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御意見無用スペシャル１
それは、７月も終わりの・・・夏休みに入ってすぐの事だった。
暑い日が続いて、全身が茹るような毎日を過ごしていた拓の所に、その者は突然やってきた。
「こんにちは。」
ドアを空けた瞬間に、目の前に立っていた人物に、思わず驚いてしまう。
「――千・・冬・・さん？」
その普段とは全く違う姿の知人に、口を付いて出るのは不安げな確認の声だけ。
「大当たり♪」
にっこりと艶やかに微笑うのは、見惚れてしまいそうないつもの笑顔であったが、その身を纏う雰囲気が、いつもの相手とは全く違うのだった。
夜の町中で出会った時の、鮮やかで艶やかな雰囲気が、この昼の光の中では、非常に穏やかなものとなっている。
更に、拓が、千冬の事を綺麗な女神様だと間違えさせた、トレードマークとも言える化粧もすっかり落として・・・素顔を露にしているのは、初めての事だった。
それでも、やっぱり綺麗な人は素顔も綺麗であったが・・・。
いつもは無造作に背中まで流れているウェーブがかった金髪も、今はちゃんとゴムで結わいてきっちりと止めていて・・・カジュアルスーツに身を包んだその姿は、どう見てもそこらのモデルよりも数倍恰好良かった。
「あ・・・あの・・・今日は、一体・・・？」
千冬の姿を一目見て気に入ったらしい母親にせがまれて・・・取り敢えず家の中に招き入れて、茶などを交わしていたりする。
因みに、ちゃぶ台の上に置かれている茶受けの和菓子は、千冬が手土産で持ってきた物だった。
一通り落ちついた所で、拓が発した疑問は当然の事であり・・・何か用でもなければ、湘南に住んでいる筈の千冬が、横浜くんだりまで出てくる筈もなかった。
最も、ここで自分に会いたかったからなどど、いつもの調子で答えられても・・・それはそれで困った事になるのは目に見えていたが・・・。
「うーーーん・・・」
拓の問い掛けに、千冬は正座したままで、少しだけ口籠もる。
そんな千冬をジッと見つめる親子は、正しくクリソツであった。
同じ顔に見つめられて困りながらも、千冬は意を決したように綺麗なラインの唇を開いた。
「実は・・・拓ちゃんに、お願いがあって・・・」
静かに告げられた言葉に、母子が顔を見合わせる。
「お願いって？」
少しだけ嫌な予感がしつつも、問い返す拓は、やっぱりお人好しの域から逃れる事はできないらしい。
「恋人になってほしいんだ。」
艶やかな唇が持ち上がって、麗しい微笑を浮かべたまま、千冬はきっぱりとそう告げた。
途端に、母子の呼吸が止まった。
「あの・・・失礼ですけど・・・ウチの拓は男の子ですよ？」
余りの事に真っ白になってしまった拓よりも、流石に、長く人生を歩いてきた母親の方が先に立ち直って、恐る恐る問いかける。
いつもいつも遊びにくる、高校の友達の中にも、冗談でそんな事を言う子はいたりするが、ここまで真面目に言い切った千冬をマジマジと見つめてしまう。
「ええ。知っていますよ。」
「じゃあ・・・。」
きっぱりと千冬が肯定した途端に、思わず体が逃げてしまうのは、つい条件反射のようなもの。
「え？あぁ・・・すみません・・・えーとですね・・・この場合、ちょっと事情があって・・・拓ちゃんにお願いしたいのは、女の子にならなきゃいけないボクの、恋人のフリをしてほしいという事で・・・」
「・・・フリ？」
親子揃って、壁際まで逃げようとしていた身体が、その言葉によって止まる。
「そうです。実は、訳があって、ボクは小さい頃から女の子として育てられてきたのですが・・・今回、許嫁が成人式を迎えるので、無理矢理結婚させられそうなんです・・・。古い慣習のある家なので、男だという事は、ばらせないもので・・・だけど、なんとかして婚儀を破棄させたくて・・・。」
静々と告げる言葉に、姿勢が改まっていく。
真っ白な塩の柱から、漸く立ち直った拓は、俯きがちに言う千冬の姿に、胸を傷めた。
他人の感情に、酷く敏感な拓だからこそ、千冬は選んだのかもしれないというのに。
「・・・それで、ボクに？」
