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奇跡の音
紫のハィウェイ・・・。
まだ夜明け前の、丁度これから太陽が昇ろうとするその瞬間。 周りの景色が総て紫色に染まっていく。
“薄紫の景色の中を何処までも真っ直ぐに走っていくのが好きなんだ・・・”
珍しく柔らかな微笑を浮かべてそう言われた時は、余り深く感じる事はなかったけれど・・・。
今なら、理解る。
―――それが、どんなに孤独な魂が言わせた言葉だったのかと言う事を。
ポタリ・・・と無意識の涙が零れ落ちる。
抑える事のできない感情が、胸を掴んで離さない。
眼前に広がった紫の景色がぼやけて・・・
「・・・時貞クン・・・」
呟きは届かない。
辛くて・・・悲しくて・・・。
一体、この景色の中で、彼は何を思って走り続けていたのか。
考えただけで涙が止まらない。
「時貞クン・・・時・・貞・・く・・・」
何度も何度も、ただその名前だけを呟く。
そうする事でしか、この苦しみから逃れられなくて。
腕の中に抱えたギターをきつく抱きしめたまま、少年はいつまでもその場所から動く事ができなかった。
夕刻から降り始めた雨は、夜半過ぎになってもまだ止む気配を見せなかった。
今夜のライブを終えたばかりの桜宮は、ドアを開けた瞬間にチッと舌を鳴らしてから、走りだそうとして、暗闇の中に佇んでいた存在に気付いてハッとした。
「誰だ？！」
まるで、彼を待ち伏せしていたかのような“存在”に、身構えた瞬間、その姿が灯の下に顕れた。
「桜宮くん・・・。」
「・・・浅川？」
それが誰なのかを理解した桜宮は、次の瞬間に新しい疑問にサングラスの奥の瞳を細めた。
いつからそこにいたのか理解らない程、全身濡れそぼっているその姿は、何時間も雨の中にいたのだという事に他ならない。
隣のクラスの、それ程親しいという間柄ではなく、桜宮の追いかけている相手が、唯一心を許した者―――浅川拓。
彼を見つめる拓は、いつもの困ったような表情を浮かべている。
だが、その瞳の中に何か、強い意志のような物を感じて桜宮は訝しげな表情を浮かべた。
何よりも、拓がここにいる事自体が、既に意外な事なのだ。
「―――どうした？」
だから、問い掛けは疑問。
黙ったまま突っ立っている拓が、両手に大切に抱えている“物”が意識から離れないままで。
彼の問い掛けに、拓は少しだけ戸惑いを見せ・・・だが、次にしっかりと視線を合わせた時には、迷いは無かった。
「ボク、桜宮クンにお願いがあるんだ。」
少し、ハイトーンの声が緊張に震える。
「“願い”？オレにか？」
小さな、だがはっきりとした拓の言葉に、桜宮は疑問を拭えない。
それは、桜宮にとってとても不可解な事だったので。
学校こそ一緒ではあるが、クラスも違うし話した事とて余りなく・・・ただある人物が絡んだ時だけの為に拓を利用した桜宮に対して、どんな意味でその言葉を使うのかが理解らなかった。
だが、拓の瞳はとても真っ直ぐで、それを冗談で済まさないものが秘められているようだった。
「うん。ボクに・・・ギターを教えて欲しいんだ。」
自分の腕の中に包み込んでいた“物”を差し出すようにして、拓は桜宮に向かってそう言った。
『血』の色を思い起こすようなルビーヴァーミリオンの“サドウスキー”。
増天寺ライブの時に『彼の者』が、拓に向かって投げた“魂”。
ずっと、桜宮が追い続けて、その“音”を求めた『彼の者』の遺物。
「・・・それは・・・」
息を飲むような呟きが、桜宮の口元から零れる。
「―――この時貞クンのギターで、ボクでも弾けるように・・・して欲しいんだっ！」
強い“想い”が拓の口から発せられる。
―――それは、まるで悲鳴のようにも聞こえた。
