遠くで誰かが呼んでいる。
濃霧に遮られて、それが誰なのか拓には理解らない。
必死で声の方に近付こうとするが・・・何かが邪魔をしてどうしても側に行くことが出来ないのだ。
そうこうしているうちに、声の主はどんどん遠くへといってしまう。
―――待って！！
―――待って・・・行かないでっ！
拓は出来る限りの声で呼んだが、相手が戻ってくる気配はない。
―――置いていかないで・・・。
―――・・・ちゃんっ！！
叫んだ筈の名前は、言葉にならない。
誰の名を口にしたのか？
疑問に思う間も無く、拓の意識は何かに吸い込まれるように光の中に投げ出された。

　「・・・？」
ゆっくりと空けた視界に映った景色を、拓は知っていた。
それでも、そこは自室の天井ではない。
「・・・目が覚めた？」
掛けられた声に、拓は少しだけ瞳を見開く。
「・・・ボク・・・？」
意識を失う前の記憶を思い出して、そのギャップに戸惑う。
校庭で意識を失った筈の自分が、何故保健室にいるのだろうか・・・と。
相変わらず、女神のように綺麗な保健委員の先輩は麗しい笑みを浮かべて拓に微笑んだ。
「―――鮎川がいきなり飛び込んでくるのはいつもの事なんだけど・・・まさか拓ちゃんを抱えてくるとは思いもしなかったよ。」
クスクスと笑って、千冬は拓の額にあったタオルを変えてくれた。
「・・・ボクっ！！・・・ぅ・・・」
「―――駄目だよ。いきなり起きては。軽いとはいえ、熱中症は命にもかかわる病気なんだよ。」
慌てて起き上がろうとした拓は、一瞬で目の前が暗くなりぐったりと倒れるようにシーツに沈んだ。
そんな拓の身体を支えて横に戻しながら、千冬は言い聞かせるように拓に告げた。
「・・・熱中症？」
「そう。ちゃんと水分は取ってた？しかもこの暑いのに、グランドで鮎川たちの練習を見てたって？自殺行為だね。」
少しだけ眉を顰めて言う千冬の言葉に、拓は恥ずかしくてこのままシーツの中に沈んで隠れてしまいたかった。
「・・・ごめんなさい・・・」
小さく、詫びる。
アメフト部の・・・真里の姿を見ていた間、拓は確かに夏の日差しの下で水も飲まずにボケッと突っ立ていたのは間違いない。
それが、真里にも千冬にも迷惑をかけてしまう原因を作ってしまったのだ。
「千冬―――っ！！拓ちゃん、目ェ覚めた？！」
全身土汚れの真里が、保健室のドアを開けて顔を覗かせる。
「ああ。今さっき、目が覚めたよ。」
「ホント？！良かったぁ！！」
ズカズカと入ってくる真里に、千冬は思いっきり眉を顰めた。
「鮎川。泥・・・。」
「あ、悪ぃ・・・練習終わってそのまま来ちゃったから。」
そう言うと、その場でバタバタと全身の泥を叩き始める。
「―――ここで、するな！！」
珍しく声を荒げて言う千冬の迫力に、拓は目を見開いて驚いたが、真里は全然気にしていない様子だった。
「あ、そっか。保健室だもんな。キヨミちゃんに怒られちゃうか。」
しれっとした顔でそう言うと、ベットの側の今まで千冬が座っていた椅子に腰掛けて、拓の顔を覗き込んできた。
「・・・倒れちまう前に、気付かなくて、ごめん。」
真面目な顔で言う真里に、拓はぎゅっと目を瞑って首を横に振った。
「ちが・・・っ・・・ボクが、勝手に見てて・・・それで・・・倒れて・・・」
言っている内に泣きたくなってくる。
「迷惑・・・かけちゃって・・・。・・・ごめ・・ん・・・なさ・・・」
情けなくて、悔しくて・・・歯がゆくて。
色んな感情がごちゃごちゃに混ざり合って、拓の気持ちを翻弄していく。
自分がこんなに涙もろかったなんて、思いもしなかったのに・・・。
「・・・ヤダなぁ拓ちゃん。オレ、迷惑なんて全然思ってないよ。」
ニコニコしながら、真里は床を軽く蹴った。
「鮎川？」
いつもと違う態度の真里に、千冬が真意を問いかける。
「だってさ・・・オレの走ってるとこずっと見てくれてて、それで・・・倒れちゃったんだろ？それって、拓ちゃんがオレのこと気にしてくれたって言う事だし・・・」
へへへ・・・と、鼻先を掻いて、真里は照れくさそうに笑う。
「え・・・あの・・・」
言われた拓も真っ赤になって口籠る。
穴があったら入りたい気がした。
「―――気のせい。暑さで意識がまともな状態じゃなかったんだろ？若しくは、小さい身体に似合わない馬鹿力に驚いただけじゃないのか？」
明らかにきつい口調で、千冬が口を挟む。
「・・・誰がちっこいってぇ？オンナ男。」
ムゥと唇を尖らせて真里が言い返す。
途端にピキーーーンと部屋の空気が固まったような気がした。
「貴様に言われたくはない。」
「テメーーーッ！！」
険悪なムードに、拓はオロオロするばかりだ。
