それは、今年最後の奇跡。

「・・・ヒロシちゃん？」
新しい年を迎えようとする喧騒の街中。
年越しの準備の為にいつもの店が早く終わってしまい、忙しそうにしていたのは、そば屋ぐらいで・・・。
家に居るのが嫌でふらりと出てきて、街中を彷徨うように歩いてた時に、不意に背後から掛けられた声。
「・・・拓ちゃん？」
クルリと振り向けば、両手に袋を下げた小さな身体が、人波の中から飛び出してきたようにヒロシの目には映った。
「うん！ヒロシちゃんも買い物？」
側に寄ってきた拓が、柔らかな笑みを浮かべる。
一週間ぶりに見るその姿は、全く変わらないけれど、何だかやけに目に焼付く。
「―――ん、ちょっとな。」
真っ直ぐに見つめてくる大きな瞳を直視できなくて、ヒロシは言葉を濁す。
本当は何もする事が無いから街中をブラブラしていたなんて、しかもつい先程まで八つ当たり対象を探していたなんて・・・拓に言える筈も無くて。
だが、何の袋も持ってなくて、ポケットに手を突っ込んだまま告げるヒロシの姿が、実は言葉以上に物語っていた。
「キヨシくんは？」
ほんの少しだけ小首を傾げて問う拓に、今度こそヒロシは言葉を失って息を詰まらせた。

些細な言い争い。
切っ掛けは一本の電話。
正月ぐらい家に顔を出せとキヨシに掛かってきたそれに、キヨシが気まずそうにヒロシを見て帰らないと言った事が原因だ。
わざわざ電話をしてきたんだから、顔を見せに帰れと言ったヒロシと、面倒くせーから帰らないと言い張るキヨシの間で、いつの間にか口喧嘩は取っ組み合いの喧嘩になっていた。
お互いに引けないから決着もつかなくて。
じゃあ俺も帰るから手前も帰れ―――と吐き捨てて、家を飛び出してきた。
ヒロシには帰る場所などないのに。
本当に帰れる場所があるのなら、最初っからキヨシと一緒に住む筈も無い。
キヨシもそれが理解っているから、帰らないと言った事も理解っている。
理解っているが・・・それは、ヒロシにとっては重荷にしかならない。
出会った時には、互いに相手が気に食わなくて大喧嘩した。
拳を交えて、互角だとして認めて、話してみたら妙に気が合って、気付けばつるむ様になって・・・中学卒業と同時に働き出したヒロシが一人暮らしを始める事を知ったキヨシが、部屋に転がり込んできて・・・。
朝から晩まで一緒に居ても、苦にならない相手。
拓と再会するまで、キヨシはたった一人の親友だった。
それこそ、家族なんかよりずっと近い存在みたいなもので。
拓に対する気持ちとは全然違うけれど、それでも大事な相手。
だからこそ、帰れる場所があるのに、自分を慮って気を遣うキヨシの行動が水臭くて、悔しくて・・・腹が立ったのだ。
「そっか・・・。」
あんまりにも腹が立ったから、キヨシの悪態を思いつく限りに口にしたヒロシに向かって、拓は少し困ったように苦笑していた。
そうして、本の少しだけ目線を落とした。
「拓ちゃん？」
「―――ヒロシちゃんは、キヨシくんが本当に好きなんだ・・・」
拓の小さく動いた唇からポツリと零れ落ちた爆弾発言に、ヒロシが持っていた、飲みかけ途中の缶コーヒーが、その手の中でグシャと潰れた。
因みに、ヒロシが飲んでいたのはアルミ缶ではなくてスチール缶だったのだが、馬鹿力の前では余り違いはないらしい。
ボタボタと指の間からコーヒーを零しているのに、ヒロシは驚愕の表情を浮かべたまま瞠目している。
余りにも想定外の拓の言葉だっただけに、ヒロシの受けたダメージも半端じゃなかった。
「良いなぁ・・・」
更にボソリと呟く拓の脳内で、自分たちの関係がどうなっているのかがとっても怖い。
聞くのも知るのも問うのも怖いが、覆さないとどんどん恐ろしい方向へと進んでしまいそうなので、ヒロシはギクシャクとした動作で拓に向き直った。
「・・・た・・・拓ちゃ、ん？」
「ん？何、ヒロシちゃん。」
自分がどれだけ衝撃的な事を言ったのか全く理解していない拓は、キョトンとヒロシを見返す。
これが拓じゃなかったら、ここまでのダメージは無かったし、相手はヒロシの拳によって地に伏している所なのだが・・・。
如何せん、この幼馴染には勝てない。
昔っから意地っ張りで捻くれ者で、ガキ大将だった自分は周りに敬遠されていた。
嫌われていた事も知っていた。
それでも、拓だけはいつも傍に居た。
どちらかというと子分みたいに扱っていたのに、それでもニコニコと馬鹿みたいに後をくっ付いてきた。
ドジで愚図で、要領が悪くて・・・でも、何でも一生懸命で、誰よりも優しかった。