「・・・浅川？」
「どうしても、弾きたいんだ。・・・ううん、ボクが弾かなきゃダメなんだ・・・」
思い詰めた表情は喋っている最中から、大粒の涙を引き起こす。
そんな拓の態度に、桜宮はますます困惑してしまう。
拓の迫力が、いつもの“爆音小僧”のメンバーといる時のオドオドしたものと違って見えたのだ。
差し出されたギターに視線を移した桜宮は、フゥッとため息を漏らした。
「お前がそのギターを弾きたいというのは、理解った。・・・だけどなんで教えるのがオレなんだ？リョーとかもいるじゃねぇか。」
桜宮がそう告げると、拓はとても辛そうな瞳をした。
その瞳に、桜宮はドキッとしてしまう。
「リョーくんじゃダメなんだ・・・。」
「―――浅川？」
「ボクが、時貞くんのように弾けないのは、理解ってる。でも・・・時貞クンの“音”を出したいんだ。上手く言えないけど・・・」
拓の思いがけなかった返答に、桜宮は瞳を見開いた。
その途方もなく馬鹿げた言葉に、嘲笑しようとして止まる。
・・・真っ直ぐな拓の瞳に見つめられて。
「―――本気か？」
「・・・本気なんだ。」
「ギター“演奏”った事あんのかよ？」
「・・・・」
桜宮の問いに、拓は黙り込んでしまう。
それだけで、初心者なのでという事が理解した桜宮は、もう一度深いため息を吐いた。
暫くの沈黙が、その場を支配する。
降り続く雨が、そんな二人を包み込んでいくだけで・・・。
「理解った。お前には、カリがあるからな。“願い”を聞いてやるよ。」
このままでは、何時まで立っても埒がなく、下手に出ると『爆音小僧』のリーダーである鮎川辺りが口を出してくる事を悟った桜宮は、やがてゆっくりと答えを口にした。
「桜宮くんっ！！」
途端に、喜びの表情となる拓に、桜宮は苦笑を浮かべる。
何処までも真っ直ぐに見つめてくるこの瞳が、ひょっとしたら『彼の者』を捕らえたのかもしれない・・・と、ふと思った。
そうして、自分もこの瞳には逆らえそうもない事を、理解した。
＊＊＊＊＊＊＊＊
翌日から、聖欄高校・・・別名“乱校”では一種の騒ぎが持ち上がった。
「ちょっとぉ・・・なんでぇ？！」
その事を認識した“爆音小僧”の現リーダーである鮎川真里は、怒り心頭の表情で抗議をしようとしたのだが、それは唯一の弱点となった拓の言葉によって阻止されてしまった。
「・・・ごめんね、マー坊クン。ボク、どうしても桜宮クンに教えてもらわなきゃならない事があるんだ。」
「どうして？オレじゃダメなのかよ、拓ちゃんっ！」
出会った時から拓を猫っ可愛がりしている真里は、どうしても拓と桜宮の二ショットは納得がいかないらしい。
散々と食い下がった挙げ句、それでも拓がとても困った顔をするのを見て、渋々と許諾し・・・更に桜宮に釘を刺す事を忘れなかった。
曰く。
『―――拓ちゃんに指一本触れたら、承知しないからな。―――』
・・・である。
全く持って、無茶としか言いようがない。
無茶苦茶な独占欲丸出しの言葉に、桜宮は怒る事も忘れて呆れてしまったぐらいだった。
ギターを教えるのに対して、指一本触るなというのは土台無理である。
だから、桜宮はその真里の言葉を無視した。
「ごめんね、桜宮くん・・・。」
「別に。だけど、“学校”じゃウルセーから、“ウチ”んとこ来るか？」
この場合の桜宮の言う“ウチ”とは、“∞”（インフニティボルト）というライブハウスの事である。
「・・・そうだね。」
少し考えた後で、拓はゆっくりと頷いて見せた。
「ごめん、遅くなっちゃって。」
その夜、拓がライブハウスに顕れたのは桜宮のバンドの出番が終わってから随分と立ってからだった。
しかも、驚いた事に、拓は一人ではなかった。
「・・・浅川？」
「・・・あの・・・その・・・」
