結婚の儀式を明日に執り行う旨を告げられて、宴会は閉じられた。
周りを世話係と称した式神に囲まれて、千冬は逃げられないまま奥座敷に連れて行かれる。
通された部屋には、既に寝具が敷かれていて・・・千冬は表情を変えた。
「―――寝る前に、お風呂に入らせて下さい。」
静かに願うが、応えは返らない。
しかも、反対の襖が開かれて顕れた男に、千冬は綺麗な眉を潜める。
「・・・どういう事ですか？」
「あのひ弱そうな小僧に志乃殿を渡す訳にはいかないとご当主様に告げたら、今夜の同衾を許された。」
問い掛けに返ってきた台詞に、千冬は瞠目した。
あのクソババア・・・と心の中で悪態を付きながら、入ってきた襖を開けようとしたが、それはビクともしない。
完全に袋の鼠状態に追い込まれた事に、一瞬だけ負けた気になってしまう。
だが、ここで相手の思惑に従う訳には行かないのだ・・・どうしても。
「―――志乃殿。俺は、初めて貴女と出会ってから１０年間、この時を待った。なのに、今更・・・何故、男など連れてきたのだ？そんなに俺との婚儀が嫌なのか？」
スッと歩いて近付く相手は、流石に武道の達人の一族というだけあって、何処にも隙がない。
見る間に背後の襖に背をつけて追い込まれてしまった千冬は、絶体絶命の中で必死に脳をフル回転させる。
「私・・・は・・・貴方とは、結婚できません。」
「―――何故だっ？！」
強い口調で言われて、二の腕を掴まれる。
その力に、眉を潜めながら千冬は相手を睨む。
乱れた髪が顔にかかって、その美貌を壮絶に際立たせる。
「触らないで下さいっ！一族など・・・四千家など関係ない。私が、欲しいのは・・・血が欲するのは“龍珠”だけです！」
上手く言いくるめようとしたのに、触れられた嫌悪から飛び出したのは本音だった。
途端に、カッと表情を険しくした相手に無理やり引き倒される。
信じられない程の力で覆い被されて、そのまま唇を奪われた。
「・・・っ！！」
バッと顔を離した相手の唇から、赤い筋が落ちる。
千冬が、噛み付いたからだ。
更に、相手のその首筋に懐から取り出した暗器を当てる。
「―――退いて下さい。」
組み敷かれた状態で、千冬はきつい視線のまま相手を脅す。
ゆっくりと相手が起き上がったの確認して、触れられた唇を袂で強く擦ってから、慌てて自分も身を翻す。
じりじりと距離をとって、相手が入ってきた襖に触れると、そこは封じられていなかった。
「志乃殿っ！」
切羽詰ったような相手の呼び声に、千冬は苛烈な一瞥をくれる。
「このような手段を取ったとて、私の気持ちは変わりません。・・・そして、この島の妄執に取り付かれている貴女方には一生理解らないでしょう。」
隣の部屋に待機していた者たちにも大きな声でそう告げると、千冬は真っ直ぐに祖母を見た。
「部屋に戻りなさい、志乃。そして、琢磨様を選ぶのです。」
千冬の視線を真っ向から返したその声に、千冬は自嘲気味な笑みを浮かべる。
「―――無理です。」
もう、限界だった。
終わらせても構わないと、その瞬間千冬は覚悟を決めた。
持っていた小刀を、自分の首に当てる。
「・・・志乃っ！」
初めて祖母の表情が変わる。
「まだ、理解らないのですか？！それとも、知っているのに目を背けているのですか？私に子供が生める訳がないでしょう・・・この呪われた身で・・・」
そう告げて、千冬は着物の袖を捲くる。
「・・・そ・・・それ・・はっ！どうして、その身に“術印”が？！それは、直系の男子のみに現れる筈・・・」
そこまで言って、祖母は愕然とした。
「―――御当主様！」
「御館様っ！」
フラリと傾いだ身体をお付の者が支える。
近くに座っていた他の家の当主たちも、皆驚いたように顔を見合わせている。
