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バレンタイン物語・緋咲編
その日は、彼にしては珍しく朝から機嫌が良かった。
まぁ、彼女がいるとかそこそこに顔が良い男なら、誰でも嬉しい日とは言え、彼の様子は妙とも言える程に浮かれ過ぎているようで・・・彼を良く知っている者にすら、熱でもあるのか？と思わせる行動を多々採りつづけていた。
今もそうだ。
チラチラと時計の方を見やっては、また何もなかったかのように視線を戻し・・・いきなり遠い目つきのまま何かを考え始め・・・。
何が怖いかって・・・微笑むのだ。
―――あの彼が。
譬え、どんな相手と喧嘩する事になろうが・・・ここまでの恐怖は味わえないだろう。
原因を知っている幹部たちは、ただただ溜め息を零し・・・知らない者たちは恐慌に陥っていた。
そんな回りの状況をまるで気にしていない彼は、深い思考の中から、漸く意識を戻すともう一度時計を見た。
そうして、その針が、望んでいた時を示しているのを確認すると、ゆっくりと立ち上がる。
「・・・出掛けてくる。」
言外に、ついてくるなとでも言っているようだ。
いつもの彼ならば、彼等と行動を共にする時は、『行くぞ』と言う筈だから・・・。
そんな彼に、理由を知っている者たちは、ほんの少しだけ切ない視線を向けながら、ゆっくりと頷いた。
誰よりも強くて、激しくて・・・尊敬している“頭”が、実は物凄く照れ屋で、傷つき易い《魂》を持っていると気付いた時から・・・彼等はそれを認める事にしたのだから。
また、その存在を手にいれた瞬間の彼の、柔らかな表情を見た時に、ここにいる誰も彼にそんな顔をさせる事は出来ないだろうと理解ってしまったのも事実だった。
カランと音を立てて、ドアが閉じられる。
彼がいなくなったテーブルの灰皿の中では、吸いかけの−ＪＯＫＥＲ−が紫煙を燻らせていた。
乗っている人間の気分が良いのだから、勿論彼の愛車の調子も良かったりする。
軽いエンジン音を、わざわざ大きくする事もなく、滑らかな走りを彼は続けた。
風に煽られた紫の髪が、乱れて後ろに流れていく。
“産業道路”をそのまま西へと走らせる。
今の彼には、チームの事も、対立する者たちの事も頭の中にはない。
想っているのは−ただ一人の。
標識に【横浜】の文字が見えた所で、更に走りが慎重になる。
目的地は、『港の見える丘公園』だった。
昼間はアベックや子連れが多い場所も、今が冬なのと、平日の夕暮れ時という事もあって・・・余り人影は無かった。
そんな中を、彼は歩いていく。
バイクは公園の入口の付近の、見えない場所に於いてある。
約束の場所は公園の中の更に海側で・・・身などが一望できる場所だった。
海からの冷たい潮風を受けながら歩いていた彼の視界に、その姿が映った時には、自然と足が早まっていた。
小さな姿が、夕闇色に染まって・・・浮ついていた心が落ち着いていく。
途中で彼に気付いたらしい相手も、顔を上げて柔らかな微笑を浮かべていた。
その笑みに促されるように、身体が動く。
三日ぶりの再会を全身で感じたくて、抱き締めようとした彼の腕が、触れた瞬間に止まる。
「・・・いつから、待ってた？」
その身体のヒヤリとした感触に、随分と前からその場にいたのだという事を理解して。
「あっ・・・あの・・・」
小さく吃りがちの相手は、困った顔で俯いてしまう。
彼の言葉の一つ一つに反応して、クルクルと表情を変えるこの相手が、今の彼の一番大切な者だった。
「久しぶりに会えたってぇのに、ずっとそうしてるつもりか？」
静かに問いかけると、恐る恐ると言った状態で顔を上げてくる。
そうする事が理解っていた彼は、だから先手を取ってそのまま行動に移す。
触れたのは一瞬だった。
離れた途端に、目の前の顔が見事な程にバッと真っ赤になった。
その反応が可笑しくて、彼は微笑う。
相変わらずのセクシーな笑みで。
「・・・拓・・・」
少し屈み込むようにして、その耳元に唇を寄せる。
まだ赤い顔のまま、だが真っ直ぐに彼を見る瞳が、ほんの少し驚いたように見開かれ・・・そうして柔らかく細められた。
「うん・・・ボクも・・・。」
小さな呟きは、二度目の彼の口づけに取り込まれてしまった。
彼の名は緋咲薫。
横須賀の『麓沙亜鵺』という暴走族の“頭”を張っていたりして、その筋では結構有名な者であった。
対立する族は数知れず・・・そんな中でも最高に天敵だと思っていたチームが、横浜最強と呼ばれる『外道』であった。
今、緋咲と共に存在る者の名は、浅川拓。
二人の初対面は、はっきり言って最悪以外の何でもなかった。
『外道』の“頭”であり、緋咲から夢を取り上げた男−鳴神秀人−の《親友》だと、拓は緋咲にそう告げた。
全ては、あの夜に始まったのだ。
他人を許す事も許される事も・・・愛する事も―――愛される事すら。
・・・教えてくれたのは、拓だった。
別に何処が凄いという訳ではない。
力が強いとか、顔が綺麗とか・・・そういう事もなく、逆に少し他の者よりも劣ると言った方が正しいかもしれない。
