星に願いを
きら、きらり。
商店街のアーケードの中、豪華絢爛な飾り付きの笹竹が何本も並んで美しさを競い合う。
平塚市街中心部。
県内でも有名な【平塚の七夕祭り】は、中（メイン）日を迎えていた。
流石に、土曜という事もあって見物客も半端なく、笹飾りを見に来たのか人波に揉みくちゃにされに来たのか分からない状態になってしまっているが、しっかりと繋がれた手が離れる事は無く。
人波に紛れ込んでしまいそうな二人組みは、何とか混雑状態の大広場から抜け出した。
「・・・・ぷはっ・・・！」
「―――大丈夫・・・拓ちゃん？」
「あ・・・うん。な・・・何とか・・・」
「今の場所・・・流石にメイン会場なだけあって人多過ぎ・・・」
狭い空間から漸く這い出たような状態で、大きく息を吐き出した拓に向かって、心配そうな声が掛けられる。
すっかり体力を奪われた拓は、少し疲れたようにしながらも困ったように笑った。
ずっと拓の手を引っ張ってくれていた千冬は、そんな拓を見てから、人込みの中で乱れてしまった長い金髪を直しつつ嫌そうに眉を顰めた。
「こんなに人が多いんじゃ、ゆっくり見物する気にもならないね。折角、拓ちゃんがわざわざこっちに遊びに来てくれたのに・・・ごめん。」
「えぇ？！そんな・・・千冬さんが謝る事じゃないですよ・・・。ボクの方こそ、初めて来たから・・・まさかこんなに人が一杯居るなんて思わなくて・・・見てみたいって我が侭言っちゃって、ごめんなさい。千冬さん、あんまり人込みとか好きじゃないのに・・・」
通り抜けてきた混雑場所を軽く睨みながら声を掛ける千冬に、拓もまた肩を落として声を潜めた。
実際、千冬は余り気乗りではなかったのだ。
だが、この街に来た時から行われていた祭りの華やいだ様子を見て、ついつい気になってしまった拓のお願いを聞いてくれただけで・・・。
有名な事は知っていたが、まさかこんなにも人出の多い祭りだとは拓も想像もしていなかったから。
「―――まぁ・・・確かに人込みは嫌いだけど・・・」
「千冬さん？」
「でも、こんな風に拓ちゃんと一緒に出掛けるのは、ちっとも嫌じゃないよ？」
しゅんと項垂れていた拓に目線を戻した千冬は、嫌いだと言いながら見惚れるぐらい艶やかな笑みを浮かべた。
そうして、拓の手をまたそっと握った。
「ふふ・・・人込みの中の方が、こんな風に手を繋げるし・・・ね。」
「あ・・・その・・・」
キュッと握られて、拓は瞬時に顔を紅潮させる。
千冬の行動はいつも拓の鼓動を速める。
先程の窮屈な場所でなら目立たないかもしれないが、今居る場所はそれ程混んでいるわけではないのだ。
男二人で手を繋いで歩くには余りにも恥ずかしい気がした。
「も・・・もう、ここは混雑してないし・・・」
「うーん。だけど、手を離したら逸れてしまいそうだし・・・拓ちゃんは、嫌？」
真っ赤な顔で拓が軽く身を引くと、途端に悲しげな表情を浮かべる千冬の視線が絡まって居た堪れなくなる。
拓が千冬のその表情に弱い事を知っていて、お願いするように言うのだから性質が悪い。
それが理解っているのに、抵抗できない拓も情け無いのだが・・・。
「―――い・・・嫌じゃないです、けど・・・」
恥ずかしい・・・です。消え入りそうな声でそう呟く拓に、千冬の笑みが深まる。
思わず抱き締めてキスしたくなったけれど、この場でそれをした途端に、脱兎の如く拓が逃げ出すのを容易に想像できてしまった千冬は必死で我慢した。
だから、繋いだ指先を絡める。
そのまま、爪先で拓の指を傷付けないように、ゆっくりと撫でた。
「取り敢えず、少し休憩しようか。―――あっちに、行きつけの茶店があるから。」
柔らかな微笑を浮かべた千冬が、拓に耳元に顔を寄せて・・・囁くようにそう告げる。
途端にビクッと身を竦ませた拓に気付かない振りをして、拓が声も出無い状態なのを良い事に、その小さな肩に腕を回して千冬は先を促した。
メインストリートから外れた場所は、それ程混んでいなかった。