「そんな、馬鹿な。こんな事は、有り得ない。・・・生れ落ちたお前は確かに女子で・・・全身の何処にも“印”は無かった筈です・・・お社様でもそれは確認されて・・・」
「―――ええ。呪われた血が色濃く出てしまった所為で、物心付くまでは私は、自分が本当に女だと思っていました。この“呪印”が顕れるまでは・・・」
そう言って、千冬は悲しげに視線を伏せた。
「どうすれば良いのか理解らなかった。誰にも相談なんて出来なくて、気が狂いそうになって・・・北条の悠里さんだけが、気付いてここから連れ出してくれた。ここから離れて三年間・・・漸く本当の自分に戻れたんです。もう、この地に戻る気もないし、結婚もしない。戻らないと、悠里さんたちに何をするか理解らないから、呼び出しに応じましたけど・・・貴女は結局、一度も私の言葉を聞きはしなかっ・・・た・・・」
話している最中に、千冬の全身に震えが走る。
“呪印”から痺れと熱が溢れ出す。
「・・・っっ！！」
見る見る内に印の部分が蒼く光って・・・その周りから、徐々に皮膚が硬質化して罅割れる。
「呪われた・・・“玄武”・・・の血脈。気の遠くなるよな昔から、闇に紛れて散々敵対する勢力を始末してきたのです。直系の男子が早死にするのは、過去からの怨念と、呪詛返しによるもの。この血脈が途切れるまで、この“呪い”は消えない。私もまた・・・逃れられない・・・」
パリパリと音を立てて、千冬の皮膚が鱗の様に変化していく。
全身に広がっている事は、着ている物からはみ出した部分が変化している事で容易に理解った。
「・・・化け物っ！」
愕然としたまま事の成り行きを見ていた千夏琢磨が、形相を変えていきり立つ。
「はっ・・・その・・・化け物と夫婦になろうとしたのは、其方の方でしょう？」
「―――黙れっ！」
全てを諦めたような千冬の言葉に、激昂した相手が、床の間に飾られていた刀剣を掴む。
素早く鞘を抜かれた抜き身の剣が、真っ直ぐに千冬に向けられる。
千冬は逃げる事も無く、真正面からその切っ先が自分に向けられるのを、静かな眼差しで受け止めた。
「―――千冬さんっっ！！」
そこに、小さな身体が飛び込んできた。
驚愕に、千冬の目が開き・・・自分の姿を隠すかのように背を向ける。
拓もまた、千冬の姿を目に移して、大きな瞳を見開いた。
着物の裾から見える肌の全てが、鱗のような物でびっしりと覆われている千冬の姿は、恐ろしかった。
しかも、頬の辺りまで、その鱗は生えていて・・・青白く光っているようだ。
「見ないでっ！・・・拓ちゃん・・・」
一瞬、凍ったように動きを止めた拓だったが、千冬が発した悲痛な叫びに弾かれたように、その傍に寄った。
「駄目だ・・・近付かないでっ！―――知られたくなかった・・・のに・・・」
小さく身を隠すかのように怯えて震える千冬を、拓は両腕を広げてそっと包むように抱き締める。
「・・・聞きました、全部・・・千冬さんの悲しみも苦しみも・・・。」
静かに、そう告げる。
「僕には想像も付かない事ばかりで・・・びっくりしたけど・・・でも、全部本当の事なんだ・・・。」
「・・・拓ちゃん？」
「・・・ずっと、辛かったのに・・・気付かなくて・・・ごめんなさい・・・」
千冬の頬の鱗に触れて、ポロポロと涙を溢す拓に、千冬も我慢出来なくなってしまう。
「―――拓・・・ちゃんっ！」
縋るようにその小さな身体に抱き付いて、涙する。
「もう、千冬さんを解放してあげて下さい。」
崩れ落ちそうな千冬を支えたまま、拓は涙に濡れた瞳のまま真っ直ぐに千冬の祖母を見つめた。
「その子は、男子なのですよ。貴方はそれを知っていたのですか？」
「―――はい。千冬さんはとても優しいから、誰も傷付けたくなかったんです。だから、恋人のフリをして欲しいと頼まれました。」