拓の存在を護るナイトのように、その両隣を陣取っていたのは二頭の巨大な犬だった。
「この子たち、アービィとルーファスって言って・・・その、ついてきちゃって・・・」
困ったように喋る拓の姿に、桜宮は漸く気持ちを落ちつけた。
二頭の巨大な犬・・・それらの飼い主が、元は誰だったのかを、桜宮は知っていた。
「―――セロニアスの、犬達か？」
「・・・うん。」
確認する為の問い掛けに、拓は小さく頷いた。
巨大な二頭のボルゾイ犬は、鎖に繋がれてもいないのに、おとなしく佇んでいた。
「・・・店の中に入っても、良いの？」
「少なくとも、此の“横浜”じゃ、文句言う奴はいないぜ。」
現に、今もその姿を遠巻きに眺める者はいても、その存在を否定しようとする者はいない。
「ありがとう。」
拓がそう言った途端に、犬達は甘えるように拓に擦り寄る。
「良かったね。」
そのふさふさの毛に頬を寄せて、笑う拓の姿から、桜宮は目が離せない。
ずっとそんな表情をしていれば良いのに・・・と考えて、慌ててその考えを追い払った。
「始めるぞ。」
意識を無理やり別方向に持っていく為に、業とぶっきらぼうに言うと、桜宮は手元に置いておいた自分のギターを取り上げた。
拓も肩にかけていた“ギター”を下ろして、桜宮の横に座る。
同じような態勢で、ギターを持って、その指の置き方を教わる。
生まれて初めてギターを弾く者に、“弦音の天才”とまで呼ばれた『彼の者』の“音”を弾かせようというのだから、その苦労も計り知れないものがあった。
おまけに、お世辞にも呑み込みが早いとは言えない拓は、まるっきり不器用だったのだ。
「あぁ、何で、その指でその弦を弾くんだよ？！違うっ！この指はこっちだ。左で音を押さえる度に、右手を休めるなっ！！」
むっつり寡黙で無表情で・・・感情を表出さない筈の桜宮が、拓に掛かってはペースが乱されっぱなしであった。
自分が普段スムーズに出せる“音”すら、他人に教えるのがこんなに大変な事とは桜宮は思ってもみなかった。
「・・・大変だねぇ・・・。」
「何だ、ヘイゾー・・・？」
休憩を取って、拓がトイレに入っている時に、同じバンド仲間がニヤニヤしているのを見咎めた桜宮は、サングラス越しに相手を睨みつけた。
「別にィ・・・。」
「何だよ、言いてぇ事があったら、はっきり言え。」
「あぁ？拓ちゃんて、可愛いよなぁーー。」
いきなりの言葉に、桜宮はグッと詰まってしまう。
「良いなぁ・・・オレもギター弾けたら教えてやるんだけどなぁ・・・うーーん、残念。」
「・・・だから？」
低く問うと、途端に視線を外して平蔵はそっぽを向いた。
「気付いてないんだろ？だったら、気付かない方が幸せかもネ♪」
フフーンと鼻唄を歌いながら、謎掛けのような言葉を言う平蔵を問い詰めようとした桜宮は、戻ってきた拓の姿に動作を止めた。
「何？どうかしたの・・・？」
「何でもない。」
不思議そうに聞いてくる拓に、桜宮はただそれだけを答えた。
だが、その後の時間中・・・ずっと平蔵の言葉が気になって仕方ない桜宮であった・・・。
＊＊＊＊＊＊＊＊
桜宮が、拓にギターを教えはじめてから一週間が過ぎようとしていた。
「桜宮くんっ！」
漸く弦の名称と音階とコードを覚えた拓は、真面目な顔で桜宮に向き直った。
「今直ぐに、弾ける“音”ってない？！どんな“曲”でも良いから！」
「浅川？」
「・・・時間が無いんだっ！ボクの力じゃ、時貞クンの“音”をなんておこがましいけど・・・でも、どうしてもそれが“必要”なんだっ、直ぐにでもっ！」
拓の切羽詰まったような様子に、桜宮は混乱してしまう。
追い詰められた子供のような拓の表情に、胸が痛くなる。
これ程まで、追い求める“音”とは一体何なのだろう？