更にひねくれに磨きがかかって悪評ばかりの自分と違って、あの時のままの状態で大きくなった拓と再会したのは本当に偶然で。
でも、一目で理解ったのは、自分にしては上出来だったと今でも思う。
再会して約一年が経つけれど、会う度に拓は誰かの為に動いていて、その側には絶えず誰かが居て、それでも拓は変わらずに自分を友達だと言い切る。
それが、どれだけ嬉しくて、切ないのか。
拓の言葉は間違っていない。
キヨシの事は嫌いではないし、好きか嫌いかで聞かれれば好きだと答えるだろう。
だけど、それ以上に好きなのは。
―――振り向いて欲しいのは。
「・・・俺、あいつと取っ組み合いの殴り合いしてきたって言ったよな？」
「うん。」
「んで、なんで俺がキヨシを好きな事になんだよ？！」
余りにも理不尽な気がして、ヒロシの語尾が荒れる。
拓相手だから抑えているが、それでも一般人なら裸足で逃げ出す表情で凄んでも、拓は苦笑するだけだ。
そんな拓の肩をガシッと掴むと、やっと拓は目線を上げた。
それから、ホゥッと意味深な溜め息を零す。
「気付いてないんだ・・・ほんと、羨ましいなぁ・・・」
溜め息と共に小さく漏らされた声が、妙に心に残る。
「拓ちゃん？」
「あのね、ヒロシちゃんの話を聞いただけだから、上手く言えないけど・・・ヒロシちゃんは、どうして怒ったの？」
「だから、あのバカが帰らないって言うから・・・」
「じゃあ、どうしてキヨシくんは帰らないって言ったの？」
「―――っ！！」
真っ直ぐに見つめてくる大きな瞳の前では嘘はつけない。
吐きたくない。
だから、ヒロシは言葉を失った。
見る見る内に赤くなるヒロシの顔を見て、拓は破顔した。
「良かったね、ヒロシちゃん。キヨシくんは、ちゃんと、ヒロシちゃんの事理解ってくれるんだ。」
「でも、あいつにはちゃんと帰れる場所があって・・・」
「ヒロシちゃんにもあるでしょ？」
本当に嬉しそうに言う拓に、ヒロシの感情が揺さぶられる。
多分、拓には理解っているのだ、全部。
他人の感情に人一倍敏感な拓だからこそ。
やさぐれて、街を徘徊していた自分は、酷い貌をしていたと思う。
それこそ、誰もが避けて通る様な威圧を放っていた筈だ。
なのに、人込みの中・・・誰もが素通りするような場所で、声を掛けてきた。
用事があって出て来た筈なのに、帰らないで付き合ってくれているのも、ヒロシを心配してくれるからだと、今更ながらに気付いた。
「・・・俺は・・・」
何だか、息苦しい。
ざわついていた街中の喧騒は、こんな街角の隅にまで届かない。
色々な感情が一気に襲ってきて、ヒロシは座っていたガードレールからずり落ちるようにズルズルとしゃがみ込んだ。
そうして、頭を抱え込む。
そんなヒロシを見て、拓がそっとその頭を撫でた。
「ボクの知ってるキヨシくんなら、ヒロシちゃんを待ってるよ。」
言い切る拓以上に、ヒロシの方が理解っている。
だから、帰れないのに。
「―――失くしてから後悔しても遅いんだよ？」
小さな声が、拓の口から零れ落ちる。
その言葉に、ヒロシはハッと顔を上げる。
笑っているのに、何処か泣き出しそうな拓の表情がそこにあった。
「・・・拓ちゃん？」
呆然と聞き返すと、儚げな表情は一瞬で消えて、いつもの困ったような笑顔が顕れる。
「大丈夫だよ！喧嘩するほど仲が良いって言うし・・・お互いが相手の事を思っての喧嘩なら、直ぐ仲直りできるって？ヒロシちゃんが一人で帰りにくいって言うんなら、ボクも一緒にキヨシくんに謝ってあげるから。」
だから、帰ろう？・・・言外に言葉にならない気持ちが含まれる。
聞こえる筈の無い泣き声が何処かから聞こえてきそうで、ヒロシはしかめっ面になった。
捻くれた心が、今更素直になれなくて。
ガキだとは理解ってる。
手に入らない物にばかり躍起になって、気付けば全てを失くして途方に暮れる事も一杯ある。
どうしようもない現実を散々押し付けられてきた自分が、それでも失わなかった自尊心は、ちょっとやそっとじゃ自分の間違いを認められない程意固地に凝り固まってしまっているのだ。
「―――俺は、悪くねぇぞ！だから、帰らねー！も、いっから、拓ちゃん帰れよ。親が心配してっぞ。」
口にしてから、しまったと感じた。
目の前の拓の顔が、酷く傷付いた表情を浮かべたからだ。
散々愚痴を零して、優しく慰めてくれた相手に対して酷い事を言ってしまった自覚はある。
だが、これ以上情けない所を拓に見られたくもない。
「でも・・・ヒロシちゃん・・・」