今にも一発触発の二人をどうすればよいのか拓が困惑していると、ガラッとドアを開けて誰かが保健室に入ってきた。
「・・・おや？！お取り込み中？」
真っ赤な唇から零れ落ちる艶やかな声。
長い髪をうっとうしそうに掻き揚げて、颯爽と現れたのは、この保健室の正式な主である保険医の鰐淵清美だった。
「清美先生・・・」
「清美ちゃん？お帰りー♪」
千冬と真里が対峙していた視線を離して、清美を見た。
「マサト・・・また泥だらけで・・・。衛生的に駄目だって言ってるでしょ。」
「ごめーーん！あ、ねえねえ俺ぇ腹減っちゃった、何か無い？」
「真里はいつもそうなんだから・・・」
困ったように溜め息を付く清美に、真里は尻尾があったら千切れんばかりに振りそうな勢いで懐いていく。
千冬は黙ったまま、机の上にあった書類を纏めていた。
「―――先生。ここに書類置いておきますから。」
「千冬君、留守番ありがとう。助かったわ。・・・あら？拓ちゃん？ベットに横になっててどうしたの？」
清美の言葉に、拓は困ったように笑みを見せた。
「・・・軽い熱中症だと思います。」
「あら？そうなの？―――今日は特に暑かったから・・・。気を付けてね。」
「―――はい。」
サラリと前髪を掻き分けて、夏美の指先が拓の額に触れる。
近付いた甘い香りが鼻腔を擽った。
拓は頬を赤らめて、清美に申し訳なさそうに返事を口にした。
真里は清美が示した戸棚の中にあったお菓子の缶を抱えて食べている。
その表情はとても幸せそうだ。
保健室にお菓子の缶があること自体が不思議だったのだが・・・。
「・・・ごちそーさま♪」
ほっぺたにクッキーのカスを付けながら、満足そうに真里は清美に礼を言っている。
「はいはい。」
既にいつもの事なのか、清美は相手にもしない。
気にしない真里はテコテコとベットに近付くと、拓を覗き込んだ。
「拓ちゃん、寮に帰れる？俺、連れてってあげようか？」
にっこり笑顔で言われて、拓は目を丸くする。
「鮎川。」
叱責する口調で千冬が声を出す。
「なんだよ？」
「拓ちゃんは、『ヨコスカ』寮なんだぞ。『ヨコハマ』寮のお前が行ったら、不味いだろ。」
千冬の言葉に、真里も漸く思い立ったようだ。
同じ学校の同じ敷地内にあるというのに、寮が地域別に分かれているせいか、寮生同士の中が余り良くないのだ。
真里にしてみれば、そんな事関係ないと思うのだが。
「ちぇー、俺も拓ちゃんと一緒の寮が良かったなぁ」
思いっきり拳を込めて力説されても・・・。
「なあに？そんなに寮内で揉めてるの？」
「・・・そう言う訳ではないんですけど・・・」
清美の問いに千冬が言いよどむ。
「それじゃあ、寮監督の夏生先生も大変ね。」
しみじみと清美は溜め息を吐いた。
「うーーーん、じゃあ、どうしよう？」
「あの・・・ボクもう大丈夫ですから・・・」
眉を寄せて考え込んでる真里に、拓は必死に身体を起こして言い募る。
最初にここで目覚めた時よりも、大分体調も良くなっていた。
「そうね・・・仕方ないわ。彼に一緒に行ってもらいましょ。」
ポンと清美が手を叩く。
「・・・彼？」
突然の清美の台詞に、千冬が驚いた顔をする。
真里も清美を振り返る。
そんな二人の視線を受けながら、清美は椅子から立ち上がって窓際に近付いた。
「―――一色くんっ！！これから帰るの？」
窓を開けて、大声で呼びかける。
窓の外、グランドを脇を歩いていくその後ろ姿が、振り返る。
柔らかな茶髪が、少し乱れた。
「・・・・」
無言のまま、彼は頷いた。
それを見て、清美は麗しい笑みを浮かべたまま、拓の身体を引き寄せてその素晴らしいプロポーションにくっつけた。
「―――この子、一緒に連れてって。」
「ちょっ、清美ちゃん？！」
「先生っ！」
驚きの余り声も出ない拓を横目に、茶目っ気たっぷりな表情で頼む清美に、真里と千冬の方が驚いた声を上げた。
「――――――――――ああ。」
長い沈黙の後、相手が確かに小さく首を縦に振ったので、清美は更に微笑を深めた。
「じゃあ、宜しくね。この子は拓ちゃんよ。」
「・・・・知ってる。来いよ。」
清美の言葉に、今度は短い時間で返事が返る。
「え？は・・・はい！」
最後の言葉は自分に向けられた台詞だと気付いて、拓は慌てて清美から離れた。
名残惜しそうに絡みつく甘い香りに、ドキドキしながら。
「あの・・・本当にありがとうございました。先生。・・・それに、真里先輩に千冬先輩にもご迷惑をかけてすみませんでした。・・・さようなら。」
何故か固まっている真里と千冬に深々と頭を下げると、拓は鞄を持って保健室を後にした。


