春の宵
　
　
　まだ肌寒さの残る三月下旬。
　ガードレールに腰掛けた状態で、車の流れをぼんやりと見ていた彼は、遠くを見るような視線で、アスファルトを蹴った。
　「鰐淵の奴、とうとう“卒業（い）”っちまったよ・・・。結局、あいつとは、決着付けられなかったナ・・・。」
　ボソリと呟いて、ふと隣に視線を向ける。
　「これで、“音速の四天王”が、総ていなくなった・・・迅い奴等が、オレの前を通りすぎていくだけ。」
　不意に吹いた強い風が、彼の金髪を乱れさせる。
　「オレは、どうしよう？“スピードの向こう側”には、まだ辿り着けないけど・・・どうして、走ってるだけじゃいけないのかなぁ・・・何処まで行けば、その“答”えが見つかるんだろう？」
　歪む顔は、怒りではなく、苦しみではなく・・・どうしようもない程の『刹那さ』によるもので。
　答えは、返らない。
　死者は語らない。
　残された者の哀しみも知らず・・・。
　「免許が取れるようになったら、ちゃんと走りを教えてくれるって言ったのに・・・取れる前に“消”えちまうなんて・・・反則だよ・・・誠さん。」
　ポツリと、漏れる呟き。
　傍らのガードレールの脇で、その“命”を散らした・・・誰よりも“迅”かった者。
　一年以上たった今でも、その存在は忘れられない。
　こうして、毎日変わる変わるのように、新しい供え物が増えていく。
　それでも、あの走りを実際にこの目にする事は二度とないのだ。
　それが、現実。
　「―――オレはずっと・・・貴方と一緒に、走りたかったんだ・・・」
　彼の切ない呟きは、風に運ばれて・・・喧騒の街の中へと吸い込まれていった。
　
　
　　―――桜咲く・・・春の日溜まり　　　　
　　　　　　　　　　　　　桜散る・・・春の宵―――
　
　
　呼び出しは、突然だった。
　しかも、真里直々のお出迎えとあれば、拓にどうこう言える筈もない。
　「夜桜を見に行こう♪」
　にっこり笑顔で断言されてしまえば、尚更首を横に振ることなどできる筈もなかった。
　「じゃあ、あったかい恰好してネ☆」
　嬉しそうに告げる真里に、拓は困惑しながらもセーターにマフラーをして更に、ジャンパーを羽織る。
　「こっ・・・これで良い？」
　「上出来！じゃ、行こうか？」
　おずおずと尋ねる拓に、真里は、全開の笑みを見せる。
　「じゃ、後ろ乗って、拓ちゃん♪」
　「えっ！？まっ・・・マー坊くんの後ろ？」
　愛車の真紅のフォアの後ろを指す真里に、サァーと拓の顔色が悪くなる。
　何しろ、真里の後ろと言えば、拓にとってロクな目に会わない場所なのだ。
　この、外見だけは可愛くて、小さくて凄味のかけらもないような真里が、実は横浜で最速の族チームの“頭”を張っていたりするのだから、人生理解らないものである。
　特攻隊長に言わせると、走る速度・・・というか“棲んでいる領域速度”が、違うらしいのだが、それがどの辺の領域なのかは、全く理解りたくない拓だった。
　「嫌なの？」
　チロリと見られてしまい、拓は半ば仕方なく後ろに跨がった。
　「あっ・・・あの・・・？！マー坊くん！？」
　「なーに？拓ちゃん？」
　「・・あんまり・・・スピードオォ・・・？！」
　恐る恐る拓が先にクギを刺そうとしたのも束の間、一瞬の内にエンジンをフカして、アクセルを開いたフォアは、ワンクッションで爆発した。
　拓の途中で区切れてしまった声が、ドップラー効果を伴って・・・その場に残されただけで・・・。
　二人の乗ったバイクは、あっと言う間に夜の町並みへと駆け抜けて行ってしまった。
　
　
　そうして、どうせ“山下公園”か、“海の見える丘公園”・・・遠くても“森林公園”ぐらいだろうと踏んでいた拓の考えは、大きな間違いだったのだと、拓が気付いた時には、既に戻れなくなっていた。
　
　人っこ一人通らない場所。
　吐く息は白く・・・静寂が漂う。
　「マー坊くーーーん！」
　拓は泣きそうだった。
　否−実際は半分程、半泣きとなっていた。
　真里は夜桜を見に行くと言ったのだ。