拓の問い掛けに、千冬はこっくりと頷く。
うーーーんと考え込んだ拓は、困ったように母親を伺い見る。
だが、その母親は、拓が何かを言うよりも早く、身を乗り出していたりして。
「それは、大変ね・・・ウチの拓でよければ、いつでもお貸しするわっ！」
お人好しなのは、はっきり言って血筋だったのかもしれない・・・。
既に決まってしまった決定事項に、拓の意思など何処にも存在する余地などなかった。
三時間後、小さな手荷物一つを持った拓は、何故か羽田空港に向かっている車の中の住人と化していた。
三十分で大まかな内容を把握した母親に、善は急げと追い出されたのだった。
「・・・はぁ・・・」
思わず溢れるのは、溜め息一つ。
余りにも早く事が決定してしまったので、結局誰にも何も言えなかったのだ。
何かあると、直ぐに拓の所にやってくる者たちの事を考えると、何も言わないで来てしまったのは、非常に不味いかもしれない。
「・・・拓ちゃん・・・怒ってる？」
溜め息を漏らした拓を目敏く見つけた千冬が、困ったように問いかけると、拓は慌てて首を横に振った。
「あっ・・・ううん？！ただ・・・皆に言ってこなかったから・・・」
「――約束でも？」
「・・・そうじゃないけど・・・でも、もう仕方ないから・・・」
そう言って笑う拓の顔を見て、千冬の表情が曇る。
「ゴメン・・・折角の夏休みなのに・・・」
そうして素直に誤る千冬に、拓の方が面食らってしまった。
「そんなっ 別に・・・大した用なんてどうせないし・・・だから・・・気にしないで・・？！」
慌てて出た言葉は、本当の事である。
そう・・・別に拓の方から何かを約束した事など・・・滅多にないのだ。
いつも一方的に誘い出されて・・・勿論、それが嫌という訳ではないけれども・・・。
必死に言い募る拓の様子に、千冬が麗笑を浮かべる。
「拓ちゃんは・・・優しいネ・・・♪」
「えっ あっ・・・？！」
言葉と同時に、ギュッと抱き込まれてひたすら困ってしまう。
「ダイジョーブだよ・・・誰が何て言おーが、オレが守っちゃうから。」
クスクスと笑って告げる言葉が、真実なのだろう事を、既に知っている拓にとっては、それは笑い事では済まされない事であった。
「は・・はは・・・」
だが、この場で拓が千冬に対して何かを言える筈もなく・・・ただ困った笑みを浮かべる事しかできなくて・・・。
その間も、車内の出来事に少しも動揺しない運転手付きのベンツは、一路空港に向かって走り続けていた。
新東京国際空港・・・別名『羽田空港』。
出発ロビーの前で車から降りると、千冬は拓を椅子に座らせたまま歩いて行ってしまった。
流石に夏休みに入っているので、空港内も旅行に出掛ける人たちで一杯だった。
ふと、目を向けた先には、飛行機のキャンセル待ちの列まであって・・・こんな状態でちゃんとチケットが買えるのか、不安になってしまう。
「お待たせ。」
だが、５分もしない内に戻ってきた千冬の手の中には、ちゃんと二枚のチケットがあった。
「ちゃんと買えたんだ・・・」
ホッとしたように言う拓に、千冬が不思議そうな表情となる。
「どうして？」
「あっ・・・だって、何かキャンセル待ちの人がいるみたいだから・・・あれって・・別の飛行機だったんだ・・・」
ほらっと指さす拓の先を見やって、ふーんと頷いた千冬は、少しだけ唇を持ち上げた。
「あれは一般席の待ちだろ・・・オレ等が座るのは、スーパーシート。行こう、拓ちゃん。」
笑いながら告げられた言葉に、拓は何とも言えない表情をする。
困った事に、ここにも金銭感覚が常識とは、ずれている者がいたのだ。
それでも、そういう者たちに、自分の常識を説明したとて、決して理解などしてくれない事を嫌とい程知っている拓は、ただ黙って後を付いていくだけだ。
この旅行で、一体どれだけのお金をつかうのだろうか・・・と危惧しながら・・・。
フライトから二時間後・・・二人は長崎空港に着いていた。
「ここから車で二時間くらいかかるけど・・・疲れたなら、少し休んで行こうか？」
長時間乗物に乗っていたので、少し酔った拓を気にして千冬が携帯を取り出した。
