店に入る前はまだうっすらと明るかったのに、辺りはすっかり夜の闇に包まれていた。
夏に入る前の梅雨の中休みのような夜空は、七夕の夜に相応しく今夜は雲も何処かへと隠れているようだった。
それでも、裏通りとはいえまだ明かりの付いている店も多いので、星は全く見えない。
店の中に入る前は遠くまで聞こえていた喧騒も、今は大分落ち着いて静けさを取り戻しているようだ。
既に時刻は祭りの終了の時間に近くて、今から戻っても屋台などはもう明日の準備に入ってしまってるに違いなかった。

「これから、どうしようか？」

前を歩いていた千冬が、立ち止まって振り返る。
ゴムを外した金髪が、流れを作って揺れた。
一瞬だけその動きに目線を捕らわれた拓は、困ったように首を傾げた。

「もう、お祭りは終わっちゃったかなぁ？」
「８時半までって言ってたから・・・多分ね。今なら飾りはゆっくり見れると思うよ。ライトアップなくても街灯はついてると思うから。」
「うーん・・・。ちょっとだけ露天も気になったんですけど・・・」

仕方ないです・・・寝ちゃってごめんなさい。
小さく付け足す拓に、千冬は微笑う。

「また、明日くる？」
「え？」
「ウチに、泊まってけば？」

何でもない事のように告げる千冬に、拓は瞬時で顔を赤くした。
言外に隠されている意味は、二人にとっては言葉にするまでも無く。

「あ・・・あの・・・でも・・・」

人通りの少ない裏通り。
商店街から離れてしまえば、車の行き来も全く無い。
思わず立ち止まってしまった拓の傍に、千冬はそっと近付いた。
身長も体格も女性と間違えられそうな千冬は、スラリとした細身で全然男らしくないけれど・・・それ以上に小さい拓の背は、千冬の鼻先までしかなくて。
ちょっとだけ屈むようにしないと俯く拓の顔を見ることができない。

「―――だ、め？」

甘くねだる様に千冬がお願いすると、真っ赤な顔のままで拓は困ったように目線を逸らす。

「ね、？」
「・・・ぅぅ・・・」

優しい拓が拒絶する事なんてありえないと知っていながら、千冬はダメ押しとばかりにその柔らかな頬に軽くキスしながら耳元で囁くと、拓はくぐもったような声を吐き出した。
本当に小さく拓が頷いた途端に、千冬はクスクスと微笑った。
そうして、耳まで真っ赤になっている拓の目元にうっすらと溜まっている雫を、唇で拭った。

「ありがとう・・・嬉しいよ。」

素直な気持ちを唇に乗せて、千冬は拓の手を取った。

「じゃあ、早く帰ろうか。」
「・・・千冬さん？駅はあっちじゃないんですか？」

突然に急くような態度でクルリと回れ右をした千冬は、全く違う方向に向かって歩き出す。

「―――大丈夫。こっちの大通りでタクシー捕まえるから。」

言い切る千冬の表情が硬い。
何だか繋いだ手から緊張まで伝わってきそうで、拓はキョトンと首を傾げた。
確かに今回は駅で待ち合わせをしたので、拓もバイクがないから電車でいかないのならそうするしかないのだが、千冬の動きは一刻も早くここから離れたいような感じなのだ。

「神様が奪いに来る前に、連れて帰らなくちゃ・・・ね。」

柔らかな笑みを浮かべて、千冬は繋いだ手の指先を絡めてギュッと握った。
それは、絶対に離さないという意味。

「神様？」
「今夜は七夕だから・・・織姫を捜しているのは、・・・」

途中で言葉を切って、千冬は顔を上げて後方を確認すると突然拓の身体を抱きすくめる様にして建物と建物の間の薄暗い路地裏に飛び込んだ。

「・・・ち、ふゆ・・」
「しっ、黙って！」

驚いた拓が問い掛けようとした言葉は、綺麗な爪先で唇を抑えられた。
薄暗くて狭い場所なのに、更に千冬は拓の姿を道路から隠すようにして背を向けた。

『・・・！！・・・』

遠くから響く音は、間違いなくバイクの音で・・・それも一台や二台の排気音ではない。
抱き締められる腕の隙間から見える空間に視線を向けた拓は、大きく瞳を見開いた。
そんな拓の動揺に気付いた千冬の腕が強まり、拓に縋るように絡まる。

