その夜。


蒸し暑い夜だった。
急に胃に食べ物を入れたせいか、胸焼けが酷くて拓は中々寝付けなかった。
ベットの上でゴロリと寝返りを打つと、視界に入ったのは空のベットで・・・。
相変わらず、ルームメイトである緋咲は部屋を空けている事が多かった。
寮生活をしている者の中には、長い休みを利用して実家に戻る者も少なくはなかったが、寮が閉まる年末年始の冬休み以外は寮に残る者も多く・・・緋咲もまた残る方に名を連ねていた。
気だるさと、気持ち悪さでぼんやりとそんな事を思い出す。
こんな時は一人で居ることが、何だか不安すぎて・・・。
これがホームシックというのだろうか？
拓が具合の悪い時にはいつも優しく看病してくれた、優しい母親に会いたくて・・・。
―――会えなくて。
拓だって、理解ってはいるのだ。
渡米したばかりの両親の元へ行っても、仕事の邪魔になるだけなんだという事は。
理解っていても・・・それでも・・・。
―――こんな時は誰かに側にいてほしい。
じっとりと纏わり付く汗を拭うにも、体が言うことをきかない。
起き上がって水を飲みに行きたくても、鉛のように重い身体は動かない。
少しでも冷たさを感じたくて、シーツの上でもがくだけで・・・。
「・・・っ・・・」
渇きすぎていたいぐらいの喉元に、競りあがってくる感覚をなんとか抑えて・・・拓は息を詰める。
苦しさに、目尻に涙が浮かんだ。
何とか体勢を変えて、枕に顔を埋める。
背中を丸めて・・・少しでも楽な姿勢を取ってから・・・息を吐き出す。
「・・・・ふっ・・・」
思わず嗚咽が零れそうになって、慌てて拓は唇を噛み締めた。
ギュッと目を瞑って、寝てしまおうと思った。
寝られるとは思わなかったが・・・それでも・・・。
「・・・どうした？」
不意に声が降ってきて、拓は掠れた視界のまま視線を上げた。
低い声の主が誰なのか、理解ったからだ。
途端に、安堵したせいか、ポロポロと涙が零れた。
「―――また、泣いてやがんのかよ？」
苛立ったような口調に、拓は弱弱しく首を動かす。
「・・・気持ち・・・わる・・・」
掠れた声で、拓は漸く言葉にした。
そうして、漸く拓の様子がおかしい事に気付いた緋咲は、部屋の電気を付けた。
「おま・・っ、顔、真っ青だぞっ！！」
慌てたような声が部屋に響く。
拓にしてみれば、喉まで競り上がって来る胃液を堪えるのも限界状態だった。
「・・・吐く・・・」
「――――ま・・・待て待てっ！！」
珍しく表情を変えた緋咲が、止むを得ないという風に、拓の身体を抱え上げる。
腕に掛かる拓の重みは、ぐったりしている分だけ重いが、それでも思った以上に軽かった。
急いで部屋から運び出して、廊下を走りだす。
階段を駆け下りて、拓を洗面台まで運ぶと、そこで下ろした。
「ここで、やれ。」
そう言って、歩いて行ってしまう。
ぼんやりとその背中を見ていた拓だが、礼を言うよりも早く限界が来てしまう。
「・・・・うっ・・・げ・・・げほっ・・・・」
溜まっていた異物が吐き出される。
水と一緒に流しながら、拓は夕食で食べた物を殆ど戻してしまった。
流れ出る水流に、縋るように唇を寄せて、水分を取る。
弾けた水滴が、顔に掛かったが・・・却って冷たさが気持ちよかった。
洗面台の縁にしがみ付きながら、漸く息を整える。
嫌な汗でべっとりと張り付いてしまった寝巻きが、気持ち悪い。
それでも・・・先程までの胸のムカツキは消えていた。
「・・・・はぁ・・・・」
洗面台によっかかって息を吐く。
足を投げ出して、漸く動くようになった腕で、顔の汗を拭った。
「おい。」
そんな拓に上からタオルが被せられた。
「・・・あ・・・」
タオルの隙間から見えたのは、ここまで拓を運んでくれた緋咲だった。
一緒に居るのは、寮監督の夏生だった。
「・・・浅川・・・大丈夫か？」
心配気な声で聞かれて、拓は小さく頷く。
「はい。・・・もう、気持ち悪いのも消えましたから・・・」
「熱は？」
そういう拓の額に手を当てて、夏生は拓の熱を測った。
冷たい手の感触に拓は気持ちよくて、そのままされるがままになっている。
「・・・少しあるようだな。医務室に行くか？」
真面目な顔で、夏生が尋ねる。
言われて、拓は困ったように視線を向ける。
慣れない部屋で寝るよりも、自分のベットで寝た方がゆっくりと寝られる気がしたのだ。
「あの・・・もう・・・大丈夫ですから・・・」
「だが・・・」
夏生にしてみれば、寮生に具合の悪い者がいると言うことで、責任を感じているのだろう。
「―――おい。」
ズイッと割り込んできた緋咲が、仁王立ちで拓の前に立つ。