「・・・志乃です。今、長崎空港です。疲れたので、本日はこちらで宿を取ります。そちらには明日の夜に戻ります。滞在中は離れを使いますので用意しておいて下さい。御館様には、着いてからご挨拶に参ります。では・・・」
番号を押して、そう告げるとそのまま切ってしまう。
「千冬さん・・ボク・・・別に・・・」
「良いんだ。余りあの場所には居たくないし・・・それより、何か食べたい物ある？」
自分の所為で行動を変更されるのが嫌なので、大丈夫だと告げるが、それは呆気なく却下されてしまったらしい。
続けられた質問に、一瞬考えてから・・・特にこれと言った物がない拓は、首を横に降る。
「名物とかあったら食べてみたいけど・・・良く理解らないから・・・」
そのまま小さく告げる拓に、千冬はフフッと笑みを零した。
「うーん・・・長崎チャンポンっていうのも芸がなしい・・・まっ、取り合えず日本料理という事で・・・知り合いの店があるんだ。味の方も保証するから・・・」
預けていた荷物を受け取ってから、千冬はゲートに向けて歩きだす。
そうして、迎えにきていた車に乗り込んだ。
――それは、拓の長崎に於ける、長い旅の第一歩でもあった。
「これはこれは・・・島原の・・・」
店の中に入った途端に、いそいそと側にやってきた人に千冬は軽く会釈をした。
「お久しぶりです。御館様に呼ばれまして・・今日は、長崎の方に泊まるのですが・・・こちらの味を堪能して貰おうと思いまして・・・」
にっこりと微笑を浮かべたまま、さり気なく拓の存在を誇示する。
「そりゃ、もう“志乃”様の為なら腕に縒りをかけまして・・・長崎の味を十分堪能してって下さい・・・」
ニコニコと満面笑顔の店の人に促されて、店の奥間に入っていく。
見事な日本庭園を見渡せる渡り廊下を渡って、格式の高い和室に案内された時には、本気で拓は廻れ右をして帰りたくなったものだった。
「ちっ・・・千冬さん？！こっ・・・ここって・・一体・・・」
半ば半べそ状態の拓は、何処までも一般人である。
確かに、長崎の味を知りたいとは思ったが・・・想像を越えた場所では遠慮したいものだ。
「あぁ・・・ウチのババァの知り合いの店。長崎でも屈指の店らしいけど・・・確かに味は良いんだ。拓ちゃんにも気に入って貰えると嬉しいな♪」
拓の心境など少しも知らずに、ノホホンと告げられる言葉に、ますます肩ががっくりと落ちる。
そういう問題ではないのだ、この場合。
これだけの店なのだから、勿論味も超一流だろう。
そうして、勿論お値段だってそれ相当の金額になるに違いない。
たかが高校生の分際で、立ち入ってはいけない店だと思うのは、拓だけなのであろうか？
「ボク・・・そんなにお金持ってきて・・・ないから・・・・」
困ったように告げる拓に、途端に千冬は瞳を見開いて驚いた顔つきとなった。
そうして、クククッと小さく笑い始める。
「千冬さん ？！」
ますます泣きそうな表情となる拓に、漸く笑みを抑えてから、千冬は悪戯っぽい瞳で拓を見つめた。
「キスしてくれたら・・・オレが払ってあげるよ☆」
クスッと笑って告げられた危ない台詞に、一瞬息が止まる。
そうくるかっ ？！と思いながらも、既に身体は逃げの状態に入っている。
そんな拓の様子に、千冬は今度こそ爆笑した。
「・・・冗談・・だってば・・・ゴメンゴメン・・・」
完全に泣きが入った拓の涙に、やっと笑いを止めた千冬が謝る。
「ホント、拓ちゃんて可愛いなぁ・・・オレが誘ったのに、お金出させる筈ないだろ。オレが無理にお願いしたんだから・・・今回の旅行で拓ちゃんがお金を使う事はないよ。どうしてもって言うんなら、お土産ぐらいは自分で買うとイイ。」
少しだけ真面目な顔で続けた千冬に、拓は涙も止まる程驚いた。
「えっ だって、それじゃあ・・・」
「良いんだよ・・・大変な事をお願いしてるのに・・・これぐらいしかできなくて困ってるぐらいだし・・・」
「そんな事・・・！」
千冬の言葉に、フルフルと首を横に降る拓に・・・艶やかな微笑が浮かぶ。
「嬉しいんだ・・・拓ちゃんに嫌われなくて・・・こうして、一緒にいられて・・・」
