|
夏の始まり。
夏休みに突入して、早一週間。
期末テストで赤点を取ってしまった拓は、蒸し暑い教室の中で必死にシャープペンを走らせている。
今やっている課題のプリントさえ終われば、漸く地獄の補習からも逃れられる。
最初に補習と決まってしまったときはどうなるかと思っていたが、何とか無事に終わりそうでホッとしていた。
「えーと・・・この英訳は・・・」
手元の辞書をパラパラと開きながら、目当ての単語を探す。
どうにも苦手な科目なので、一々調べないと進まないのが辛いところなのだが・・・。
一緒に補習をしていた筈の者たちは、先に課題を終えて解放されている。
教師さえも、他の用事があるからと職員室へと戻ってしまっている。
課題を終わった後で持ってくるようにとの言葉だけが、重く拓の意識に圧し掛かっただけで・・・。
「―――はぁ・・・」
溜め息を零して、拓は次の問題に取り掛かる。
問題が理解らないから赤点を取るのであって、肝心の教師がいなければ補習の意味も無い気がするのに・・・。
理不尽な想いを抱えながらも、黙々と指は動く。
クーラーの切られてしまった教室内は、どんどん室温が上がっていくばっかりで、開け放した窓からは少しも風など入ってこない。
かんかん照りの太陽に直に当たっていないだけマシなぐらいだった。
じわっと皮膚にへばりつく汗を、拓はハンカチで拭う。
早く終わらせて、さっさと帰りたい。
ただ、それだけを思う。
尤も、思いと裏腹に、課題はちっとも進まないのだが・・・。
「―――拓ちゃん？」
不意に背後から声を掛けられて、拓はにらみ合っていたプリントから顔を上げる。
「やっぱり・・・。何、やってんの？」
「あ・・・」
ひょいと教室に入ってきたのは、先輩の真里だった。
夏休み中ということもあってか、初めて見るＴシャツにズボンというラフな格好である。
「―――真里先輩？」
「ははーーーん？拓ちゃんも補習かぁ・・・。」
不思議そうに首を傾げた拓に、真里は思い当たったように顔を歪めた。
「・・・も？」
真里の台詞に気付いた拓が繰り返す。
「・・・そ。オレも現代史で取っちゃったんだよね・・・。それで、呼び出しくらっちゃったって訳。」
拓の側にきた真里が、机の上に広げてあった拓のプリントを持ち上げる。
「拓ちゃんは、英語が苦手なんだ・・・。オレも得意って程じゃないけど・・・去年やったトコぐらいは教えてあげようか？」
笑いながら、真里は悪戯っぽくウインクした。
「え？！で・・・でも・・・」
基本的に補習なのだから、自分でしなければならない訳で・・・。
突然の申し出に、嬉しさと迷いが生じて、それらが拓の頭の中をグルグルと回っていく。
「大丈夫だよ。拓ちゃんが分かんないトコだけ。第一、こんなプリントだけ渡して、先生がいないってのもオカシイじゃん？」
「それは・・・ボクが理解するのが遅くて・・・他の人は皆終わっちゃったんで帰っちゃっただけで・・・。先生も職員室でボクが終わるのを待っててくれてるし・・・」
言ってて自分が情けなくて、ちょっとだけ拓は涙目になってしまう。
そんな拓に、真里は優しい笑みを浮かべると"よしよし"という風に、拓の前髪を撫でた。
「じゃあ、尚更一緒にやっちゃおうよ！・・・で、ここ違ってるんだけど、直した方がよいよ。」
「え？！どこ・・・？」
真里の指摘に、慌てて拓は顔を上げる。
「ここ。この場合は、頭にｔｈｅを付けたほうが正しいよ。それから、この形容詞だけど・・・」
次々と間違いを指摘していく真里に、拓は慌ててシャープペンを取り出して記入していく。
暫くの間、教室内には真里の説明と、拓の筆記する音だけが響いていた。
「―――と、言う訳でこの場合は・・・質問系だから先にこれがくるわけ。」
「あ、そうか！」
単語を綴っていきながら、拓はずっと悩んでいた部分を解くことができた喜びに、笑顔を浮かべた。
「うん。ここはオレも去年散々苦労したから。でもさ、英語って一度覚えちゃうとそんなに難しくないんだよね。勿論、筆記するときは必要なんだけど・・・実際に外人と話すときって、こんな文法使わないよ！―――っていうのも一杯あるし。もっとフランクに話せるようになれれば十分だと思うけどね。」
言いながら、真里も笑った。
最後の問題を解いて、拓は漸くペンを動かす手を止めた。
「終わったぁ・・・！」
そのまま机に突っ伏す。
「良かったね、拓ちゃんっ！！」
そう言って、真里は座り込んでいた隣の机から飛び降りる。
ポンと拓の背中を叩いて、そのまま歩き始めた真里に、慌てて拓は顔を上げた。
「あっ、真里先輩っ！！」
「・・・ん？」
呼び止めた拓に、真里は教室から出ようとした足を止めて振り返る。
「あの・・・ありがとうございました！」
椅子から立ち上がって、拓は深々とお辞儀した。
「うん！またね！」