「・・・ごめん。―――行かせたく・・・ないんだ・・・」

そっと、耳元で囁くように告げる千冬の口調はとても辛そうで、拓は瞠目する。
自分を包む千冬の腕が密かに震えている事に気付いた拓は、小さく息を吐き出した。
行かせたくないと告げた千冬の言葉で、漸くどうして千冬があんなにも性急にこの場所から離れようとしたのかに、気付いたからだ。
そうして、千冬の気持ちを受け止めた拓は、自分から千冬の腕の中に身を摺り寄せた。

「・・・拓ちゃん？」

不安そうに見詰める千冬に、拓は少しだけ困ったように笑う。

「かくれんぼしてるんなら、出て行っちゃ駄目ですよね。」
「あ・・・」
「泊まりに行くって・・・約束しました・・から。」

消え入りそうな声で、恥かしそうに告げる拓に千冬は泣きそうな表情を浮かべる。
優しい拓が断らないと理解ってて、強請る様に取り付けた約束なのに、ちゃんと守ろうとしてくれるのが嬉しくて。
千冬の我が侭を受け入れてくれる拓の優しさが、泣きたくなるぐらい愛しくて。
返せる言葉を失って、千冬はただギュッと拓を抱きしめる腕に力を込めた。


すぐ側の通りを何台ものバイクが通り過ぎていく。
勿論、路地裏にいる二人に気付く筈もなく。
やがて見慣れたバイクの集団は街中に排気音を響かせながら遠退いて行ってしまった。
辺りがすっかり静まり返ってから、千冬はゆっくりと拓から手を離す。
緊張の糸が解れて、拓はハーッと深く呼吸を繰り返した。

「・・・ばれたら、怒られちゃうなぁ。ごめんね、皆。」

ちょっとだけ苦笑して、拓はバイクが走り去った方向へ視線を流した。
【湘南（ここ）】に、残る事を決めたのは、自分。
自分を求めてくれた千冬を置いて、あのまま帰る事は拓にはどうしても出来なかったから。

「拓ちゃん・・・」

声に拓が振り向くと、千冬が真っ直ぐに見ていた。
その視線を真っ直ぐに見返して、拓はただ笑った。
それだけで、千冬には十分だった。
―――ちゃんと、理解った。


二人で並んで歩き出す。
大通りまで出たら、大きな笹飾りが幾つかあって。
ちゃんと短冊が付けられていて、ゆらゆらと揺れていた。
文字が書かれているので、誰かの願い事が記されているのだろう。
―――願い事？

「あ・・・。」

不意に脳裏に浮かんだ記憶。
同時に、酷く納得した。
拓の顔に柔らかな笑みが浮かぶ。

「拓ちゃん？」
「あの・・・さっき千冬さんが弾いていた曲の名前・・・やっと思い出しました。」

忘れていた事を恥じるように、拓は小さく呟いた。

「―――昔、家にあったオルゴールの曲としか理解らなくて・・・でも。」

顔を上げた拓が本当に嬉しそうに笑う。

「＜星に願いを＞ですよね。千冬さんが今夜に相応しいって言ったの・・・本当ですね・・・」

夜空を見上げる拓の姿が余りにも自然だったから、千冬は拓がそのまま【宇宙（そら）】へ吸い込まれてしまうんじゃないかと思った。
思わず腕を掴んで引き寄せると、拓は驚いたように瞠目した。

「千冬さん？」
「還ってしまうかと思った・・・」
「え？」
「―――【宇宙（そら）】へ・・・行ってしまうのか、と。」

声を震わせる千冬に、拓は少しだけ困ったように眉を寄せる。
どう考えても、自分がそんな事できる筈もない。

「千冬さん？」

少しだけ口調を変えて、拓は千冬を見詰める。
繊細な千冬の心は、少しでも【勘】が冴えると普通の人と違う感覚に陥ってしまうから。
安心させるように、拓は空いている方の手で千冬に触れる。