頬を赤くして、照れるように拓は言葉を口にする。
そうして、千冬に視線を向ける。
「えっと・・・最初は、本当に綺麗な女の人だと思ってたんですけど・・・でも、男でも女でも関係ないから。千冬さんは、千冬さんで・・・いつも綺麗で優しい・・・僕の大切な友達です・・・って、そう思っているのは、僕だけかもしれないけれど・・・。」
少し困ったように続けられる言葉が、その場の緊張した空気を拭っていく。
「―――馬鹿馬鹿しい！！」
そんな中、刀を持っていた琢磨だけが、その切っ先を千冬に向けたまま怒鳴った。
「そんな化け物のような姿で、この先、生きて行けるものかっ！これ以上呪われた血を、お社様の結界の中に留める訳にはいかない。これは、千冬家の落ち度だ！その身を穢れから解き放って責任をとってもらう。宜しいですね、御当主殿！四千家の皆様！」
そう声を荒げて、琢磨が宣言する。
周りの者たちからは、何の返事も返らないが・・・その空気が、琢磨の言葉を許諾していた。
「一緒に死にたくなければ、そこを退け、小僧！」
「・・・い・・・嫌ですっ！！ぼ・・・僕は・・・退かないっ！！」
荒々しく振り翳された刀身に、拓は悲しそうに首を横に振って千冬を庇うようにその身を挺した。
「ならば、一緒に死ねっ！！」
「―――拓ちゃんっ？！」
刀剣が振り下ろされるのと、千冬の焦った声は同時だった。
「・・・ッ！！！」
袈裟がけのように切りつけた切っ先が、拓の身体を切り裂こうとした瞬間、キンッと鋭い音がして、刀が折れた。
少しだけ触れた刃先によって、拓の頬が傷付き、赤い血が流れ伝う。
だが、それよりもその場の全員の目を奪ったのは、拓の身体から溢れ出るような神気だった。
柔らかな白い煙のようなそれが、拓の身体を包み込んでいく。
「・・・これ・・・は・・・」
「―――『龍神』様？」
呟いたり、呻くのは、それぞれの家の当主達だ。
その気に当てられて、皆驚いたように表情を変えている。
中には、涙を溢している者もいた。

『龍神ノ加護ヲ受ケシ者・・・“ソナタ”ノ願イハ・・・。』
光りの中で、拓は龍神と対面していた。
眩しいまでの神々しい光から響いた『声』に、拓は目を見開く。
それは、デジャブ。
こんな光景を、拓は以前も体験していた。
あの時は・・・時貞を救う為に、祈った。
―――今回は・・・違うけれど・・・救う為の【祈り（ねがい）】は同じだ。
「千冬さんを・・・呪われた血とかいうのをどうにかしたい。僕に出来る事があるのなら・・・助けてあげたい・・・」
必死に、言葉を紡ぐ。
『ソノ願イ、聞キ入レヨウ。玄武ノ血脈・・・穢レタママデハ、コノ地モ安定シナイ。ソレハ、我ノ望ム事デハナイ。穢レタ血ハ、血デ清メラレル。ソナタノ血・・・与エルガ良イ。』
一段と光りが強まり、目が開けていられなくなる。
世界の全てが光りに包まれ・・・それが治まった時、そこは元の部屋の中だった。
目の前では、折れた刀を掴んだまま、茫然としている琢磨の姿があって・・・。
自分を抱え込む千冬の震える腕が、想像以上に冷たくて拓はとても泣きたくなった。
こんな悲しい姿の千冬を、このままにしていたくなくて―――。
「・・・千冬さん。」
そっと、拓が声を掛けると、千冬はビクッと身体を震わせる。
「あ・・・あの・・・僕の血が、呪いを消すらしいです・・・だから・・・っっ！」
畳の上に落ちていた折れた刃先を拾うと、拓は何の戸惑いも無く、それをギュッと握りしめた。
見る見る内に、拳から血が滴る。
「・・・拓ちゃんっっ！？」
悲鳴のような声が、千冬の口から発せられる。
「手・・・手を離して・・・早くっ！」
「・・・良いんです・・・これで。・・・多分・・・」