裏通りは大きな飾りもないし、地元の者しか理解らないように道も入り組んでいる。
拓の手を掴んだまま、千冬は少し前を歩いていく。
土地勘の無い拓は、千冬に連れて行かれるままに足を運んだ。
やがて目の前に一軒のこじんまりとしたお店が現れた。
複雑に入り組んだ路地裏の更に奥・・・ここから先程の会場まで一人で戻れと言われても拓には無理な場所まで来てしまった。
いつも千冬に連れて行かれるお店とは全く異なる雰囲気のその店構えに、拓は一瞬違和感を覚えたが、当たり前のように千冬がその店のドアを開けたので、仕方なく一緒に入った。
「やぁ、いらっしゃい。」
カランとドアを開けて中に入ると、途端に声を掛けられる。
カウンターの中から声を掛けてきたのは、優しそうな笑みを湛えた大人の男の人だった。
エプロンを付けているところを見ると、この店のマスターなのかもしれない。
「マスター、ちょっとここで休ませて。」
店の中をキョロキョロと拓が見ていると、千冬はどんどんと奥に入って行って、一番奥の椅子に拓を座らせて、自分はその隣に腰を下ろした。
途端に、氷の入ったグラスが二つカウンターに置かれる。
「今日は、何時も来る時間よりも早いんだね。」
「そう。ちょっと祭りを見てきたんだけど・・・流石にあの人込みに嫌になったから、もうちょっとギリギリまで待ってようと思って。今年は、何時まで？」
「―――去年は節電対策とかっていって7時までだったけど・・・今年は例年に戻したから、今夜は８時半までだね。」
「８時半か・・・」
マスターと話をしながらチラリと柱時計に目線を向けた千冬に釣られて、拓も視線を向けると、時刻はまだ７時を過ぎたばかりだった。
それでも、二人が駅で待ち合わせをしたのは５時だったから、結構長い間祭り会場に居たのだ。
「取り敢えず、今日は何にするんだい？」
「いつもので。拓ちゃんは・・・アイスの方が良い？」
急に掛けられた声に、冷たい氷水で涼を取っていた拓は一瞬キョトンとした後で、慌ててメニューを見た。
そんな拓の様子をクスクスと笑いながら、千冬は店内に目線を流した。
「今日は、随分と空いてるね。もっと混んでると思ってたのに。」
「あぁ。流石に祭りだからねぇ。いつものメンバーは昼に来てくれたけど・・・ここはメインの通りからは外れているし・・・後は、祭りが終わった後に顔見知りが飲みに来るだけだと思うよ。」
カウンターの中で、サイフォンにコーヒーをセットしながら柔らかな声が答える。
その言葉通り、店の中の客は千冬と拓しかいない。
メニューには聞いた事もないような色々な種類のコーヒーの銘柄の説明が細かく書いてあったが、普段コーヒーを飲む習慣がない拓にはどれを選べばよいのか全く理解らない。
「・・・決まった？」
「あ・・・ボク、コーヒー飲まないから・・・何がなんだか・・・」
メニューを見ながら困ったように告げる拓に、千冬は一瞬不思議そうな表情をする。
「え？別に、コーヒーじゃなくても・・・大丈夫だよ。ねぇ、マスター。」
「勿論、大丈夫だよ。」
「え？そ・・・そうなんですか？！じゃ・・・えっと、オレンジジュースを・・・」
「ＯＫ．」
漸く注文を終えた拓は、ホッと息を吐いて・・・それから店内を改めて見回した。
ずっと昔からあるような店は新しくはないけれど、清潔で落ち着いていて、安心できる雰囲気が漂っている。
高校生が学校帰りとかに気楽に寄れるような場所ではないけれど、それほど敷居が高い訳でもない。
店内にはゆったりとした音楽が流れていて、本当にゆっくりと落ち着ける空間。
それ程広い店内ではないから、窓際に二人掛けのテーブル席が２つ。
後はカウンター席が６つ。
１０人で一杯になるような店内は、それでも狭いと言う感覚は全く無い。
「・・・あれって・・・ピアノ？」
グルリと目線を動かした拓は、ある一点で視線を止めた。
「あ、拓ちゃんも気付いた？」
ずっと目線を向けていた千冬が、嬉しそうに笑う。
普通の喫茶店には到底ありえない物がそこにあった。