　確かに、場所までは言わなかったが・・・。
　それでも、これはないだろう。
　町並みを抜けて・・・朝比奈峠へ向かう道を走りはじめた時から、嫌な予感はしていたのだが・・・。
　街中で、漸く咲き始めた桜が、こんな山の中で咲いている筈もない。
　ただただ、薄気味悪いだけの場所に、拓は心細くなってしまう。
　「もう少しだからネ♪」
　だが、そんな拓の気持ちも知らずに、真里は相変わらず軽い調子でそう答えた。
　やがて、バイクのエンジンが止まり、景色が止まった。
　峠の中腹の、展望台のようになっている場所で、真里はバイクから下りた。
　拓も、慌ててホッとしたように下りる。
　真里の運転が、丁寧だったからか・・・それとも、拓が少しは慣れたせいかもしれないが、前のようにすぐに気持ちが悪くなって吐く事もなかった。
　「おいでよ、拓ちゃん。」
　「あっ・・・待ってよ、マー坊くん？！」
　先に立って歩く真里の後を、こんな場所で一人にされたくない拓は必死に追いかける。
　バイクの明かりも消えて、辺りは本当に暗かったのだ。
　「足元に気を付けて。」
　「えっ！？わっ？！」
　言われた途端に、段差に躓いて、転びそうになった拓を、真里が支えた。
　「あっ・・・ありがと・・・？！」
　真っ赤になった拓は、この場所が暗くて良かったと思った。
　クスクスと笑った真里は、そのまま拓の手を握った。
　「マー坊くん？」
　「転ばないように、さ☆」
　柔らかな声音に、拓は少しだけドキドキしながら、それでも頷いた。
　繋がれた手から伝わってくる温もりが、独りではないのだという事を示していて・・・ホッとしたのも事実だったから。
　そうして、展望台に登り切った途端に、拓は眼前の景色に瞳を奪われた。
　「うわぁ・・・」
　感嘆の余り、声も出ない。
　山の斜面を白い絨毯が覆っているようだった。
　更に、下の方には、街の明かりがきらめいていて・・・その向こう側は、海なのだろう。
　時折下から吹き付ける風は、変わらずに冷たかったが・・・密かに薫るのは桜の匂いなのだろうか？
　「凄いや・・・凄いね、マー坊くんっ！」
　嬉しそうに拓が横を向くと、ずっと見ていた真里の眼差しとぶつかった。
　「マー坊くん？」
　不思議そうに拓が問いかけると、真里はフッと視線を逸らして、空を見上げる。
　釣られて上を見た拓も、暗闇に慣れ始めた視界の中で、溢れる程一杯のきらめきを見つけて瞳を見開く。
　恐らく、街中では決して見られないだろう、その存在。
　「・・・拓ちゃん。」
　不意に呼ばれて、視線を戻す。
　視界の中に映った真里は、拓が今まで見たどんな彼とも違って見えた。
　下から吹き付けた風が、白い物を上空に運ぶ。
　舞い散るのは、小さな“存在”。
　服についたそれを指で掴んで見ると、それは桜の花びらだった。
　「マー坊く・・・ん・・・！？」
　摘んだそれを、見せようとした拓は、次の瞬間、真里に抱き締められた。
　驚きに瞳を見開いた拓を、しがみつくようにして真里は抱き締めていた。
　「・・・は、何処にあるんだろう？・・・理解らない・・・見つからないんだ・・・」
　掠れる声が、辺りに響く。
　「マー坊くん？何？どうし・・・」
　突然の事に、思考回路が上手く回らない拓は、困ったように真里に問いかける。
　「―――答えがない・・・オレはどうすれば良い？背中が見えるんだ・・・いつも・・・その背中をオレは追い続けて・・・」
　ズキリと拓の胸が痛んだ。
　何故かは理解らないけれど、真里の哀しみが移ったように痛みが走った。
　「ボ・・ボクも背中なら・・・見たことある・・・時貞くんの・・・」
　ポツリと拓が呟くと、真里の震えが止まった。
　「“悪魔の鉄槌”で最後に走った時・・・夏生さんは“それ”が見えても、“無理”には“捕”まえるなって言ってた・・・たとえ、怖く見えなくても・・・って・・・」
　「夏生さんが・・・？」
　顔を上げて、ぼんやりと見つめてくる真里に、拓は大きく頷いた。
　「そう聞いたのに・・・それでも、時貞くんが“視”えた時・・・その後ろ姿を捕まえようとして・・・」
