま目線を落とす。
「拓様。・・・慎様を、怒っておられますか？」
傅くように床に膝を付けた一総が、俯く拓にそっと問い掛ける。
黙ったまま、拓は大きく首を横に振る。
「―――では、お嫌いですか？」
重ねられた言葉にも、同じ動作をする。
耳まで赤くした拓が本当に恥ずかしがっているだけなのだと悟った一総は、目線を千冬に合わせた。
返す千冬の眼差しも、蕩けそうな程柔らかだ。
「ならば、我等の事はお気になさらなくても結構です。先の事はお二人でお決め下さい。恥ずかしがる事も、卑屈になられる事もございませんから。」
「・・・一総さん？」
「我等の次期当主である慎様のお命を救い下さったのは、他の誰でもなく貴方様なのです。そうして、全てを諦めていた慎様のお心を救って下さったのもまた・・・」
キョトンとした顔で、拓は自分の前に跪く一総を見つめた。
そんな拓に安心させるように微笑むと、一総は静かにそう告げて―――。
「―――一族一同、心よりお礼を申し上げます。ありがとうございます。」
深く平伏した。
「あ・・・あのっ・・・そ・・・そんな・・僕・・・」
オロオロと困惑する拓を、優しい腕が包み込む。
「・・・千冬さん？」
「だから、恥ずかしがる事無いって言っただろ？逆に、拓ちゃんに嫌われたら俺、一族から追放されそうな勢いだし・・・」
「―――慎様っ！お戯れは！」
「うん。本当は、次期当主なんて面倒臭いし、この２１世紀の現代で家とか柵とかありえないけど・・・俺の身体の中に流れる血統が逃がしてくれない。でも、適当な女と結婚して子供作って血を残すなんて・・・考えただけで、ゾッとする。だから・・・」
拓の髪に頬を寄せて、千冬は遠くを見るような視線で空を見る。
「―――俺は、拓ちゃんを利用しているだけなのかもしれないよ？」
視線を戻して拓を見ながら小さく吐き出された言葉に、言った千冬と拓以外の全員の表情が凍りつく。
言われた拓は、真っ直ぐな眼差しを千冬に向けて・・・少しだけ吐息を零した。
そうして、千冬の手をそっと取る。
「―――拓ちゃん？」
「あの・・・僕・・・上手く言えないけど・・・千冬さんの事、全部理解ってるなんて言えないけど・・・でも・・・ごめんなさい。」
困ったように浮かべられる微笑。
それだけで、千冬にも理解る。
千冬の言葉を、拓が全く信じていない事を。
そうして、千冬の心を思いやって・・・謝罪の言葉で優しく癒した。
答える代わりに、千冬は拓に触れた腕に力を入れた。
「・・・拓様？」
「あの、恥ずかしいのはどうしても恥ずかしいんですけど・・・頑張って我慢します。僕も千冬さんと一緒に居ても良いって・・・皆さんに、認められたいから・・・。」
「は？」
「・・・千冬さんの優しい笑顔が大好きだから・・・側に居るのを許される限り・・・側に居たいんです。」
千冬の腕の中で真っ赤になりながらそう告げる拓に、一総は漸く心を落ち着けた。
そして、千冬の言葉は余りにも不条理なものだと言うのに、それすらも全て受け入れて包容してしまった拓に、感服した。
「―――慎様。」
思ってもいなかった言葉を告げられたかのように瞠目している千冬に、一総は念を押す。
「くれぐれも、宝珠を御守り下さいます様重ねてお願い申し上げます。」
それは、言外に『これ以上ふざけた事抜かすと、唯じゃおかねぇぞ！』という意味が含まれている事を、拓以外の全員が理解した。
「・・・理解っている。」
「それならば、結構です。さ、拓様・・・愚弟の用意した粗末な物で申し訳ありませんが、お腹は空いておられませんか？」
表情を変えて、怒ったように言う千冬に頷いた後で、一総は拓に向かって優しく声を掛ける。
途端に、雅紀が顔色を変える。
「ちょっ・・・カズっ！さっきから愚弟、愚弟って、あんまりじゃん！」