桜宮とて、クレイジーと言われる程、『龍神』の“音”を探してきた。
そうして、追い続けて、追い越そうとする前に・・・『彼の者』は“飛翔”してしまったのだ。
誰も追いつけない場所へ・・・と。
「―――無理を言うな。」
「無茶でも何でも、良いんだっ！！」
叫んだ拓の言葉が、桜宮の琴線に触れてしまった。
「フザケるなっ！！」
突然の桜宮の怒声に、拓はビクッと縮こまる。
「テメー、何様のつもりなんだよ？！ドシロートのくせに、生意気な事を言いやがって！！そんな簡単に、弾けるぐらいなら、勝手にやってろっ！！」
ビリビリとするような迫力の言葉は、桜宮のギターに対する“想い”の顕れでもある。
拓の言葉は、その“想い”を踏みにじった事に他ならない。
たかがギターを始めたばかりで、桜宮がずっと追い続けていた“音”を出せるぐらいなら、あんな悔しさなど理解らないだろう。
『彼の者』の言い捨てるような言葉が耳をついて離れない。
―――フェイク・・・―――
桜宮の“音”を、『彼の者』は“偽物”と言ったのだ。
その悔しさを、やり切れなさを・・・桜宮は爆発させた。
桜宮の怒鳴り声に、ビクッと硬直した拓は・・・やがて大きく見開いた瞳から大粒の涙を零し始めた。
途端に、桜宮の中で酷い罪悪感が沸き上がる。
自分が悪い事を言った訳ではないのだが、どうしても弱い者いじめをしてしまった気がするのだ。
「・・・ご・・・ごめ・・・でも・・・でも・・・ボクは・・・」
ヒックとしゃくり上げながら、それでも何かを言おうとした拓は次の瞬間にその部屋の中に飛び込んできた物体に、驚きの表情を浮かべた。
「―――アービィッ！ルーファス・・・？」
飛び込んできた二頭の犬達は、真っ直ぐに拓の元へと駆けよると、その袖口をくわえて引っ張る仕種をする。
どうやら、何処かへと拓を連れていこうとしているらしい。
それに、気付いた拓の表情が見る見る内に青褪める。
「そんな・・・駄目だよ・・・ボク・・・まだ、弾けないのに・・・まだ“音”が見つけられないのにっ！！」
悲鳴のような言葉が、拓の口から零れ落ちる。
「浅川・・・？」
崩れ落ちそうな拓の身体を、慌てて桜宮は支えた。
先程までの怒りなど、突然の事態に消滅してしまっていた。
そうして、改めて拓に何か事情があるのだという事に気付く。
「何があるんだ？そうまでしてお前が、あいつの“音”にこだわる事が？！」
腕の中の拓を揺さぶるようにして問うと、涙に濡れた瞳が、桜宮を写した。
「時貞くんが・・・いかなきゃ・・・待ってるんだ・・・」
「浅川？しっかりしろっ！あいつは、死んだ筈だろ？ライブの後の事故で・・・ベイブリッヂで、死んだんだっ！！」
「違うっ！！死んでなんかないっ！時貞くんは・・・まだ死んでないっ・・・絶対死なせないっ！！」
憑かれているような拓の意識を戻すように、桜宮が強く言うとそれ以上の強い意志が、拓の唇から零れ落ちた。
「アービィ・・・ルーファスっ！！」
「ウォンッ！！」
ギターを抱え上げると、拓は素早い動作で桜宮の腕の中から復活した。
その“存在”が失われて、思わず引き戻してしまいそうな自分に気付いて、桜宮はますます呆然としてしまう。
二頭の犬の名を呼んだ拓は、そのまま走って外に飛び出す。
「浅川っ！！」
ハッとした桜宮は、慌てて追いかけて、バイクに跨がった拓を捕らえた。
「離して、桜宮くん・・・」
「駄目だっ！セロニアスが関係してやがんだろ。それに、俺はまだお前に教え切ってない。違うか？」
サングラスを外して桜宮が尋ねると、拓は困った顔のまま少しだけ考えて・・・小さく頷いた。
「後ろに、乗って。」
早口でそれだけを言うと、肩から下げていたギターを桜宮に渡す。
そうして、桜宮がその後ろに跨がった途端に、バイクは疾駆した。