　「拓ちゃん？」
　「・・・Ｂ突に行く前に、一回事故っちゃって・・・だから、あの時のケガは本当は・・・」
　照れるように告げる拓に、真里の中で何かが変わっていくような気がした。
　ずっと、真里を縛りつけていた鎖が、粉々に砕け散って消えていく。まぼろし
　真里がずっと見つづけていた“幻想”は、捕まえなくても構わない“存在”だったのだ。
　それを捕まえられない、自分の力がない訳では決してなく・・・。
　クスリッと真里の口元に笑みが浮かぶ。
　徐々に広がっていくそれが、顔中に広がった時には、既にいつもの真里へと戻っていた。
　「なぁーんだ♪」
　明るい声を出す真里の変化に、思わず拓はビクッとしてしまう。
　「マー坊くん！？」
　恐る恐る問いかける拓に、真里はただ笑顔を向けた。
　「―――理解ったよ。ありがとう、拓ちゃん♪」
　すっきり晴々とした表情の真里に、拓はドキマギしながらも笑顔を返した。
　「良かったね・・・マー坊くん。」
　「うん・・・“幻影”は所詮“幻影”でしかありえないんだ・・・それよりも、オレは、今この瞬間に“存在”する方を捕まえたいからネ♪」
　含み笑いを浮かべる真里の台詞に、拓がえっ？と思った時には、既に唇を奪われた後だった。
　流石に横浜一の速さを誇る者なだけあって、その素早さも並大抵ではない。
　奪われて一瞬後、漸く自分の身に起こった出来事に気付いた拓が、バッと口元を覆う。
　「まっ・・まっ・・まっ・・・」
　真っ赤になったまま、吃ってしまうのは、信じられない気持ちの方が強かったから。
　先刻までの会話の中で、一体何処に今の行動を予測させるものがあったというのだろうか？
　「好きだよ、拓ちゃん☆」
　全開の笑顔で言い切る相手に、拓はガクウッと肩を落とす。
　「・・・マー坊くん？」
　「本気だよ。信じられないなら、信じられるまで言い続けても良いよ。」
　フッと真面目な顔つきとなった真里に、拓はドキッとした。
　「どうして？・・・」
　困ったように問いかけるのは、真里の真意が計り知れないから。
　「昔は、“想い”が強ければ自然と相手に伝わると思ってた・・・。でも、その“想い”が届く前に、その相手がいなくなってしまう事もあるんだって・・・オレは知らされてしまったから・・・。」　
  フワッと浮かんだ表情は、切なかった。
　「だから、伝えられなくて後悔するぐらいなら、自分の気持ちを隠すのは止めたんだ・・・。」
　続けられた真里の詞に、拓は昔の自分を思い出した。
　「じゃあ・・・ボ・・・ボクも・・・隠さないよ。」
　ギュッと拳を握りしめる拓に、真里は少しだけ驚いた顔つきとなった。
　それでも、意を決したように拓の返事を待つ。
　「ボ・・ボクはマー坊くんが・・・好き・・・」
　プシューッと沸騰しそうなぐらい真っ赤になった拓が、真里の前に居た。
　この暗がりの中でも、拓がどれだけ顔を赤くしているのかが、真里には手に取るように理解った。
　「・・・拓ちゃん？」
　驚きを隠せないといった声が、真里の口元から零れる。
　「・・・うん。」
　もう一度、拓は“想い”を肯定した。
　途端に真里は拓を抱擁した。
　強く・・・両腕の中に閉じ込めてしまう程、強く。
　「くっ・・・苦しいよ？！マー坊くん・・・・」
　「あっ、ゴメン・・・嬉しくて・・・つい・・・？！」
　ペロッと舌を出して謝る真里に、拓は漸く戒めから逃れられた。
　そうして、向き合ったまま視線が外せなくなった。
　「マー坊・・くん・・・」
　「嫌？」
　ソッと尋ねる真里に、拓は困ったように微笑って・・・静かに瞳を綴じた。
　ゆっくりと近づいて・・・優しく重なった唇は、少し震えていた。
　それは、寒さによるものなのか・・・それとも。
　それでも、胸に響くのは・・・暖かな感情だけだった。
　
　肌寒い三月の終わり。　秘め事みたいな『恋』が始まった。
　
　
　
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