「愚弟を愚弟と言って何が悪い？家督は兄が継ぐものだと勝手に決めて、自分はさっさと大学を中退して海外へ逃げ出して、放浪しながら培った自己流の料理を出す為の店の資金を、私の振りをして家から引き出そうとして、勘当を食らった愚弟だろう。」
「・・・グッ！」
「うわぁ、雅紀・・・そんな事したんだ・・・」
「雅紀さん、それは犯罪です。」
「全くだ。」
言葉に詰まった雅紀に、千紘が唖然と呟く。
眼鏡の青年の言葉に、一総は重く頷く。
「あの・・・でも、昨日の夜頂いた料理はどれも凄く美味しかったです！特にデザートはあんまり美味しくて・・・僕、千冬さんの分も頂いてしまって・・・」
がっくりと肩を落とす雅紀に、拓が声を掛ける。
「それに、千冬さんも料理の腕を褒めてましたよっ？！」
「―――っ！！」
更に続けると、弾かれたように上げられた視線が、千冬に集中する。
「料理の腕は認めている。大体、そうでなければわざわざ昨日を選んで拓ちゃんを連れてくる筈もないだろ？」
困ったように千冬は目線を逸らして、そう呟いた。
「・・・因みに、あのデザートのチョコレートケーキは、慎ちゃんからのリクエストだから。」
「チョコレートケーキ？」
「そう。バレンタインフェアの目玉。」
ニヤッと口端を持ち上げながら告げた雅紀の言葉に、拓は漸く何の為に昨日千冬に呼び出されたのかを理解した。
同時に、首まで真っ赤になる。
「あの・・・千冬さん・・・」
「美味しかった？」
「・・・はい。―――ありがとう・・・ございます。」
「どういたしまして。」
ギクシャクと礼を返す拓はすっかり緊張状態だ。
にこやかな笑顔の千冬の綺麗な笑みが、ちょっとだけ怖い。
すっかり忘れていた拓は、お返しのチョコなど用意していないのだ。
「お返しは―――」
「あ・・・あの！来月っ！！ちゃんと来月までに用意しますからっ！」
「それは、後で相談・・・と言う事で。取り合えず、先に朝食を食べようか。雅紀さん、用意して下さい。」
極上の笑顔は確かに美笑だけれども、それは拓の望んでいるモノとはかけ離れている貌だ。
墓穴を掘った事を後悔している拓を促すように一緒にソファーに座った千冬は、満面の笑みを惜しげもなく披露して穏やかに命令した。
「お・・・おうっ！」
「あ、俺も手伝うよ。」
弾かれたように身体を動かした雅紀が階段を駆け下りていく。
その後を追い掛けるように、千紘も降りて行った。
部屋の中に残ったのは、５人。
その内の二人は拓の見知らぬ人間だ。
今までの会話の内容からして、千冬の言っている一族という者達なのだとは、何となく理解できたが・・・。
恥ずかしさやドキドキが落ち着いてきたら、今度はそっちが気になってついチラチラ見てしまった。
「・・・拓ちゃん？どうした・・・って、あぁ、こいつ等はまだ紹介してなかったっけ。」
気付いた千冬が、一総の後ろで空気の様に立っている二人に視線を向ける。
「二人共、四千家の者だよ。まぁ、宗近は、他家へ嫁に行った者の血族だから、随分血は薄くなっちゃってるけど・・・」
「―――昨夜は、ご挨拶もせず、すみませんでした。北条宗近と申します。母が元千冬家の者で、慎様がこちらに居る間の世話を勤めさせて頂いております。今後とも宜しくお願い致します。」
眼鏡を掛けた青年が、すっと一歩前に出てきて、拓に深々とお辞儀する。
「あ・・・浅川拓です。こちらこそ、宜しくお願いします。」
慌てて拓も同じように頭を下げる。
だが、宗近の隣に立っていて不機嫌を顕にしたような表情の大柄の青年は、腰に手を当てたまま口を開かない。
「―――琢也。」
「俺は、認めないからなっ！お社様が認めたとしても・・・千冬さんは千夏家に・・・っ！」
低く一総がその名を呼び、諌めようとすると、弾かれたように大きな声で叫ぶように告げられた言葉が途中で途切れる。