綺麗に黒光りするそれは、拓の目に酷く印象的に映った。
「本当は週末だから演奏会をやる日なんだけど・・・流石に、今夜はお客さんが入らないからね。」
店内に広がっていく香り豊かな芳香は、恐らく千冬が注文した物。
サイフォンの前で最後の仕上げをしているマスターが、少し困ったように言葉を発した。
「お待たせ。」
カウンターの上に、注文した品物が置かれていく。
千冬が頼んだらしいコーヒーは、物凄く良い匂いを漂わせていた。
「うん。相変わらず、良い匂い。」
カップを持ち上げて香りを楽しんでから、千冬は軽く傾けて飲んでいく。
白くて綺麗なコーヒーカップを持って、優雅に飲んでいる千冬の姿は、相変わらず様になっていて・・・拓は思わず視線が外せなくなる。
少し伏し目がちな所為で、千冬の睫がどれだけ長いのかも理解る。
「・・・ん？どうしたの、拓ちゃん？」
「な・・・なんでも・・・ないです・・・」
拓の視線に気付いた千冬が目線を上げる。
ついつい千冬を見詰めてしまっていた事を漸く認識した拓は、慌てて自分のジュースに逃げた。
頬が熱くなっていくのが自分でも理解ったが、どうする事もできない。
そんな拓を見て、千冬は綺麗な笑顔を浮かべると、持っていたカップを置いた。
「マスター・・・ピアノ、弾いても良いかな？」
「え？・・・あぁ。構わないよ。」
千冬の言葉に一瞬驚いたマスターは、それでも直ぐに柔和な笑みを浮かべて願いを許諾した。
スッと椅子から立ち上がった千冬が、ピアノの傍に移動する。
ゆっくりと蓋を持ち上げると、白と黒の鍵盤が表れた。
「あぁ。随分綺麗に使われてるんだね。これなら音色もステキだろう。」
ピアノの前の椅子に座りなおした千冬は、そういって両手を鍵盤に添えた。
途端に柔らかな音が幾つも店内に響き渡る。
マスターが気を利かせたのか、店内に掛かっていた音楽は消えていた。
「拓ちゃん・・・何か聞きたい曲とかある？」
「え？ぼ・・・ボク？！」
「ふふ・・・今時のテレビでやってるような曲は流石に弾けないけど・・・」
指慣らしの様に鍵盤を鳴らしながら、千冬は随分と楽しそうだ。
今まで千冬がピアノを弾ける事を知らなかった拓は、突然にリクエストされても曲を思いつかなくて。
えっと、えっと・・・と首を捻りながら困惑する。
「特に無い？じゃあ、勝手に弾くよ？そうだなぁ・・・」
ゆっくりと千冬の指先が鍵盤の上を滑っていく。
躊躇の全くない指先が、音を紡ぎだしていく。
その旋律が耳に届いた途端に、拓は笑顔になった。
今日の日に相応しいその曲は、誰でも知っている童謡。
曲に合わせて思わず口ずさんでしまいそうな『七夕』の歌。
“キラキラ光る 夜空の星よ〜♪”
幼稚園や小学校での行事を思い出す。
短冊に書いた願い事は、何だったっけ？
そう言えば、願いは叶ったのかなぁ？
すっかり昔の事だから、何を書いたのかまでは思い出せない。
それでも、ドキドキワクワクしていた気持ちが蘇った。
懐かしい音色が、記憶の扉を開く。
小さい頃は、山の様にやりたい事や叶えたい事があった。
今も願い事は一杯あるけれど、あの頃のように純粋に神様にお願いする気持ちは失われてしまったかもしれない。
「今夜に相応しい曲だね。」
「うん！凄いです、千冬さん。」
旋律が余韻を残して終わると同時に、マスターが拍手する。
拓も手放しで賛嘆する。
幼稚園や小学校ではオルガンで聞く事が多かったこの曲が、ピアノの旋律ではこんなに綺麗に響く事を拓は初めて知った。
「こんな簡単な曲で褒められても・・・まぁ、嬉しいけど。」
ちょっと照れたように千冬は髪を掻き揚げた。
それから、思い出したようにジャケットのポケットの中からゴムを取り出して髪を後ろで一つに結わく。
そうするとすっきりとした綺麗な横顔がはっきりと見えて、拓はその美しさにドキッとした。
今日は化粧をしていないのに、素顔でも千冬は男とは思えない程綺麗だ。
黒光りするピアノの前に座る姿勢も、本物のピアニストかと思うぐらい様になっているし・・・そのままプロの演奏者としても十分見える姿は、とても魅惑的だった。