気付かぬ内に随分と時間が経っていたようで、陽光は大分斜めになっていた。
拓が出てくるのを待ってくれていた大珠と並んで歩きながら、腕時計で時刻を確かめると、短い針は５時を示していて・・・寮の食事時間までそんなに時間が無いことを認識した。
「・・・もう、こんな時間だったんだ。」
「―――どうした？」
小さな拓の呟きが聞こえてしまったようで、大珠が聞き返す。
「あ・・・いえ・・・その、夕食時間に間に合うかな・・・と。」
ポツリと答えた途端に、拓のお腹は自己主張した。
"グゥーーーーッ"―――と。
「・・・ぷっ。」
堪え切れずに噴出したのは、大珠だった。
大きく目を開けて、真っ赤になった拓はタイミング良く鳴った自分のお腹を摩る。
そう言えば、昼食を食べそびれた事を拓は思い出した。
「・・・くっ・・・くっ・・・」
対する大珠は何がそんなにツボだったのか、まだ肩を震わせて笑っている。
堪えるのが苦しそうに、目じりに涙が浮かんでいる。
「は・・・はは・・・。」
余りにも可笑しそうなので、拓も困ったように笑うしかなかった。
ちょっとだけ溜め息が零れる。
「・・・悪ぃ・・・。」
口端を持ち上げて微かな笑みが浮かぶ。
そうすると、大珠の印象ががらりと変った。
取っ付きにくそうな冷たい雰囲気が、柔らかくなる。
最初に出会ったときは、どんな者なのか全然分からなかったけれど、人は見かけによらないというルームメイトに鍛えられている拓にとっては、優しい相手なんだと気付くのに、そんなに時間は掛からなかった。
「いえ・・・。良いんです。今日は、お昼抜きだったんで・・・。」
「そう言えば・・・なんで、保健室に？保険医が態々送って行けとか言ってたな。」
今更のように言う大珠に、拓は困ったように前髪を摘んだ。
「・・・えっと・・・実は昼間グランドで立ってたら暑さで倒れちゃって・・・」
拓の言葉に、大珠の顔付きが変る。
「―――倒れた？！」
「あ、でも・・・軽い日射病だったから・・・」
大珠の驚いた声に、拓は慌てて首を横に振る。
それでも、大珠の真剣な表情は変らず、拓をジッと見ている。
「もう、大丈夫です。だから、本当は一人でも帰れたんですよ。でも、清美先生が一色先輩を見つけちゃったから・・・同じ寮なら一緒に帰っても良いかなぁ・・・と思って・・・。」
大珠の視線に耐えられなくて、一生懸命に拓は腕とかを回して元気なことをアピールする。
「・・・なら、良いが・・・。」
漸く安心したように、大珠は低く声を出した。
何だか、怯えているような―――そんな、気がした。
「―――心配してくださって、ありがとうございます。」
笑って、拓は礼を告げた。
優しい大珠にこれ以上心配させたくなかったから。
「・・・いや・・・別に・・・。」
もごもごと口を籠もらせる大珠に、拓は何だか胸の奥が暖かくなった気がした。
誰かに心配して貰える事が、申し訳ないけれどそれでも嬉しくて。
「―――大した事がなかったなら・・・良かったな。」
告げられた大珠の言葉に、拓は輝くばかりの笑顔で頷いてみせた。


―――『ヨコスカ』寮まではもう、目と鼻の先だった。
　　　　　　　　

　　　　　　　　　　　　

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