―――夜の街中に向かって・・・。
＊＊＊＊＊＊＊＊
「・・・ここは？」
ライブハウスから、十分程走って、拓は白い建物の前でバイクを止めた。
大きな真っ白い建物は、そこが病院だという証明の赤いランプが回っていた。
流石に、面会時間とかを過ぎているので、辺りには誰もいなかったが・・・そんな事に構わずに拓は裏門を開けて中に入っていく。
「浅川？」
前を歩く拓の背中が、緊張で震えているのが、廊下の照明の下でも見てとれて、思わず桜宮は声をかけてしまう。
ただでさえ夜の病院の廊下というのは薄気味が悪いものだ。
だが、桜宮の掛けた声に、拓は反応しなかった。
ただ、一緒に歩いている犬の毛並みに震える指先を押さえるかのように差し込んでいるだけで・・・。
聞きたい事は山のようにあるのだが、取り合えず桜宮は黙ったまま拓の後をついていった。
階段を上がって、一番奥の扉を開けると、その中で一人の人物がソファーに座っていた。
「浅川様・・・。」
座っていた人物は、拓の姿を見ると慌てて立ち上がって、招き入れる。
「そちらの方は？」
そうして、拓の後ろにいた桜宮に視線を流したそれは幾分きついものだった。
「あっ・・・檜原さん。彼は・・・その、ボクの友達で・・・ずっとギターを教えて貰っていたんです・・・。」
「ギターを？」
一瞬訝しげな表情を浮かべた相手は、次の瞬間、桜宮が持っていた“物”を見て深く頷いた。
「そうですか・・・。」
「・・・あの、時貞くんは・・・？」
「―――今夜が、最後だと・・・。」
拓の問い掛けに、返ってきた答えは、辛い現実だった。
その言葉を耳にした途端に、拓はギュッと唇を噛みしめた。
「・・時貞様にお会いになって下さい・・・浅川様。誰よりも、それを望んでおられる筈です。あの方は、ずっと今は亡きご両親の元へと行かれる日を待ち望んでいました。」
静かに告げられる言葉に、拓は唇を噛みしめたまま首を横に振る。
そうしてゆっくりと歩き出すと、更に奥の部屋の扉を開けて中に入っていく。
半信半疑でその部屋を覗いた桜宮は、衝撃に打ちのめされた。
死んだと言われていた筈の『彼の者』がそこに“存在”していたのだ。
『獏羅天』の“切り裂き魔”・『龍神』・・・音楽の世界の者達には、崇拝され、裏の世界の者たちには畏怖されていた者。
―――天羽・セロニアス・時貞。
ベットに横たわる彼の瞳は、硬く閉ざされ・・・全身の至る所に様々な処置が施されてチューブがつけられていた。
「―――時貞くん・・・。」
ベットの傍らに寄り添った拓が、そっと呼びかけても何の反応も示さない。
「これは・・・」
「―――皆様がご存じのように、時貞様は一度お亡くなりになられました。ですが、最後の埋葬の時に、浅川様が生きていると仰られて・・・調べた所、確かに微かではありますが鼓動も動いていて・・・仮死状態となっておられたのです。その後すぐに、こちらへと運ばれて手当てを受けているのですが、意識が戻る事もなく・・・」
問い掛けのような桜宮の呟きに、答えたのは檜原だった。
「最後ってぇのは？」
「―――仮死状態とは言え、一週間から十日以内に目覚めなければ、後はずっと植物人間の状態になってしまわれるそうで・・・そんな状態で生きていられるのは、天羽家にとって不必要な事なのであります。」
「そいつは・・・！」
衝撃が、桜宮の全身を覆う。
そうして、思い出す。
拓にギターを教え初めてから一週間であり・・・今日の拓があれだけ必死だった事を。
つまりは、そういう事なのだ。
「今夜が、十日目だって、事か？」
思い当たった事実に、確認の問い掛けはその場の空気を重くしただけだった。
「違うっ！時貞くんは、探しているんだ。“音”を。だから、ここに居るって事を教えてあげれば・・・ちゃんと・・・」