「じゃあ、もう一曲。これも今夜に相応しい曲かな？」
スッと息を吐いて、真面目な目線が鍵盤に落とされる。
滑らかに動く千冬の指先が、新しい旋律を生み出していく。
ゆっくりと流れるように店内に響いていく曲は、穏やかで柔らかな物だった。
何処か懐かしいような音色は、幼い頃に聞いたオルゴールと同じで・・・。
思い出せない曲名にちょっとだけ悩んだけれど、直ぐにどうでもよくなってしまう。
ゆったりとした旋律は、心地良く耳に響く。
オルゴールで聞いた音よりもずっと綺麗で優しい音色に包まれていくような感覚。
無意識の内に、全身の力を抜いて・・・拓はカウンターに寄りかかるように目を閉じた。
そうすると、より一層旋律が優しく響く。
人込みの中を歩いていて、思ったよりも身体が疲れていたのかもしれない。
眠りを誘うような音色に導かれて、自然と拓の意識も優しく包み込まれていった。
時間にして３分程の演奏だったのだが、最後の鍵盤から千冬が指を離して響いた音が余韻を残して消えた時には、拓の意識はすっかり夢の世界に旅立ってしまっていた。
顔を上げて感想を聞こうとした千冬は、マスターが優しい顔で唇に指先を当てている事に気付いて・・・それから、拓が寝てしまった事を知って苦笑した。
穏やかな寝顔は決して演奏が詰まらなかった所為では無い事を示していたので、千冬も安心してゆっくりと鍵盤に蓋をした。
使い慣れたピアノは、確かに素晴らしく・・・久しぶりに弾いた筈の千冬の指先を柔らかく受け止めてくれた。
「ありがとう。本当に、良いピアノだね、マスター。」
「いや、こちらこそ。ステキな演奏をありがとう。これは、お礼だよ。」
席に戻ってから、拓を起こさないように千冬は小さな声で礼を述べた。
大人なマスターは、笑顔でそう返した。
そうして、入れ直した新しいコーヒーを千冬の前にそっと置く。
たちまち立ち上る芳醇な香りが、鼻孔を擽る。
「いただきます。」
少しだけ笑って、千冬は遠慮なくそれを頂戴した。
マスターが止めていたプレーヤーを戻したのか、店内には元の音楽が流れていく。
それでも、その曲調はジャズからブルース系に変わっていた。
静かな旋律が、店内の雰囲気をさらに落ち着かせる。
千冬はそっと拓を見詰めた。
幸せそうに眠っているその寝顔は相変わらずあどけなくて無防備で・・・。
こんな場所でなければ、今すぐキスしたくなる程、千冬の意識を魅了する。
本当は他の誰にも見せたくないから直ぐに起こしたい気持ちになったけれど、自分の演奏を聞いていて・・・こんな穏やかな眠りに引き込まれたのだと思えば、無下に起こす事も出来なくて。
ジレンマに苛まれる。
「祭り、終わっちゃうけど・・・良いのかい？」
そっと声を掛けられて、漸く拓の寝顔から視線を外して時計を見ると、時刻は既に８時を回ってしまっていた。
きっちり８時半に終わるとも思えないが、設営の関係でライトアップは消されてしまうかもしれない。
頭上にある大きな笹飾りは人込みの中でも結構見えたが、目線の低い拓が果たして千冬と同じように見れたかどうかは理解らない。
一瞬躊躇した千冬は、それでもせっかく寝ている拓の眠りを起こす事がやっぱりしのびなくて途方に暮れた。
「―――こんばんわぁ！」
「マスター、冷たいの頂戴っ！！」
丁度その時、幾人かの常連客が騒がしく店内に入ってきた。
「・・・ん？」
その音に覚醒を促された拓が、ぼんやりと眠りの世界から戻ってくる。
二･三度ゆっくりと瞬きした拓は、次の瞬間千冬の顔を見てただでさえ大きな瞳を、更に大きく見開いた。
その内、顔から零れ落ちちゃうんじゃないかと思わせる瞳で千冬を見てから、拓はカアァッと真っ赤になった。
「ご・・・ごめんなさいっ！ボク・・・寝ちゃってっっ？！」
あたふたと起き上がって、慌てて千冬に頭を下げる。
突然な拓の言葉と態度に、千冬は一瞬驚いてから・・・破顔した。
そうして、思いっきり拓を抱き締めた。