「ボクは、ここにいます。今夜は帰らないって、約束しましたよね？」
「・・・・・」
「あの・・・ボクは織姫なんかじゃないけど、でも逢いたいって・・・千冬さんに逢いたいって気持ちは、ちゃんと持ってますから。ボクも、一緒にいたいんですよ？」

そっと一言一言確認するように、拓は言の葉を綴っていく。
滅多に自分の感情を口にしない拓の、精一杯の千冬への想い。
真っ直ぐで綺麗な心のままの、拓らしい純粋な思慕。
沁み込んでいく様な拓の言葉に、千冬は胸が熱くなった。
切なくて狂おしくて―――愛しい。
千冬が初めて本気で欲しいと思った相手。
呪われた自分の運命に引きずり込んだのに、拓は全てを受け入れてくれた。
そうして、いつも千冬を救ってくれる。
―――幸せを、与えてくれる。

「千冬さん？！」

ポタリ。
我慢できなかった雫が零れる。
慌てたような拓の指先が、千冬の頬に触れる。
自分の溢した涙に触れた拓の指先を、千冬は大切な物を扱うようにそっと掴んだ。
そうして、自分の口元に持っていって・・・その指先に愛しむようにキスをした。

「―――ありがとう・・・拓ちゃん。」

睫を伏せたら、また雫が零れ落ちた。
でも、もうどうでも良かった。
だって、これは哀しみの涙ではないから。
溢れ出るのは、心の底からの歓喜の証。


やっと、気持ちが重なった。
ずっと自分だけがそうなのだと思い込んで。
だから、不安だった。
優しい拓だから、可哀想な自分に同情しているのだと。
まさか、こんな風に想いを返してくれるとは、口にしてくれるとは思わなかったから。

「ふふ・・・短冊に書かなくても、一番欲しかった願いが叶った。ずっと、一緒に居てね、俺の織姫。」

泣きながら、綺麗な顔で千冬は微笑った。
その顔に一瞬見惚れた拓は、次の瞬間ボッと沸騰したように顔を赤らめた。
今更ながらに、自分の言った台詞に恥かしくなったようだ。

「だ・・・だから、ボクは織姫なんかじゃ・・・大体、千冬さんの方がずっと綺麗でお姫様みたいなのに・・・」

必死に目線を外して、ブツブツと言っている拓に、千冬は蕩けるような笑みを浮かべた。
どちらが織姫でも彦星でも構わない。
横浜に住む拓に逢おうと思ったら、越えなければならない障害は確かにあるのだ。
重なるところはあるけれど、七夕伝説のようにはなりたくない。
彼らの様に、一年に一度だけの逢瀬では余りにも寂しすぎるし、哀しい。

「逢いたくなったら・・・どんな障害があっても逢いに行くから。浚われるのが、お姫様だよ。」
「あれは、千冬さんが・・・！」

悪戯っぽく笑う千冬の言葉に、確かに浚われてこの地に連れてこられた事のある拓は、何も言い返せなかった。
その代わり、ちょっとだけ唇を尖らせて見せた。
その少し突き出た唇に、千冬は軽くキスした。

「今夜は、ウチに浚っちゃうし、・・・ね。」

綺麗にカーブした唇を離してから、艶やかにそう告げる千冬に―――拓は唖然とした表情のまま固まってしまった。

 

天の神様にも・・・お星様にも。
今夜は沢山の【願い】が届く。

願い事が、叶うのは・・・。
願い事を、叶えて貰えるのは―――誰？


さら、さらり。
七夕祭りの祈りの調べのように。

風に吹かれた短冊が、少しでも目立つように踊っている。


今夜は七夕。

一年に一度しか逢えない恋人同士が、天の川を渡って一夜の情愛を交わす夜。

 


　　　　

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