ソッと握り締められた右手に、一瞬ドキッとしたが・・・それを振りほどく事はできなかった。
「――失礼します・・・」
スッと襖が開いて、料理が運ばれてきたので、拓の右手も開放されたが・・・その一瞬、触れた唇の感触に、痺れが走った気がした。
流石に、料理はとても美味しかったが・・・主人の説明してくれた言葉は、拓にはさっぱり理解らなかった。
方言によって言葉が違う事もあるが、有明海でしか取れない種類の魚とかも料理の材料に使っているという事ぐらいしか理解できなかった。
「美味しい？」
だが、にっこりと微笑って千冬に聞かれれば、こっくりと頷くぐらいの余裕はまだ残っている。
テーブル一杯に次々に出される料理には、流石に最後の方ではウンザリしてしまったが・・・。
千冬が止めなければ、際限なく出され続けただろう量には、千冬も呆れたようだった。
「全く、加減ていう言葉を知らないのかっ もう少し食べたいと思わせるのが、旨い料理の神髄な筈なのに・・・腹一杯じゃ、どんな旨い料理では不味くなっちまうのに・・・」
口直しに持ってこさせたメロンをフォークでグサグサと刺しながら、千冬はそう呟いた。
「でも、とても美味しかったよ・・・」
「―拓ちゃんがそう言うなら良いけど・・・」
刺し続けていたフォークを漸く指先から離すと、千冬はスッと立ち上がって、障子をガラリと開け放した。
途端に、ガラス越しに見事な庭が一望できた。
コポコポとお茶を入れた拓が、二人分の湯飲みを持って千冬の側に座った。
「凄い庭だね・・・」
「ありがとう・・・」
ハイッと持っていた湯飲みを渡しながら、拓も庭が見える場所に座る。
暫しの沈黙・・・。
暫くすると、カコーンという音が辺りに響き渡った。
「実家もね・・・こんな感じなんだ。とにかく古い家だから・・・。」
ポツリと呟く千冬に、拓はクスッと笑う。
「のんびりできて良いね。」
「――拓ちゃんなら、そう言ってくれると思った。」
そうして、二人して顔を見合わせて笑い合う。
穏やかな時間が、流れていった。
軽い振動が、ゆっくりと止まる。
「着いたよ、拓ちゃん。」
そっと揺すり起こされて・・・拓は自分が眠ってしまっていたのだという事に気づいた。
「まだ、眠いなら、抱いていこうか？」
耳許でソッと囁かれて、パッチリと目覚める。
そうして、自分の現在の状態にもう一度意識を失いかけてしまった。
「ごっ・・・ゴメン？！」
いつの間に眠ってしまったのか理解らなかったが、どうやら千冬のひざ枕でぐっすりだったらしい状態に、真っ赤になってしまう。
「お・・・重かった？」
「ううん・・・ちっとも♪とっても可愛かったよ、寝顔☆」
慌てて照れ隠しで告げた言葉に、更に衝撃的な事を言われて、顔から火を吹きそうだった。
これでは、正しくあの『龍神』を相手にしているようなものだ。
お金に対して無頓着な所と言い、余り物事を深く考えない性格といい・・・自分の気持ちに正直な所までも・・・。
姿・形は似ていなくても・・・その性質や・根本的な性格が、妙に酷似している気がしてならないのは、拓の気の所為だけではないような気がした。
「ここは・・・？」
車から降りて辺りを見回した拓は、目の前に立つ巨大な建物に目を奪われた。
中世のヨーロッパ風な建物には、二つの大きな時計が着いていた。
一つは普段使っている日時計で、現在の時間を示していたが・・・もう一つは何を示しているのか拓には理解らなかった。
「ハウステンボスだよ。折角長崎に来たんだから・・・少し遊んで行こう。尤も、今日はもう遅いから、このホテルに泊まって・・・」
「ホテル？これが・・・？」
千冬の説明に、拓はもう一度マジマジと建物を見つめてしまう。
ここまでくるともう、想像が追いつかない所か、未知との遭遇とも言えるだろう。
事有るごとに驚愕と衝撃の連続で・・・無事に横浜に帰れるのだろうかと、非常に不安になってしまった。
「そう・・・ハウステンボスＪＲ全日空ホテル。本当は中のホテルヨーロッパに泊まりたかったけど・・・今夜はどうしても空けられないっていうからさ。」
「はぁ・・・？」
相槌とも溜め息ともとれない気の抜けた声が、拓の口から溢れる。