パコーンという強烈な音は、後から室内に響いた。
スローモーションの様に、大きな身体が吹き飛び壁にぶち当たる。
「あー、悪ぃ、俺・・・スゲー足癖悪いから。それと、慎ちゃん・・・そいつここで殺しても部屋が汚れるし後がメンドクサイから、どうしても殺る気なら、一総に連れて帰ってもらって、始末させて。」
ドアを開けたまま、両手に皿を持った雅紀が、ニコヤカな笑みを浮かべたまま、そう言った。
「雅紀！拓様に当たったらどうするつもりだっ？！」
「あー？んなの、慎ちゃんが護るだろ？そうでもしなきゃ、手を汚させるとこだったぜ。」
立ち上がって声を上げる一総に、何事も無かったかのように雅紀は持っていた大きな皿をテーブルにセッティングしていく。
よく見ると、皿は幾つかに区切られたプレートで、その中に色とりどりの料理が美味しそうに並んでいた。
雅紀の言葉通りに、千冬は拓を腕に抱え込んだままだ。
ぶち切れそうになって、懐のナイフで口を切り裂いてやろうとソファーから立ち上がろうとして、すぐ横を矢の様に過ぎた物から拓を護る為に動きを変えなければならなかったのは、確かだ。
「―――っ！」
顔面を強襲した靴を床に叩き付けるように落としてから琢也は立ち上がり、口元の血を拳で拭う。
「お前・・・本当に馬鹿だな。あの島でお社様が認めたのなら、それは四千家統べての決定事項なんだろ？しかも血の縛りがなくなった今、千冬家が千夏家に、慎様を渡す筈がないだろうが。こんな奴等が跡取りじゃ、千夏家も次で終わりだな。」
「宗近っ！！」
指先で眼鏡を持ち上げながら、呆れたように宗近が言うと憤ったように目を剥く。
荒々しい気性は、確かに以前見た千夏家の者と酷使していた。
あの時の事を思い出して、拓は一瞬身体を震わせる。
拓の怯えに気付いた千冬が、安心させるようにその身体をきゅっと抱き締めて、髪先にキスする。
「大丈夫？・・・拓ちゃん。」
「―――はい・・・。」
困った表情で拓は小さく頷く。
「申し訳ありません、拓様。お怪我はありませんか？」
「ぼ・・・僕は大丈夫です・・・それより・・・」
今は隠す事も無くなった完全な敵意を向けてくる相手を、拓は恐々と見つめる。
雰囲気が違っていたから今まで気付かなかったが、目の前の相手は確かに千冬の婚約者として現れた千夏琢磨とよく似ていた。
「あれは、気にしなくても構いません。慎様も余り刺激を与えないで下さい。幾ら見せびらかしたいとはいえ、余り良い趣味ではありませんよ。」
「―――一総さん！」
「申し訳ありません。しかし、慎様も千夏家の気性をご存知でしょう？あちらは、障害があればあるほど燃え上がる一族ですよ？態々火の粉を被るような真似はお止め下さい。」
「・・・ウザイ。」
嗜めるように言葉を綴る一総に、千冬は一気に不機嫌な表情を浮かべた。
その時、雅紀と同じような格好で、階段を上がってきた千尋が部屋に入ってきた。
「あれぇ？険悪ムード？この馬鹿が何かした・・・って、したんだ。しょうがないなぁ、琢也は。ごめんね、慎くん。こいつさぁ慎くんに初めて出会った時から一目惚れで・・・んで、相手が自分の兄の婚約者だって知って、泣く泣く諦めたのに・・・慎くんが本当は男だって知ったら、じゃあ自分にもチャンスがあるかもって勘違いしてて・・・」
緊張感漂う部屋の空気を感じ取った千紘は、テーブルの空いている場所に持っていた物を置きながら、困ったように苦笑する。
「―――千紘さんっ！？」
「好きな相手を虐めるしかできない頭ガチガチの武家である千夏家の男が、昔からの仕来たりで決められた婚約者以外と結婚なんて出来る訳ないだろ。しかも、相手は慎くんだよ？四千家の中でも一筋縄じゃいかない一総や雅紀と同じ血が繋がってるっていうのに・・・。相手にされてないのなんて最初から理解れって。」