少しだけ青い顔で、痛みに堪えながら拓は掴んだ刀を落とすと、血まみれの掌を千冬に差し出す。
「―――飲んで、下さい。」
深い切り傷から、次から次へと血が滲んで滴り落ちる。
痛々しいその様子に、千冬は泣きそうな顔をしたまま、首を横に振る。
「・・・出来ない・・・それは、拓ちゃんを、縛り付ける事になる。そんな事・・・」
全身の血が沸騰しそうな勢いで、拓の血を欲しているのを感じながら、千冬は弱々しくそう告げる。
今までも、甘美な拓の血が欲しくて、戯れでその血を舐めた事はあったが、こんな風に飲んでしまったら、もう抑え切れない気がするからだ。
―――自分が、何をするか・・・本当に理解らなくなる。
それでも、千冬の視線は滴り落ちる血に誘われるまま、魅入られたように逸らす事も出来なくて。
「これが・・・僕に出来る事。―――僕の願い・・・。良いんです。」
フワリと微笑った拓に、千冬は涙を溢した。
眼前に差し出された小さな掌に溜まる、暖かな血潮。
甘い匂いを醸し出す・・・極上の清らかな“血”。
大粒の涙を溢しながら、千冬はその掌に口付けた。
啜る様に一口含んだ途端に、全身に甘い痺れが広がった。
恐ろしく濃度の強いワインを飲んだ時のような酩酊感が細胞の隅々まで行渡る。
全身に震えが走る。
もっともっとという渇望が意識を支配する。
「・・・・んっ・・・！！」
ビクッと身を震わせた拓に、千冬が気付けば、その手を掴んで痛々しい傷跡にすら舌を這わせて血を舐めとっていた。
下手をすれば、力を入れて傷を広げて血を啜りだしてしまったかもしれない・・・そう気付いて、千冬は愕然とした。
「・・・あ・・・」
慌てて手を離して、それ以上望まないように自分の両手を組んで押さえ込む。
身体の変化は直ぐに現実の物となった。
拓の血が付いた口元の鱗がはらりと落ちたのを合図にするかのように、次々と鱗が剥がれ落ちていき・・・その下から元の綺麗な肌が顕れたのだ。
「・・・千冬さんっ！」
傷付いた手を抑えたまま、拓が喜びの表情を浮かべる。
千冬もまた、自分の身体に触れて・・・その変化に愕然とした。
慌てて右手を捲くって“呪印”を探したが・・・それは、跡形も無くなっていた。
「・・・ぁ・・・」
大きく目を見開いた千冬が、拓を振り返る。
「―――良かっ・・た・・・」
笑顔を浮かべたまま、拓の身体がグラリと傾ぐ。
「拓ちゃんっ！！」
慌てて差し出した千冬の腕の中で、青い顔のまま拓は気を失っていた。
それでも、満足そうなその顔に、千冬は胸が一杯になってそのまま腕の中の拓をそっと抱き締めた。
「・・・ありがとう・・・私の“龍珠”。」
静かに涙を流しながら、傷付いた頬にキスをする。
そうして、拓の身体を抱き上げたまま、立ち上がった。
「もう、私を縛るものはこの地には無い。」
「―――志乃！」
「志乃は、もう何処にもいないのです、お祖母様。これからは、慎として生きていきます。」
きっぱりと告げて、背を向ける。
「―――慎様。」
いつの間にか、傍に傅いていた一総が、小さく名を呼ぶ。
「自分でも、諦めてた。このまま、死んでも構わないと・・・そう、思った。でも、拓ちゃんが奇跡を起こして・・・助けてくれた。」
「拓様に全てをお話したのは、私の一存です。差し出がましい真似をしました。お許し下さい。」
「いや。―――ありがとう、一総さん。」
「・・・勿体ないお言葉・・・痛み入ります。」
平伏する一総に、千冬は艶やかな笑みを浮かべた。
「離れは・・・？」
「何時でも慎様のお帰りをお待ちしている状態です。」
「・・・なら、後の事は、頼みます。」
「―――御意。」
スッと立ち上がった一総に念を押すと、千冬はそのまま奥座敷を後にした。
その後を追える者は、もう何処にも居なかった。