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宇宙の果て
冬の澱んだ空が消えて行く。
春の女神の訪れと共に、冬将軍は更に北へと去って行ったのだ。
凍りつくような寒気に鍛えられていた樹木が、喜びの唄を謳った。
蓄え続けた『力』を解放して、小さな芽を生み出して・・・。
柔らかな太陽の光が、それを祝福する。
ぽかぽかとした陽だまりの中、まだ若い芝生の上にゴロリと寝転んでいた者の、銀色の髪にも日差しが降り注いでいた。
瞳を閉じて、まどろんでいるのだが、その姿は周囲の風景の中で異彩を放っていた。
どんなに隠しても、にじみ出てしまう雰囲気は、冬の気配。
冷たく、凍りついたナイフのような鋭さが、その場の景色から浮きだってしまうのだ。
不意に、長い睫毛が震えて・・・ゆっくりと閉じられていた瞳が開く。
それは―――『朱』。
紅の色彩を放つ、哀しみの色。
その視線が、空に向けられる。
何処までも高く・・・遠くに。
その先に、“視”える蒼い【宇宙】。
意識が視線に同調して、飛んで行く。
地べたを這いつくばる身体を捨てて・・・彼は飛翔するのだ。
高く遠く―――何処までも・・・。
永遠とも言える空間を漂えば、何時かは辿り着けるのだろうか。
【宇宙の果て】へと。
求めて止まない夢の先。
そこなら、彼の『望む』ものは手に入るのだろうか・・・？
もう一度、『朱』の瞳を閉じる。
“翔”んでいる時の彼は、誰にも束縛されない。
現実に囚われることもない。
哀しみも、嘆きも、怒りも、苦しみも・・・空っぽな『身体』の中に置き去りにしてしまえば良いのだから。
そうして、自由を満喫していた彼は、不意に風が変わった事に気付いた。
降りかかる日差し以上に、彼を優しく包み込むそれが、誰の齎すものなのかも彼は“識”っていた。
―――『安らぎの心』。
忘れかけていたそれを、彼に思い出させてくれた大切な“唯一”。
今も彼を気遣って、そっと傍らに『在』る“存在”。
小さくて可愛くて眼が離せなくて・・・愛しい者。
瞳を閉じたままで、彼は傍らの存在を確かめる。
ゆっくりと伸ばした手で、触れる。
「・・・時貞くん？」
少し驚いたような小さな声に、湧き上がるのは喜び。
重ねられた手を掴んで、自分に引き寄せる。
倒れこんできた小さな身体を、抱きしめて・・・。
「―――とっ・・・時貞くん？！」
慌てた顔が見たくて瞳を開けると、予想通りに真っ赤な顔をした拓が眼の前にいた。
「おはよう・・・拓ちゃん。」
「・・・離して・・・」
微笑いながら時貞が告げると、困ったように懇願してくる。
それを無視して、腕の力を強める。
どうしても、時貞が手を離そうとしない事を知ると、拓は諦めたように彼に凭れかかった。
恥ずかしい事には変わらないのか、耳の裏まで真っ赤に見える。
それでも、その優しい“想い”はゆっくりと時貞を包み込んでくれる。
骨の髄まで染み込んでしまった、絶望が癒されていく。
思えば拓は、初めて出会った時から妙に時貞の意識に焼きついていた。
自分の方から声を掛けるなんて、自分でも信じられない事だった。
だが、退屈で窮屈なだけだった毎日が変化したのも事実だ。
今まで溜まっていた総ての感情を曝け出しても、恐れず逃げず。
小さな身体で、精一杯の“想い”を返してくれた相手。
拓だけだった。
拓だけが、時貞の『精神』を解放したのだ。
だからもう手放せない。
傍らのぬくもりを失ったら、生きて行くことも苦痛になるから。
「―――聞こえる・・・」
「・・・え？」
不意に聞こえた拓の吐息のような声に、時貞は意識を向ける。
「こうしてると、時貞くんの心臓の音が聞こえるんだ・・・」
もう一度、ゆっくりと告げられた言葉に、一瞬泣きたくなる。
こんな風に、生きている事の喜びを、さりげない言葉で教えられる。
生きていて良かったのだと、そう思える瞬間。
生き残ってしまったのは、間違いではなかったと、拓の『存在』が教えてくれるから・・・。
「―――ふうん・・・」
言葉に詰まる。
感謝の言葉は、失ってしまったが・・・それでも、気持ちは溢れ出る。
哀しみも、嘆きも、怒りも、苦しみも・・・総てが浄化されていく。
「拓ちゃんのは？」
「え？！」
問いかけと同時に、体勢を入れ替える。
抱きしめたままその小さな胸に、耳を欹てると確かに聞こえる鼓動。
生きている『証』。
「聞こえる・・・」
それは、“命の旋律”。
暖かくて優しくて大きな・・・ずっと時貞が『望』んできた“音色”。
リズムが少し早いのは、拓が照れているからなのか。
顔を上げると、拓はこれ以上はないという程に紅潮していた。
「拓ちゃん。」
「・・・なに？」
「拓ちゃんの望みは？」
時貞が問い掛けると、拓は少しだけ瞳を丸くした。
そうして、小さく微笑う。
「叶ったから、もう良いんだ。」
見惚れてしまう程の、笑顔。
「―――こうして、時貞くんがここに居るから。だから・・・」
柔らかな言葉が、天使の『詞』になる。
感謝の気持ちは、一体誰に告げれば良いというのか。
神は、自分を見捨てたのではなかったのか・・・。
さまざまな感情が、一度に噴出して全身を駆け巡る。
「・・・拓ちゃん・・・」
愛しさが堪らなくて、時貞は行動に移した。
柔らかなそれに、自分の唇を重ねた。
不意の出来事に、拓は落ちそうなぐらい大きく瞳を見開いた。
「・・・・・・・・・・・」
「俺の望みは、拓ちゃんとずっと居る事だよ。」
絶句している拓に、時貞は麗しい程の微笑を送った。
【宇宙の果て】にはまだ行けないけれど―――――。
傍に拓が居てくれれば・・・そこが時貞の終着点であり『楽園』なのだ。
長い間、暗闇の中を探して望んだ最後の場所。
『朱』の瞳で“視”なくても、光は確かにそこにあるから。
現実が変わることはないけれど、それでも生きて行けるから。
――――生まれてきて良かったと、今なら言えるだろう。
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