礼を告げた拓に、真里は笑顔で応え、手を振りながらそのまま教室を出て行った。
真里の背中を見送った拓の耳に、昼の時刻を告げるチャイムが聞こえてきた。
「うわっ！もう、そんな時間なんだっ！！」
焦って、机の上を片付けていく。
９時から始まった補習で、皆が帰ったのは１０時半だったはずだ。
それから１時間半も掛かってしまったが・・・もし真理に手伝ってもらわなければ、まだ終わっていなかっただろう。
そう思うと、真里に対する感謝の気持ちで一杯だった。
「・・・急がないと・・・」
纏めた荷物を持って、拓は教室を出た。
補習用に当てられた教室は、職員室のある教諭棟から目と鼻の先にあった。
遅くなってもちゃんと待っていてくれた教師は、用事が長引いて教室に戻れずに拓を一人にさせてしまった事をきちんと詫びてくれた。
そうして、長かった補習の終わりを告げた。
―――もう、補習はない。・・・と。
職員室から出て、漸く解放された拓は両手を伸ばして思いっきり伸びをした。
長い時間辞書と睨めっこしていたのも、やっと終わりだと思うと嬉しくて・・・。
寮に帰るのに走り出したい気分だった。
教諭棟を出て、寮に戻るためにグランドの脇を通り過ぎようとした拓は、初めて色々な部が活動をしていたのだと気付いた。
夏の大会が近い所為なのかもしれないが・・・。
県下最大のマンモス校である神奈川学園は、勉学だけではなくスポーツの世界においても優秀な者が揃っていた。
県大会は勿論のこと、全国大会でもそれなりの成績を収めている為に、スポーツ枠の推薦入学も多いのだ。
「・・・わぁ・・・。陸上部に・・・あっちはサッカー部のグランド？あれ・・？」
サッカー部の活動の更に先に、見知った姿があって拓は目を丸くした。
「 ・・・真里先輩？」
先程まで拓の勉強を見てくれた真里が、校庭を所狭しと走り回っていた。
着ているユニフームは同じだが、フルヘルメット姿の連中がそんな真里を止めようと必死に縋り付いている。
「そういえば・・・。」
『―――こう見えてもアメフト部なんだ。もし良かったら今度遊びにおいでよ。』
拓の脳裏に、最初に保健室で会った時の真里の言葉が蘇った。
もう少しだけ見てみようかな・・・と、拓は側に歩いていく。
近付くにつれて、その迫力が増すのを拓はドキドキしながら見ていた。
小柄な真里の身体に向かって、何倍も大きい体格をした者達がぶつかってく。
その動きを読んで、軽やかなステップで動き回っている真里は、まるで背中に羽根でも生えているかのようだ。
「まだまだ！そんなタックルじゃ、今度の大会で全国なんか行けないぞ、カズっ！！・・・アッちゃん！！デフェンスするのにそんな後ろじゃ、タッチダウンされる危険性が高いよっ！！」
「おうっ！！」
「分かった！！」
真里の支持で、あちこちから声が上がる。
どうやら、真里が全体の中心にいるのは間違いなかった。
夏の陽光に弾かれて、真里の金メッシュの部分が光を弾いている。
独特なユニフォームに身を包んだ真里からは、アメリカンフットボールをやるなどとは想像も付かなかったのだが、実際に動きを目の当たりにして拓は自分の考えを改めなくてはならない事を悟った。
「・・・んじやーーー、１０分休憩ねーーーっ！！」
散々走りまわされてへばっている連中を尻目に、真里はしっかりとした足取りで水飲み場へと歩き出した。
額にへばりついた汗を腕で拭って、頭を振った途端に、ばっちりと目が合ってしまう。
大きく見開かれた瞳が、拓を映してゆっくりと細められた。
「・・・また、会えたね。」
笑いながら近付いてくる真里に、拓は思わず真っ赤になってどう答えてよいのか言葉を失ってしまう。
思いっきり見惚れてしまっていたのだ。
何だか覗き見を発見されてしまったような気がして、胸がバクバク言っている。
「あの・・・えっと・・・。」
「英語の先生、ちゃんと居た？」
先に真里に話題を振られて、拓は思いっきりブンブンと首を縦に振った。
「はい！あの・・それで、寮に帰ろうとしたら・・・真里先輩の姿が見えて・・・」
しどろもどろ、言葉を綴る。
「え？じゃあ、見ててくれたんだ！！どう？俺、カッコ良かっただろ？！」
ウインクしながら言う真里に、拓はドキドキしてしまって声が出ない。
「―――拓、ちゃん？」
不思議そうに真里が近付くのを、拓は呼吸が止まりそうな緊張の中で感じた。
「・・・どうしたの？」
「・・・ボク・・・」
こんなにクラクラするのはどうしてなのか？
息苦しいのは・・・？
目の前が陽炎のように揺れて真里の姿がぼやける。
グラッと視界に映る景色が歪むのと同時に、拓の意識は途切れた。
「ちょ・・・っっ！・・・拓ちゃんっ！！」
倒れこむ刹那、慌てたような真里の声が聞こえたが、鉛のようになってしまった身体を動かすことは拓にはできなかった。
２へ続く ／ 戻る
|