更に繰り出された凄まじく容赦の無い千紘の言葉に、琢也は赤くなったり青くなったりした後で、ダーッと涙を流す。
その姿には、拓の方がギョッとしてしまった。
だが、他の者たちはそれが当たり前のように平然としている。
「あ・・・あの・・・」
何だか、泣いている相手の方が可哀想になってしまって、拓はオズオズと声を掛ける。
「貴方も、千冬さんの事が好きなんですよ・・・ね。ごめんなさい・・・僕が、千冬さんに相応しい相手じゃなくて・・・。」
「―――拓ちゃん？！何、言って・・・」
「で・・・でも・・・千冬さんが・・・僕で良いって・・・僕が良いって言ってくれたから・・・だから本当は、認めて貰えなくても・・・良いんです。」
「拓様？」
「認めて貰えるように頑張るけど・・・きっと、認めてくれない人もいると思うんです。でも・・・さっきも言ったけど・・・僕が側に居て、千冬さんが笑ってくれるなら・・・それだけで、嬉しいから・・・」
真っ赤になったまま、しどろもどろに拓は想いをもう一度口にする。
途端に浮かぶ千冬の微笑は、今までその場の誰も見た事が無いような蕩けそうな物で。
「いいなー、慎ちゃんっ！俺もそんな事言ってくれる相手が欲しいっっ！！」
雅紀が、ニヤニヤしながら親指を突き出した。
「そうそう、お前等の一族に足りないのはこーゆートコなんだよ。お前も、一歩下がって相手を思いやる心をもうちょっと養え。」
涙に濡れた瞳で千冬と拓を凝視していた琢也に、千紘が近付いてその肩をポンポンと叩く。
それから、その腕を掴んで立たせると、自分よりも遥かにしっかりとした体躯の青年の身体を有無を言わさず引き摺るようにしながら、部屋の外に出て行く。
「折角、温めなおしたのにまた冷めちゃうよ？雁首揃えてたって仕方ないんだから、他の人達は下へ行くっ！ほら、雅紀も一総もぐずぐずしない！」
「はいはい、了解。」
「そうですね。」
ドアの所で振り返った千紘が、命令するようにそう言うと、雅紀と一総も目線を交わしてから頷いた。
宗近は既にドアの外に出ていた。
「それでは、慎様。拓様。どうぞ、ごゆっくり。」
「足りないものあったら直ぐに持ってくるから、電話してくれ。慎ちゃん。」
全く同じ顔が、全く違う表情で言葉を発する。
生真面目な顔の一総と、笑顔の雅紀。
背負うモノや環境の違いでここまで差が出るのだという見本のような二人だ。
パタンとドアが閉められた瞬間、拓は緊張の糸が切れてヘナヘナとソファーに崩れそうになる。
「・・・はぁ・・・緊張したぁ・・・あ！」
支えた千冬の腕に捉まったまま、溜め息を吐いた途端に、鳴ったお腹に瞬時で頬を染める。
ふふ・・・と微笑って、千冬は手元の更に手際よくプレートの料理を取り分けて拓の前に並べた。
「―――ウザイ奴等で、本当にゴメン。こんな事なら、もっと早い時間に来るんだった。9時過ぎなら空いてるからって言葉を鵜呑みにしてきたから・・・あ、ジャム塗っちゃっても良い？」
「はい。ありがとうございます。でも・・・千冬さんの所為じゃないです。・・・だって、僕もここで寝ちゃって・・・幾ら美味しい料理でお腹一杯だって、初めて訪れる場所であんな風に寝た事なんてないのに・・・」
まだ十分暖かいパンにジャムを塗ると、千冬は拓の皿に置いた。
自分用にはマーガリンを薄く引いている。
拓の言葉に、千冬は少し苦笑する。
「そのまま朝まで寝ちゃうなんて・・・本当にごめんなさい。」
「それこそ、拓ちゃんが謝る事じゃないんだけど・・・まぁ、今更言ってもしょうがない。取り合えず、食べよう。」
「・・・はい。頂きます。―――うわぁ、凄く美味しいです！このパンふかふかしてる・・・」
たっぷりジャムが塗られたパンを、一口齧った拓が表情を綻ばせる。
美味しいものを食べている時の拓の顔は、本当に千冬の目を惹き付ける。