こうなったらもう・・・どうにでもなれ・・・という心境である。
入口から中に入って、フロントに合図すると、ボーイが荷物を持って部屋まで案内してくれた。
そうして、辿り着いた部屋は、これまた豪華で・・・思わず拓は開いた口が塞がらない状態である。
「結構、良い状態だ。」
取り合えず、千冬も部屋を気に入ったらしい。
広々としたツインルームは、優雅な装いを誇っており十分ゆったりできる作りになっていた。
「今日は、お疲れ様。先にお風呂にする？それとも少し横になってる？」
ボーッとしている拓に向かって尋ねる千冬に、拓は漸く意識を手元に取り戻した。
「あー・・えっと・・・千冬さんは・・・？」
良く考えると、暑い中を一日中行動していたので、結構汗ばんでいたのだ。
ラフな格好をしている拓でさえ暑いのだから、結構きっちりとしたスーツを着込んでいる千冬は、もっと気持ち悪いだろうと思って拓が聞き返すと、千冬はきっちりと結わかれていた髪をばらしている所だった。
フワリとした髪が、辺りに広がって、一瞬拓はドキリとしてしまう。
「オレ・・・？後で良いよ・・・それとも、一緒に入る？」
拓の視線に気づいた千冬がクスクスと笑みを零しながら、悪戯っぽく返す。
「えっ・・・遠慮しま・・すっ？！」
真っ赤になった拓は慌ててブンブンと頭を横に振って、固まってしまう。
そんな拓に千冬はますます笑みを深くしながら、小さく頷いた。
「お先にドーゾ。オレもね・・・ちょっと電話したいトコがあるし・・・。」
「・・・うん・・・。」
艶やかな微笑で言われた言葉に、拓は素直に頷いて・・・荷物の中から新しい着替えを取り出した。
「じゃあ、お先に・・・。」
小さく呟いて、そのままシャワールームへと入っていった。
そんな拓を笑顔で見送ってから、千冬はガラリと表情を変えると、胸ポケットから取り出した携帯の番号を押していく。
ルルル・・・と小さく呼び出し音が響いた後で、相手が出る。
「あぁ・・・私だ・・・。そっちの様子は？八尋はどうしてる？」
短い問い掛けの後、相手の返答を聞き入る。
「そうか・・・分かった。ミズキ。どうしても隠し切れなくなったら、親の実家に帰ったと告げれば良い。どうせ、渉には理解らない。それより、『横浜』の連中が動くだろうから・・・」
幾つかの指示をして、相手の了承の言葉を受け止めて頷く。
その後、相手に問われた質問に、千冬は実に艶やかな凄味のある麗笑を浮かべて見せた。
「――とても、“幸福”せだよ。一緒にいる一分一秒がとても大切に感じられるぐらい・・・」
フフフと溢れ落ちる笑みは、作られたものではなく自然に溢れるもので。
「・・・また、連絡する。」
そう言って、千冬は通信を切った。
九州のこの地に邪魔な者は、何処にもいないのだ。
誰にも邪魔される事なく、愛しい者と二人っきりで旅行しているという事実に、笑みを抑える事など無理であった。
最初は、単なる興味から始まった関係だったというのに・・・いつしか、『龍神』以上に気になる存在となってしまった相手。
自分の中に流れている血脈の奥底に秘められた、古き血の因縁が、拓の中に秘められた『龍珠』の輝きに惹きつけられて仕方ない。
あの『龍神』が選んだ、最上級の“存在”。
恐ろしく甘くて芳醇な血の味を知ってしまったからは、更に渇望が激しくなる一方で。
だが、その反面・・・嫌われる事が何よりも恐ろしくなってしまった・・・。
『荒ぶれ神』を守護に持っている八尋の側で、血を求めていた自分は、決してそんな感情を持った事などなかった。
誰にも束縛されず・・・自由きままに、やりたい事をやってきた。
なのに、拓に関してだけは、どんな事もしてやりたくなってしまうのだ。
その存在を側に感じられるというのならば。
それは、非常に不可解な“想い”でもあったが・・。
「・・・お待たせ・・・」
カチャッとドアが開いて、中から湯上がりの拓が現れる。
その姿を見た瞬間に、千冬の脳裏にそれが、酷く強烈に焼きついた。
ほんのりと上気した頬・・・艶やかな口元・・・汚れの落ちた柔らかそうな肌。