「緋咲？」
「本当に、大丈夫なのか？」
夏生の問い掛けには答えずに、緋咲は拓に尋ねた。
言われて、拓は視線を上げる。
かち合った緋咲の眼差しは、恐いほど鋭い。
蛇に睨まれた蛙のように、一瞬身を竦めるが・・・拓は小さく頷いた。
「はい。」
その答えに、緋咲は目を眇めた。
「―――そうか。」
夏生もやっと了承する。
「だが、我慢だけはするなよ。」
そう言って、ポンと拓の肩を叩くと夏生は立ち上がった。
拓も自分の力でその横に立ち上がる。
「はい。・・・ありがとうございました。」
しっかりとお辞儀をして礼を告げる。
今日一日で、何人の人に迷惑をかけてしまったのか・・・自己管理だけはしっかりしなくちゃ・・・と、拓は改めて自分に言い聞かせた。
夏生が歩いて行ってしまうと、その場には拓と緋咲だけが残った。
「―――帰るぞ。」
「・・・はい。」
前を歩く緋咲の背中が、付いてくるように言っているようで拓は嬉しくなる。
「・・・あの・・・緋咲先輩・・・ありがとうございました。」
だから、自然に言葉が出てくる。
「・・・凄く苦しくて・・・どうしたら良いか理解らなかったんで、先輩に運んで貰って・・・凄く助かりました。」
しみじみと気持ちを告げる。
それから、どうやって運ばれたのか思い出して、思わず顔を赤くする。
同じ年頃の相手に、軽々と担がれてしまうのも情けない気がした。
　
　
階段を上がって、二人で部屋に戻る。
ベットに寝ようとして、拓はそこが酷く濡れていた事に漸く気付いた。
自分では気付かなかったが、随分寝汗を掻いていたようだ。
「・・・・・・」
シーツを剥がしてみたが、布団まで染みているようで干さなければ乾きそうも無かった。
やっぱり医務室へ行けばよかったかも・・・と、ちょっとだけ後悔した拓が途方にくれていると、自分のベットに寝転んでいた緋咲が、深い溜め息を吐いた。
「・・・こっちこい。」
「―――え？・・・わっ！」
緋咲の言葉に躊躇した拓の腕が、伸びてきた緋咲の指先に捕まる。
そのまま引き摺られるように、拓は緋咲のベットに引っ張られた。
「寝るぞ。」
有無を言わさない口調で、緋咲は電気を消した。
途端に部屋の中は薄暗くなる。
どうすればよいのか、拓は更に途方に暮れた。
<・・・どうしよぉ・・・>
赤くなったり青くなったりしながら、拓は身動きが取れない。
「・・・・いつまで、そうしてるつもりだ？あっちじゃ、寝れねぇんだろ？安心しろ、絶世の美女ならまだしも、男に手を出す気はねえから。」
吐き出すように言う緋咲の言葉に、拓は慌てて首を横に振る。
「・・・あの・・・そうじゃなくて・・・その・・・寝巻きも濡れてるし・・・」
「じゃあ、脱げ。」
かったるそうに言われて、拓は更に目を見開いた。
そうして、はあぁ・・・と深い溜め息を吐くと、寝巻きを脱ぎだす。
空気に触れた途端、素肌があわ立つ。
思わず拓はゾクッと身体を震わせた。
「・・・・・・・！！」
そんな拓を、緋咲はシーツの中に引きずり込んだ。
思わず硬直した拓だったが、拓がおとなしくなったのを確認した緋咲は、背中を向けてしまう。
「・・・緋咲先輩？」
「―――もう、寝ろ。」
拓の問い掛けに、ぶっきらぼうな声が返ってくる。
ぎゅっと胸が締め付けられる感じがした。
「・・・・ありがとう・・・ござい・・・ます・・・」
大きな背中が護ってくれているようで・・・拓は全身の緊張を解く。
途端に、睡魔が襲ってきた。
ゆったりとした気分で、拓は眠りの世界へと沈んでいった。
　
　
健やかな寝息が背後から聞こえてくる。
緋咲は、苛立ったように髪を掻いた。
身体は疲れて眠くて溜まらないのに・・・。
触れるか触れないかの距離が、尚更気になって仕方ない。
いつもの自分なら、他人の事など気にも留めない筈なのに。
―――こんなにも気になってしまうのは何故なのだろう・・・。
　
　
グルリと、寝返りを打つ。
すっかり落ち着いた表情の拓の寝顔がそこにあった。
真っ青だったのを見た瞬間、確かに緋咲は心臓が止まるかと思ったのだ。
ぐったりとした姿が、嫌な記憶を蘇らせる。
ギリッと唇を噛んで、緋咲はその記憶を脳裏から追いやる。
取り合えず、今の拓の表情は緋咲の痛みを和らげた。
「・・・あんま、世話やかせるな・・・チビ・・・」
小さく口にして、緋咲も瞳を閉じた。
『ありがとうございました・・・』
柔らかな声が、いつまでも響いているような気がした。
　　
　

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