幸せそうなその顔を見たいが為に、千冬はいつも拓に美味しいものを食べさせるのだ。
「このサラダのドレッシングも美味しい。卵もお母さんが作ってくれるのよりずっとふわふわだし・・・やっぱり、凄いです。」
「ふふ・・・そんなに褒めちぎってるとこを雅紀さんが聞いたら、飛び上がって喜ぶよ。」
「そ・・・そうですか？・・・でも・・・本当に、美味しい・・・」
千冬の言葉にちょっとだけ恐縮した拓は、料理を口に運んでやはり蕩けそうに笑った。
そんな拓を見て千冬も同じように微笑う。
食べ物にこだわりの無い千冬は、出された物を食べていただけだが・・・確かに自分に用意された物はすべて一流の味なのだろう。
千冬にとってはそれ程の差は感じられないからだ。
だが・・・そこに拓の笑みがあるだけで、こんなにも満たされるのだと知ってからは、拓が喜びそうな料理を探し捲くったりした。
余り高級な店に連れて行くと、店の前で泣きそうな顔で帰ると言われてしまうので、千冬が北条の家族に連れて行かれる場所は、殆どが駄目だったのだ。
仕方なく、『曼呪沙華』のメンバーに聴いたり、八尋の彼女連中に情報の交換条件で教えて貰ったりして・・・何とか食事に誘っている苦労を、拓が知る事はないけれど。
それでも―――本当に幸せそうに食事をする拓の顔を見るのが、千冬にとっては何よりのご馳走でもあるのだから。
「・・・あの？千冬さんは食べないんですか？」
じっと拓を見ている千冬の視線に、気付いた拓が恥ずかしそうに尋ねる。
「うん。拓ちゃんの食べてる顔の方が、美味しそうだから。」
「え？・・・あ・・・あの・・・」
熱い視線を向けながら、艶やかに笑う千冬に、拓はスプーンを口に咥えたままプシュウと茹で上がる。
「ふふ・・・付いてるよ。」
「え？」
「こ・こ」
そっと顔を近付けて、口端に付いていたジャムを舐め取る。
途端に、拓はグッと口の中の物を飲み込んでしまった。
「・・・ぐっ・・・げほっ・・・けほ・・・」
「あぁ！大丈夫？拓ちゃん・・・っ！」
気管支に詰まって目を白黒する拓に、千冬は慌ててコップの水を手渡した。
「・・・きゅ・・・急にビックリする事するから・・・死ぬかと思った・・・」
やっとの思いで詰まっていた物を水で流し込んだ拓が、目尻に涙を浮かべたまま千冬を見遣る。
「―――俺も、びっくりした。スプーン咥えた拓ちゃんがあんまり可愛かったから、つい・・・まさか、喉に詰まらせるなんて・・・苦しくない？」
「可愛いって・・・！・・・もう、大丈夫ですから・・・。」
真っ赤になって、拓は千冬の視線から逃れようと俯いてしまう。
その耳裏まで赤くなっている事に気付いた千冬は、ちょっとだけ目を見開いてから・・・破顔した。
思わずギューッと腕の中に包み込んで、キスの雨を降らしたくなったが、流石にそうすると拓の食事の邪魔になってしまうので、我慢する。
真っ赤になったまま、拓は食事に没頭するように、一生懸命二人分にしては多過ぎるだろうプレートの中身を減らす事に集中した。
それでも、美味しい料理は人を幸福にするのだ。
その意味では、確かに雅紀の料理は人を幸福にする料理だった。
味だけではなく、見た目も匂いも食感も、申し分ない。
ルルル・・・。
壁についている電話のコールが鳴る。
「―――はい。え？デザートと、食後の飲み物？・・・あぁ。俺は・・赤ワ・・・じゃなくて、コーヒーで。拓ちゃんには・・・あぁ！あれ、出してあげて。出来ればココアで。絵柄はヒロさんにお任せするから。」
「・・・千冬さん？」
「今からデザートと飲み物持ってくるって。もう昼過ぎてるから朝・昼一緒だし・・・デザートも入るよね？」
「えっと・・・はい。」
「うん。ヒロさんの芸術品。拓ちゃんも楽しみにしてて。」