ポロポロと泣きながら言う拓の“想い”がとても切なくて、桜宮はズキッと胸が痛んだ。
気付いてしまったのは、自分の想い。
他人の・・・時貞の為に自分にギターを教わったのだという事を知らされた途端に、沸き上がったのは残酷な程の嫉妬。
他人の為に涙を零す拓の姿からは、弱いという印象はない。
それ程、深い“想い”を交換できる相手がいるという事が、桜宮にとっては羨ましい事だった。
ボーン・・ボーン・・・。
時計の音が響いたと同時に、白衣を着た医者が数人部屋の中に入ってきた。
「・・・時間です。天羽の“翁”の言葉により、これ以上の存命行為は必要ないとみなします。宜しいですね。」
眼鏡をかけた者が、カルテを見ながら冷酷に告げる。
「嫌だっ！」
「―――浅川様・・・。」
「だって、生きてる・・・時貞くんは、まだ生きてるんだ！なのに、どうして？・・・やめろっ！」
次々とチューブを外していく者たちの動作を止めようとした拓は、そのまま無理やり引き剥がされた。
「―――邪魔をしないで下さい。どうせ、最初の時間で彼の脳は既に酸欠で死んでいる筈なんです。このままの状態でいたとて、意識がもどる事なんて奇跡でも起こらない限り無理な事なのです。」
淡々と告げる医者の宣言に、拓はそれを拒絶するかのように首を横に振り続ける。
「時貞くんは、死んでないっ！だって、約束したんだ・・・ボクがギターを弾いたら戻ってくるって・・・ボクの“音”を聞いてくれるって・・・！！」
「浅川・・・。」
慟哭する拓の傍らに寄り添って、桜宮は震える肩に手を置く。
かけて遣る言葉は、持ってはいなかった。
「夢の中だったけど・・・それでも・・・ボクは・・ボクは・・・」
「理解ってる。お前が真剣だったって事は、オレが知ってるから・・」
しがみついてくる拓の身体を抱き留めたまま、桜宮は何度も慰めの言葉を告げ続けた。
どうする事もできない、悲しい時間が過ぎていく。
やがて、白衣を着た者たちが部屋から退出した時には、あれだけあったチューブが一本も残ってはいなかった。
ただ、あちこちに包帯を巻いた時貞が横たわっているだけで・・・生命維持装置のなくなった今、後は静かなる“死”を待つだけとなっている。
「弾いてやれよ、浅川。お前じゃなきゃ、駄目なんだろ。」
漸く、涙も枯れ果てたような拓に向かって、桜宮は静かに語りかけた。
「・・・桜宮くん？・・・でも・・・ボクは・・・」
「“音”っていうのは、人ぞれぞれだ。お前は、オレにセロニアスの“音”を弾きたいと言った。ならば、オレは無理だと言うしかない。だけど、お前の“音”は、お前が弾いた時に既に“存在”する。それで良いんじゃないか？時貞は、こいつで、オマエの“音”を聞くと言ったんだろ？」
一言一言、言い聞かせるように告げると、桜宮は持っていた“サドウスキー”を拓に手渡した。
一瞬、困惑の表情を浮かべた拓は、それでも小さく頷いた。
「ボク、弾いてみるよ・・・。」
そうして、横たわっている時貞の側に近寄っていく。
「時貞くん・・・ごめん。ボク、約束守れなくて・・・まだまだ下手くそだけど・・・聞いてね・・・。」
そう照れ臭そうに笑いかけると、拓はたどたどしい指動作で、コードを押さえていく。
最初は途切れ途切れの音が、ゆっくりと流れていき・・・暫くすると、メロディーになった。
桜宮が、拓に時貞の“音”が無理だと言ったのには、時間の所為だけではなかったのだ。
その“音質”が、二人は全く異なっていた為に。
時貞の“音”は、そのまま彼の『祈り』でもあった。
張り詰めた琴線が、突如として激しく昂り・・・やがて昇華と静寂を迎えるようなものであったのに対して、拓の“音”は『想い』だった。
性格なのだろうが、優しく滑らかで不器用な音は、聞いている者の心をホッとさせるのだ。