「うわぁ？！え？・・・どうして？！・・・ち・・・千冬さんっ？！」
「ほんと、可愛いなぁ・・・拓ちゃんはっ！！」
千冬の腕の中で、拓は恥ずかしそうにジタバタともがいていたが、千冬は離さなかった。
恐ろしく綺麗な笑顔で、嬉しそうに言う千冬が、そのままキスしそうな勢いだったのと、周りから注がれる視線に気付いて拓は半べそになった。
油断していた自分も悪いが、寝起きでいきなりやられては心構えが出来る筈もない。
尤も、周りの視線の大半は抱き締められている拓ではなく、目立つ事に無頓着な千冬の姿に向けられているのだが。
好きなものを可愛がっている時の大半の者は、周りの者が呆れる位顔が綻ぶ。
勿論拓を愛している千冬も例外ではなく、万人が見惚れてしまうような極上の笑顔がその端整な顔に浮かんでいるのだ。
そんな千冬の全開の笑みを初めて拝見したマスターもまた、他の者と同じように驚いたような視線を向けていた。
「千冬さんっ！！その・・み・・・見られて・・・」
「あー、ごめん、ごめん。あんまりにも拓ちゃんが可愛いから・・・つい・・・」」
ますます真っ赤になって縮こまる拓の様子に、漸く千冬は現況を思い出して抱擁を緩めた。
それから、本当に名残惜しそうに手を離す。
急いで離れた拓に、困ったように千冬は笑って・・・再び差し出してしまわないようにキュッと手を握りしめた。
「そろそろ、出ようか。」
「・・・はぃ。」
まだ顔を上げられない拓は、真っ赤なままちょっと俯いている。
誰よりも恥かしがりやな拓だから・・・千冬は少しだけ目線を逸らした。
そうして先に席を立つ。
「マスター、お勘定して。」
「あ・・・あぁ。」
そうして、何事も無かったように平然とレジ前に立つ。
気を取り直したマスターも慌てて近付いて千冬から支払いを受け取った。
「あ、千冬さん！ボク、自分の分は・・・」
慌てて追いかけてきた拓は、無言で見返した千冬の表情に言葉を途切らせる。
拓としては自分の分は自分で支払わないと申し訳ないのだが、千冬はいつも拓にお金を出させない。
友達にパシリに使われて、他の人の分を散々払ってきた拓にとってみれば、何だか千冬にそれをさせているようで本当に居た堪れないのだが・・・どうやら千冬の金銭感覚は拓とは全く違うようなので、ささやかな願いはいつも却下されてしまうのだ。
少しだけ強い目線に押さえ込まれて、拓はちょっとだけ胸が痛かったが・・・おとなしく下がった。
そうして、大きく頭を下げる。
「えっと・・・ご馳走さまです。」
何時だって律儀な程、自分の分を払いたがる拓に、逆に千冬は困惑していた。
誘ったのは間違いなく自分の方であるし・・・もっと拓に甘えて欲しいのに、その為なら何だってするのに、拓は遠慮するばかりで。
こんな風に困ったような顔をさせたい訳ではないし、拓にお金を使わせたい訳でもない。
全部が全部、欲しい物を与えている訳でもなく、高価な品物をプレゼントしても拓は喜ばない。
千冬の知っている、彼女と言う地位に甘んじている女たちは、間違いなくそれを要求するし、それが当たり前の様に振舞う。
八尋の彼女にしてもそうだし・・・チームの連中の中にも好きな相手に甘えて、あれを買ってもらっただの、今度はこれが欲しいだのとウザイ事を嬉しそうに言っている者もいるのに。
拓は甘えないし、何も欲しがらない。
欲しがっているのは、千冬ばかりで・・・。
だから―――。
「また、おいで。」
不意に掛けられた声に、意識が戻る。
「・・・二人で一緒に、ね。」
視線を向けると、穏やかな笑みを浮かべたマスターが、柔らかな口調で続けた。
「マスター？」
「はい。」
不思議そうに問い返そうとした千冬の声に、優しく頷く拓の声が重なった。
「また、一緒に来ましょうね、千冬さん。」
そう笑って言う拓に、千冬は一瞬素でポカンとして・・・それから、破顔した。
それは、『約束』。
確かに拓は一緒に―――と告げたのだ。
天使の美笑を浮かべたまま、千冬は本当に嬉しそうに頷いた。