ウインクしながら告げられて、拓はキョトンと千冬を見返したが、それ以上千冬の唇が開く事は無かった。

「―――お待たせー！ご注文のコーヒーと、千紘特製のホットココア！デザートは、アップル・パイだよ。」
階段を上がって部屋の中に入ってきた雅紀が、ニコニコしながら食べ終わった皿を片付けて、新しく持ってきた物をテーブルの上に乗せていく。
「うわぁ・・・綺麗。」
目の前に置かれた陶磁器のカップの中には、繊細な花や葉の模様がクリームの上に描かれていた。
「本当はラテ・アートって言うんだけどね・・・ウチでは、千紘がクリームを使う飲み物なら何でも器用に描けるんだよ。俺もラテなら何とか出来るんだけど、あいつみたいには綺麗に描けないから・・・どう、気に入った？」
「はい。凄く綺麗で・・・飲むのが勿体ない気がします。」
手元のカップをうっとりと眺める拓の表情を見て、雅紀と千冬は目線を合わせて笑う。
「ヒロさん、喜ぶだろうね。」
「あぁ。伝えとくから・・・ちゃんと、飲んでくれな。アップル・パイの感想も、後で聞かせてくれ。」
何時までも眺めていそうな拓の頭を、ポンと叩いて雅紀はそう言うと、片付けた食器のほうを持って部屋を出て行った。
「・・・あの・・・千冬さん・・・」
「―――ん？」
「―――これって、夢じゃないですよね？」
拓の呼び掛けに、コーヒーを飲もうとカップを持ち上げた千冬が視線を向ける。
そんな千冬を真っ直ぐに見つめて、真面目な顔で、拓は千冬に尋ね返した。
「拓ちゃん？」
「何だか・・・夢みたいな気持ちなんです・・・。こんな風に、千冬さんと一緒に居られて・・・夢みたいに美味しい料理を戴いて・・・凄く、幸せで・・・」
驚いたように名を呼ぶ千冬に、拓はキラキラした黒曜石の瞳を輝かせる。
「本当に・・・ありがとうございます。ぼ・・・僕、どうやってお返しをしたら良いのか・・・」
少しだけ目線を落として、一瞬だけギュッと手を握って・・・それから拓は顔を上げた。
「―――僕ばっかり・・・幸せで・・・あの、千冬さんに僕が出来る事って・・・そんなに無いけど・・・でも・・・」
花が綻ぶような笑みが、拓の顔に広がって・・・。
「一生懸命考えて・・・お返し、しますね。」
小さく綴られた言葉に、千冬はとうとう堪えられなくなって、その小さな身体を抱き締める。
「・・・千冬さん？」
「――――――くれた・・・。」
「え？」
耳元で囁くような声が聞き取れなくて、拓は耳を欹てる。
「拓ちゃんは、ちゃんと俺に幸せをくれたよ。こうやって、側に居てくれるだけでも・・・充分幸せだから・・・」
呟かれる言葉に、拓は一瞬瞳を見開いてから、嬉しそうに微笑った。

「―――あーん。」
「あ、・・・あー・・・ん。」
スプーンに載った一口大に切られたアップル・パイが交差する。
互いに相手に食べさせる状態で、二人はデザートを食べていた。
拓にしてみれば、顔から火を噴きそうなほど恥ずかしい行為なのだが、千冬に甘くおねだりされてしまえば、嫌と言える筈もなくて・・・。
「あ、美味し。」
口の中に入った途端に、口内に林檎の甘酸っぱさと芳醇な香りが広がる。
薄いパイ生地の舌触りと、少し大きめにカットされた林檎の食感が、絶妙にマッチしていて、高級洋菓子店でしか食べられないような美味だった。
甘い物が好きな母親に付き合って、ケーキをよく食べる拓でさえ、こんなに美味しいアップル・パイは初めて食べる物だった。
「うん。これは、甘すぎなくて良いね。・・・はい、拓ちゃん。」
千冬も珍しく手放しで褒めている。
口に入れた分が無くなると同時に、差し出されるスプーンに、拓も同じ動作を返して・・・そうして、あっという間にそれは食べ終わってしまった。
「・・・ふふ。そんなにそれ、気に入ったの？」
「だって・・・本当に勿体ないです。」