だから桜宮は拓の言葉に、時貞が何を望んでいたのかが漸く理解できた。
それは、“安らぎ”とか・・・“温もり”とか・・・そんな単純なもので良かったのだ。
尤も、それを弾く事ができるのもまた、拓以外にはいないだろうが。
たどたどしいメロディーが、余韻を残して終わった時に、拓は微笑った。
零れ落ちる涙のままに、微笑う拓の表情は、桜宮の意識を奪うのに十分な物であった。
「浅川・・・」
「ありがとう、桜宮くん。それと、ここまで付き合ってくれて・・・本当にありがとう。」
「浅川様。」
「ごめんなさい、檜原さん。ボク・・・何もできなかったけれど・・・時貞くんの事、宜しくお願いします。このまま、ここにいるの辛すぎるから・・・これ以上みっともない所を見せる前に、今日は帰ります。」
「畏まりました。時貞様もきっとご満足されていらっしゃると想います。」
ペコリと頭を下げる拓に、檜原は深々と礼を述べた。
そうして、三人が部屋をでようとした時に、入れ代わりに二頭の犬が病室に入った。
「・・・最後は、時貞様が家族のように愛されていたアービィとルーファスの側で過ごさせてあげたいと思います。」
檜原が、ゆっくりとした口調でそう言うと、拓も小さく頷いた。
それが、一番だろうと思って。
部屋を出る瞬間に、もう一度、ずっと勝手に追いかけていたライバルの姿を焼き付けようと振り返った桜宮は、愕然とした。
「クゥーン・・・」
硬直した桜宮の側で、どうしたのかと振り返った拓は、衝撃に大きく目を見開く。
檜原でさえ、言葉を無くしていた。
アービィの頭の上に置かれているその手は、先程までシーツの上にあったものだった。
最初に動いたのは、拓だった。
ぎくしゃくとした動作で、ゆっくりとベットに近づく。
「・・・時貞・・・クン？」
その傍らで、そっと声をかけるとそのままその手を両手で握り締めた。
拓の呼びかけに、長い睫毛がフルフルと揺れ動き・・・やがてその下から“緋”い瞳が顕れた。
両手で口を押さえて、叫びだすのをやっとの想いで抑えた拓は、その代わりに止めた筈の涙を零し始める。
「・・・た・・・く・・・ちゃ・・・」
血の気のない唇が動き、囁きのような音が零れた。
それだけで、拓はもう胸が一杯だった。
何も言えなくて、ただ何度もうんうんと頷いて、掴んだ時貞の手を確かめるように自分の頬に擦り寄せた。
それは、もう誰も入れない二人の絆のような空間であり・・・桜宮はゆっくりとした足取りで病室から離れた。
―――気付いてしまった胸の痛みに、少しだけ感傷的になりながら。
そうして、一ヵ月。
超人並の体力と太鼓判をおされて、“向こうの世界”から復活した『龍神』は今日も元気に生きていた。
更に、始末が悪くなって・・・。
「あぁーーー？なぁんで、ここまで来てやがんだよぉ、テメェ！直ぐに拓ちゃんの側から離れろよ！」
「・・・・・」
一日中、拓にへばりついているのではないかと思われる程、それ以外の存在を無視するのだ。
お陰で、拓に対して懸想を抱いている者たちの煮詰まりも激しいものだった。
隣のクラスのやかましさを耳にしつつ、桜宮はまた変わらない日常を過ごしていた。
時折見かける拓の姿は、困った表情ではいながらも、あの時の胸が痛くなるような悲痛な顔付きではなくなっていた。
だから、『龍神』が付け上がる一方なのだが・・・。
「だあぁぁぁ、も一遍、あっちへ行っちまえっ！！」
「そしたら、また拓ちゃんに呼び戻してもらうだけだ。」
ブチ切れた真里の叫びに対して、実に鮮やかな笑みを浮かべて・・・言い切る時貞の台詞が総てを物語っていた。
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