|
不意打ち
蛇に睨まれた蛙状態というのは、こういう事を言うのかもしれない・・・。
そう、彼はその時そう思った。
いや、正確に言うのならば、龍に睨まれたと言った方が良いのかもしれないが・・・。
場所は人気のない校舎裏。
彼−浅川拓は恐怖と出会ってしまったのであった。
「・・・お前・・・」
足が竦んで動けなくなってしまった拓に向かって、その人物は低い声で威圧するように音を零した。
途端に拓のあまり大きいとは言えない身体がビクリと震える。
大きな瞳が、更に見開かれて、その人物を写し出す。
一学年上の・・・『朧童幽霊』の初代総長−榊龍也の姿を。
初対面の時から散々な目に遇っている拓には、はっきり言ってあの『魍魎』の武丸と同じくらい鬼門なのであった。
なのに・・・何故、こんな場所で会ってしまうのか？
昔から、いじめられっこではあるが・・・これは余りにも神様の残酷な仕打ちかもしれない・・・と、拓は少しだけ目尻に涙を浮かべてしまう。
それがまた、相手の残虐意識を引き出すとは、露とも知らない拓は、その鈍い性格故に、彼の横浜最強のチームのヘッドである人物の熱い想いにすら、気付かないのであった。
自分が一方的に憧れているだけだと、卑下しているのだから・・・これまたお笑いなのであるが・・・。
取り敢えず、この場は、笑い事ではない。
何しろ、拓はれ歴とした高校デビュー生なのである。
しかも、強くなりたいと、進んでこの凶悪な世界に足を突っ込んでから・・・（否、最初はこんな世界とは思いもしなかったのだが）あれよあれよと言う間に、不幸な人間関係（泥沼とも言う）によって多大な期待と誤解と幸（悪？）運でここまできてしまっただけで・・・本人の意志はこれっぽっちも動いていないのだから、これはもう持って生まれた性分としか言いようがない。
目の前の人物は、目線だけで相手を脅えさせられるという説話まであるのだから。
「――――何でここにいやがる・・・。」
地の底から響くような無茶苦茶機嫌の悪そうな声に、膝が震える。
だが、その恐ろしい視線を真っ直ぐに見返して、拓はキッと龍也を見つめ返した。
“目を逸らした奴は、最初っから負け犬だ。男なら、相手を睨みつけて気合を込めなきゃな。”
諭すように教えてくれた彼の人の言葉が、脳裏に浮かんで、精一杯の意地でそれを実行してしまう辺り、やはり健気というしかあるまい。
それでも、強張ってしまった舌では、言葉を発するのは不可能だった。
沈黙が流れる。
不思議な事に、龍也は拓に対して何の行動も取らなかった。
ただ互いに対峙したまま、時が過ぎる。
普段慣れない気合を込めているので、頭に血が上って行くに連れて、呼吸困難と共に他の顔が赤く染まっていく。
その、まるで今にも泣き出しそうな赤ん坊みたいな表情に、先に視線を外したのは龍也の方だった。
左頬の脇に刻み込まれた傷を、一瞬辿るように触れてから、フッと口元を歪める。
「・・・フッ・・・無茶苦茶な小僧（チビ）だぜ。」
そのままクルリと背を向けて、龍也は歩いて行ってしまう。
その姿が見えなくなった途端に、今まで我慢していた涙が、ホッとして零れてしまい・・・拓はゴシゴシと無造作にそれを拭った。
「・・・こっ・・・怖かったぁ・・・・」
ヘナヘナとその場所に膝をついて、そうして片手を突っ込んでいたポケットから取り出す。
ギュッと握り締めたその中に、白いものが霹く。
強張る指をそっと開くと、それはハチマキだった。
中央に書かれている文字は−『外道』。
拓が初めて強く憧れた彼から貰ったものである。
これと、『強くなる為の心得』が書いてある手作り（これがまたらしくないと言えば、らしくない物であるが）の手帳は、拓の宝物なのでもある。
「秀人くん・・・」