視線を向ける事はあっても、カップを持ち上げようとしない拓に、千冬は小さく笑う。
「まぁ、模様も綺麗だけど・・・ココアも絶品だそうだよ。折角、飲み頃で持ってきてくれてる筈だから、余り冷めない内に飲んだ方が、ヒロさんも喜ぶよ。」
「―――はい・・・。」
千冬の言葉に、漸く決心したように拓はカップを持ち上げて・・・それでも模様を壊さないようにそっとカップの端に口を付けた。
「うわぁ・・・」
コクッと一口飲んだ拓は、瞬時で顔を輝かせた。
「こんな美味しいココア、初めてっ！えっと・・・これ・・・本当に、ココア？」
模様よりも味の方が興味が強かったようで、拓は何度も口を付けては驚いたように呟いた。
「凄く、美味しいっ！心が暖かくなるような味がします・・・千冬さん！」
目を細めて言い募る拓に、千冬も同じように目を細める。
「へぇ。じゃあ、俺にも一口頂戴。」
拓の飲んでいた反対側に顔を近付けて、カップを持っている拓の手ごと持つと、千冬は静かにカップを傾ける。
「あぁ、確かに。でも、このままだと俺にはちょっと甘すぎるから・・・」
一口飲んでそう言うと、千冬は拓の手からカップを取り上げる。
「・・・千冬さ・・・」
拓の問い掛けは、途中で途切れる。
顔を近付けた千冬が、そのまま拓の唇を浚ったからだ。
残りの言葉は、重ねられた口唇の狭間で消えた。
直ぐに離れた千冬が、綺麗に微笑う。
「俺には、これぐらいの甘さが丁度良いよ。」
甘やかなその表情に、拓は一瞬見惚れてしまう。
それから、ハッと気付いたように目を見開いて、バッと口を覆ってカアァと顔を赤らめた。
昨日から、一体何回キスされたか理解らない。
しかも、今のキスは拓にとって衝撃的な意味を齎した。
「じゃ・・・じゃあ、残りは飲んじゃいますっ！！」
辿り着いてしまった考えに、拓は狼狽しながら、カップの中身を一気飲みした。
喉を通り過ぎていく甘いココアは、本当に美味しかったけれど・・・それを堪能するどころでは無くて・・・。
唇の甘さを確かめるようなキスが、一瞬で離れたあの瞬間・・・確かに拓は寂しさを感じてしまったのだ。
いつものように、強く全てを確かめるような・・・魂までも吸い取られてしまいそうな口付けでは無かった事に、物足りなさを感じるなんて―――ありえない。
でも、それは隠しようが無い程になってしまった拓の【感情（おもい）】。
「・・・拓ちゃん？」
「ご・・・ご馳走様でしたっ！あの、僕・・・片付けるの手伝って・・・」
千冬の顔が真っ直ぐに見れなくて、拓はドキドキする鼓動を持て余しながら、食事の終了の言葉を発した。
そのまま食器を持って立ち上がろうとする拓を、千冬の腕が捉える。
「・・・あ。」
「―――怒った？」
縋るように見上げる千冬の眼差しに、拓は泣きそうな表情を浮かべる。
「ちがっ・・・僕が・・・」
片手で顔を覆って、拓は羞恥で消えてしまいそうな気持ちを持て余す。
逃げたくても、この腕は離れない。
理解っているから、拓は余計に居た堪れない。
「拓ちゃん。」
もう一度、千冬に請うように名を呼ばれて・・・拓は観念した。
自分から腕を伸ばして千冬に抱きつく。
「拓ちゃん？」
「―――千冬さんの、所為です・・・。昨日から、一杯・・・キス、するから・・・だから・・・」
顔を真っ赤にして、困ったように本当に蚊の泣くような声で告げる拓に、千冬は一瞬驚いたように瞳を見開いてから・・・破顔した。
そうして、拓の身体を離さないように、ギュッと抱き締める。
「俺も、足りない。もっと、触れたい。」
「―――でも・・・。」
「理解った。―――帰ろう。ウチなら・・・良い？」
「・・・はい。」
拓の指先に口付けて言う千冬に、拓も目元を染めて小さく頷いた。
絡む指先が、互いの心情を相手に伝えるかのように・・・重なった。