それでも、どうしても惹かれてしまうのだ。
緋咲が唯一、親友と呼んだあの《孤独な魂を持つ》者すら、拓の全てが欲しいと言っていたのが、理解るような気もする。
尤も、今更譬えどんな事が合ったとしても、譲る気などさらさら無いが。
「クシュッ・・・」
腕の中で小さなクシャミが聞こえる。
その音に、回想から意識を取り戻した緋咲は、その見た目よりも細い肩を、更に深く抱き締める。
「寒いか？」
他人を気づかう緋咲など、彼のチームの者たちが知ったら絶句ものであろう。
更に、敵対している者達にとってみれば、気絶する程の衝撃を受けるかも知れない。
何しろ、【極悪飛童】という言葉の意味が持つままの性格をしていると言い切っても、誰も疑わない程、『麓沙亜鵺』の“頭”としての緋咲は凶悪だったのだ。
今でこそ、こんなに甘くなってしまっているが、最初の夜の時など、この小さな存在を半殺しの目に合わせていたりもする。
その後も、何度も酷い仕打ちをしたと言うのに、拓はそれら全てを許容してしまった。
秀人を憎む理由を告げた時に、この拳と失くしてしまった夢の為に拓が涙を零してくれたあの夜を、生涯忘れる事はないだろう。
「・・・緋咲・・くん・・・？」
問い掛けのように尋ねる拓に、緋咲は視線を向ける。
「あの・・・」
何を言うのか待っているが、頬を染めたまま言いにくそうに視線をずらす拓に、緋咲は言いやすいように言葉を発する。
「何だ？」
どうしてもぶっきらぼうになってしまうのは、余りこういう状態に慣れていない為。
緋咲の言葉にも、拓はまだ考えているように視線を漂わせる。
それから、キュッと唇を噛み締めると、何かを決心したようにゆっくりと唇を綻ばす。
「・・・チョコ・・・」
消え入りそうな言葉の単語に、緋咲はますます困惑の表情を浮かべる。
「・・・食べられ・・る・・？」
怖々と問う拓を、マジマジと見つめる。
突然の言葉の意味が、掴めなくて。
だが、何の意味も無い事を、こういう場面で言う拓ではない事も知っているので、取り敢えず言葉を口の中で判読してみた。
「甘いモンは苦手だ・・・」
少し眉を顰めてそう告げると、途端に拓の表情が悲しみに染まる。
その表情の変化に気付いた緋咲は、拓が何かを隠している事に気付いた。
ポケットの中・・・入れていた右手が震えている。
「―――そう・・・だよね・・・。」
知ってた・・・と呟く口調は今にも泣きだしそうで、緋咲の胸を締め付ける。
「・・・拓？」
離れようとする拓の身体を押し止めて、緋咲はマジな顔つきとなる。
「何を、隠してるんだ？」
静かに緋咲が尋ねると、途端に拓は顔を赤くする。
それでも拓が答えないので、緋咲は焦れったくなって拓の動きを封じたままで、その手に隠している物を取ってしまった。
「あっ・・・」
驚いた拓の声が、上がる。
出てきた物は、キチンと包装紙で包まれた箱のような物だった。
先程からの会話から想像すると、チョコらしい。
「―――拓？」
拓の口から、ちゃんとした理由が聞きたくて、緋咲はゆっくりとその頬を撫でる。
「・・・ひっ・・緋咲くん・・キ・・・キライかも・・しんないけど・・・でも・・ボク・・・ヘンだけど・・・だけど・・・どうしても・・・あげたく・・って・・・」
本人は一生懸命喋っているつもりなのだろうが、ちっとも説明にならない。
ただ緋咲に理解ったのは、これが緋咲の為のチョコだという事だけ。
その理由を探して、一瞬緋咲は思考回路が吹き飛びそうな衝撃に見舞われた。
答えに思い当たった瞬間に。
・・・まさか・・・と言う想いが拭えないが、他に思い当たらない。
余りの事に、問い正すのも一瞬戸惑ってしまうが・・・何かが心を満たしていくのが朧げに感じ取れた。
「・・・バレンタイン・チョコ・・・か？」
長い沈黙の後で、吐息のように緋咲は、確認の言葉を紡いだ。
茹だったように耳まで真っ赤になった拓の顔に、緋咲の中でそれが確信に変わる。
「俺にか？」
柔らかく聞くと、拓はギュッと目を瞑ったままブンブンと首を縦に降って見せた。
途端に、緋咲の表情が穏やかになる。
腕の中の存在が愛しくて堪らない。
「・・・拓・・・」
ピクッと反応する耳元にキスをして、そのまま想いを甘く囁く。
「お前の『想い』・・・確かに受け取った・・・」
自分を見つめてくる大きな瞳を見つめ返して、緋咲はそう告げた。
そのまま、紅い頬を摘むように辿って、柔らかな唇に啄むように口付けた。
抵抗しない小さな身体を、両腕の中に包み込んだままで・・・。
長い口付けは―――緋咲の『想い』でもあった。
この唇とチョコと・・・どちらがより甘いのだろう・・・？
そんな事を思いながら、緋咲は自分が戻れない所まで来てしまった事を悟った。
どうやら《愛》という束縛に、捕まってしまったらしい。
だが、それは思っていたよりも心地よいものだった。 ヤバイと思う側から、欲しいという感情が頭を擡げてしまうが・・・。
それでも、今はただこんな風に、一緒に過ごせて、この存在をきつく抱き締める事さえできれば・・・それだけで満足な気がした。
少し震える拓の甘い唇が、胸に酷く切なかった。
終わり。 ／ 戻る |