グラグラと理性が砕けそうな非常にやばい状態に、千冬は困ったように口元を持ち上げた。
「冷蔵庫の中に飲み物が入っているから、何かお腹がすいたらルームサービスを呼んでも良いからネ♪」
用意しておいた着替えと、ポーチを持ってそれだけを告げると、なるべく拓の方に視線を向けないでシャワールームへと逃げ込んだ。
カチャンとドアを閉めてから・・・フゥッと吐息を漏らす。
まだ旅は始まったばかりなのだ。
目先の欲望に溺れて、この先の楽しみを逃す気はないというのに、先程の情景はまさしく拷問のようなものだった。
拓に対する千冬の感情は、そんな純粋な、生易しい“想い”ではないのだから。
熱くなりかけの身体全体に、冷たい水を被せて、火照りを静める。
きつい日差しに、水分を奪われていた身体が、冷水に喜んでいるようだ。
透き通るような青白い肌が、更に輝きをましていく。
均整の取れた身体は、余分な肉も筋肉もついておらず、すらりとした細身である。
備付けのシャンプーとリンスで、頭を洗ってから、ボデイソープを手にとって全身を泡だらけにする。
頭からシャワーを浴びて、全て洗い流すと、艶やかな肌が現れた。
男とも女ともつかない・・・性がないような・・・それでいてそこはかない色気が漂う妖しい肢体。
無造作にバスタオルを手に取ると、気だるげに水分を拭っていく。
バスローブを羽織ると、濡れて艶やかな輝きを発する髪の水分をこちらは丁寧に拭き取った。
ポーチの中から、コンデショナーを取り出すと、生渇きの髪に振りかけて・・・ブラッシングする。
何度も何度も丁寧に髪を梳くのは、それだけ大事なものだから。
髪には、霊力が宿っているというのは、あながち嘘じゅない。
だから、千冬は髪を切れないのだ。
力の源なればこそ・・・大切にしなければならない。
勿論染めたり、ウェーブをかけたりするのは、綺麗になる為と、ささやかな反抗だったりするが・・・。
サラサラとした綺麗な髪がいきいきと流れて、背中を滑る。
それに漸く満足してから、千冬はシャワールームを出た。
「―拓ちゃん？」
何の音もせずに、シンと静まり返った部屋の中で、拓の気がしないので千冬は慌てて視線を巡らす。
まさか、何処かに行ってしまったのでは？との危惧は、ソファーにあった姿に安堵に取って代わった。
どうやら、待ちくたびれて寝てしまったらしく・・・あどけない寝顔がソファーの腕に乗っていた。
その安らかな寝顔に、千冬の口元が綻ぶ。
テーブルの上には、二つのグラスがカラのまま置かれていた。
千冬の事を待っていたのだという事も理解って、更に愛しくなってしまう。
「困ったな・・・」
どうしようもない程に、惹かれてしまっている自分を悟り、千冬は苦笑を浮かべた。
眠りについている拓を起こさないように、ソッと持ち上げて・・・ベットまで運ぶ。
余程疲れているのか、拓は全く目を覚ます様子はなかった。
「全く・・・あんまり無防備だと、食べちゃうゾ・・・」
小さく笑みを浮かべて、その頬に口付ける。
スッと身体を離した千冬は、乾いた喉を潤す為に、冷蔵庫の中からビールを取り出した。
アルコールでも飲まなくては、どうやら寝られそうもなかった。
グラスについでは次々と飲み干して、一本をあっと言う間にカラにすると・・・ゆっくりとベットまで残る。
自分の方のベットに入ろうとして一瞬動作が止まる。
途端に思いついた事にクスリと悪戯っぽく笑うと、そのまま千冬は拓の眠っているベットにもぐり込んだ。
眠りに就いている拓の温もりが、千冬の身体に伝わって・・・ドキドキした。
「おやすみ・・・拓ちゃん♪」
ソッとその唇を摘まみ取ると、そのまま拓を抱き抱えるようにして、千冬も瞳を閉じた。
明日の朝・・・目覚めた拓がどんな表情を浮かべるのかを楽しみに思いながら・・・。
きっと、信じられないという表情で、大きな瞳を更にまん丸に開いて千冬を見た次の瞬間、食べてしまいたいぐらい真っ赤に熟して半泣きになるだろう。
そんな様子が、今から想い起こせて、瞼を閉じたまま千冬はほんの密かに微笑を浮かべていた。
こうして、二人にとっての長崎の第一日目が、漸く終りを告げたのであった―――。
続く。 / 戻る |