負けなかったよ、僕・・・♪と感慨に耽っている拓には、龍也があんまりにも馬鹿らしくて、そんな気も起きなかったのだという事は理解できる筈もない。
第一、勝つ・負ける以前の問題ではなかろうか？
ハチマキを握り締めて、座り込んでいる拓の心の中は既に彼の者の事で一杯である。
見上げた空に、彼の者の顔まで浮かんできたら、もう病気であろう。
全く同じ病気を持っている彼の者と、やはりお似合いかもしれない。
類は友を呼ぶとは良く言ったものだ。
恐怖の体験を続けていると鈍くなるというのは、ここいら辺から、くるのだろうか。
風が吹き抜ける。
「わっ・・・」
突風が、下から舞い上がった。
「・・・拓ちゃーんっ！」
真上から声が降って来て、拓は思わず上を振り返る。
逆光で顔が見えないが、金髪が光りに透けて光っているので、その人物を拓は理解した。
「マー坊くん！」
「何やってんのぉ？早く上がっておいでよぉ♪」
にこやかな声に、拓は手を振って応えようとして、握っていたハチマキにギクリとしてしまう。
慌ててポケットに手を突っ込んで誤魔化すと、上に向かって笑顔を見せる。
「−今行くよ、マー坊くん！」
「席、とっとくからね！？」
「マー坊待たすなよっ！！そっから、根性で上がってこいっ！」
『爆音小僧』のヘッドである鮎川真里もまた、何故か拓をお気に入りとしている一人である。
尤も、そのお陰で、対立している先程の『朧童幽霊』の龍也とは犬猿の仲であり、そのとばっちりを食っているのだ。
真里の隣の窓から顔を出して怒鳴ったのは、何かにつけて拓よりも上の位置に立とうとする姫小路良だった。
その無茶苦茶な物言いに、困った表情を浮かべながら、拓は走りだす。
全力疾走と化したのは、続けられた真里の言葉のせいだ。
「早くこないと、俺が飛び降りちゃうからね☆」
いくら真里が人外魔境とはいえ、三階から目の前に飛び降りられるというのは、はっきり言って精神上とっても良くない気がする。
トロトロしてたら、本当にしてしまうことが、ここ最近の付き合いから十分理解している拓にとっては、それは冗談ではないのだ。
ならば、走るしかないだろう。
〔・・・もうっ・・・勘弁してよぉ・・・〕
一難去ってまた一難・・・。
拓が心休まる時は本当にくるのであろうか？
風の向きが、また変わった。
北から吹き付ける風が、嵐の予感を含んでいる。
渡り廊下の端の、陰となる部分で立ち止まっていた龍也が、視線を流す。
睨むというよりは、凝視されたと言った方が相応しいあの真っ直ぐな眼差しが、記憶の奥底に静めた筈の瞳を思い出させた。
別に何処が似ているという訳でもないのだが・・・。
小さく沸き上がる痛みが、胸を焦がす。
再びあの瞳に会えるとは思っていなかっただけに・・・怒りよりも衝撃が走った。
自分を睨んだ者を、許した事などなかったのに、余りにも真っ直ぐ過ぎる視線が、失ってしまった記憶を呼び覚ましてしまった。
「・・・浅川、拓・・・か。」
小さく呟かれた言葉が、風に運ばれる。
何かが起こりそうな、そんな緊迫した空気が張り詰めていく。
「龍也、さんっ！」
龍也の姿を見つけた連中が走ってくる。
それを一瞥すると、龍也はゆっくりと歩き出した。
「行くぞっ！」
短い−命令。
『朧童幽霊』としての・・・自分がここにいるのなら、時が戻る事は−ない。
それが、誓い。
あの時、最高の走り屋だった彼の人が、誰も追いつけない伝説となってしまった時から・・・。
龍也は、それを認めさせる程の奴が現れるのをずっと待っているのだ。
誰にも言わない・・・それが龍也の自分自身への誓いでもあった。
歩きながら、拓の真っ直ぐな眼差しを思い出して・・・龍也は気付かないままに微笑を浮かべていた。
―――拓にとって新しい厄介事が増えそうな・・・そんな気配が乱校内に漂っていた。
ｅｎｄ． ／ 戻る |