零れ落ちた声が震えている。
これ以上ここにいたら、本当に取り返しのつかない事を言ってしまいそうで、ヒロシはグッと唇を噛み締めた。
余りにも強く拳を握りしめたから、爪が掌に食い込んで痛んだ。
そんなヒロシの手を、拓が掴む。
驚いて顔を上げると、目の前には真摯な目付きの拓が真剣な顔でヒロシを見詰めていた。
その思いつめたような顔に、記憶が蘇える。
他人の為に動く時に現れるその貌は、拓が決意した時。
滅多に見せないその表情を、自分に対して浮かべた拓の真意が理解らなくて、ヒロシは動けなくなる。
「だ・・・誰も悪くなんかないよっ！だって、ヒロシちゃんはキヨシくんの事を思って帰れって言ったんだし、キヨシくんはヒロシちゃんの為に帰らないって決めたんでしょう？でも、それが互いに理解ってるのに、自分の言ってる事を聞いてくれないから喧嘩になっちゃっただけで・・・」
少し強い口調で、拓は唇を開いて言葉を発する。
「それって、お互いが大事な親友だからそう思ったんだよね？だったら、ちゃんと話さなきゃダメなんだ！思ってる事はちゃんと口にしないと、伝わらないまま終わっちゃう事もあるんだよ？！もっと一杯話せば良かったって・・・後で後悔しても・・・駄目なんだから・・・」
喋っている内に、どんどん拓の眉が顰められて辛そうな表情は、慟哭を漏らした。
大きな瞳に見る見る内に雫が溜まって、ポタポタと零れ落ちた。
ギュッとヒロシの拳を一回り小さな手で握って、告げられた『言葉（おもい）』。
自分の傷を抉りながらも、ヒロシの為に吐き出されたその心情を考えて、ヒロシは今度こそ思いっきり殴られた様な気分になった。
言わせてはいけない事まで言わせちまった・・・そんな苦い気持ちがヒロシの全身を痛め付ける。
今の自分は諸刃の剣だ。
内側にも外側にも刃は向けられていて、相手を傷付けて自分も傷付いて。
「・・・ふふ・・・なんて、ボクも偉そうな事言えないね・・・」
ヒロシの拳を握ってる反対の手で涙を拭いながら、拓はハァッと吐息を零すようにそう言った。
「二人ともボクの大切な友達で、いつも助けて貰ってばっかりだから、何かしてあげられたらなって・・・そう思ってたんだけど・・・」
拳に添えられた手が、一瞬だけ強く握られてスッと離れた。
「―――ね、ヒロシちゃん。ボク、ちょっとは役に立った？」
柔らかな声で、拓はヒロシにそう尋ねる。
そうして、まだ俯いてしゃがんだままのヒロシを抱き込むように抱き締めた。
「ボク、ヒロシちゃんと再会できて、ほんとに良かった。今年最後に、ヒロシちゃんと会えたのも凄く嬉しかった。いつも一杯助けてくれてありがとう。あの・・・来年も宜しくね。」
耳元で囁くように告げられたのは、感謝の言葉。
そして、別れの挨拶も含まれている事にヒロシが気付いた時には、拓の身体はヒロシから離れていた。
「ちゃんと、仲直りしなきゃダメだよ！・・・後は宜しく、キヨシくん。」
立ち上がった拓の、クルリと回った足先しか見ていなかったヒロシは、降ってきた声に酷く動揺した。
そのまま、拓の纏う気が離れていく。
途端に、ゾクリと冬の冷気を感じた。
それだけで、今までどれだけ拓の存在がヒロシの救いだったのかを改めて思い知らされた。
しゃがみ込んだまま、ヒロシは顔を上げられない。
拓の換わりに近付いてきた足先は、余りにも見慣れた物で・・・。
情けなくて、もう顔を上げるのも億劫だった。
「・・・ダメ、だってよ。」
ぼそりと降ってきたのは、機嫌の悪そうな声。
見ていないのに、キヨシがどんな表情でそう言ったのかまで手に取る様に理解って、どうしようもねぇ・・・と脱力した。
しゃがみ込んでいるのも足が痛くて、ヒロシはとうとう地面に座り込んだ。
「―――情けねぇぞ。」
「ウルセー・・・」
呆れたような声に、投げやりに返す。
「いてっ！テメーッ！！」
途端に、ゲインと頭上に拳が落とされる。
強烈な痛みに反射的に顔が上がる。
第二ラウンドも辞さない思いだったのに、その顔を見た途端に怒気が削がれる。
「どっかのバカが財布も持たねぇで、どっかに行っちまうから、まだ飯も食ってねぇ。俺ァ腹減ってんだよ、だあほ。とっとと、帰ってこいっ！」
背けられた顔のまま、ぶっきら棒に告げるその言葉は、キヨシからの譲歩。
本気で怒っているのなら、食い意地の張ったキヨシが飯を我慢する筈もない。
だから、待っていた―――という証。
「・・・だから、家に帰って食えば良いだろっ！」
「あぁ？！」
「滅多にしてこねー電話まで掛けて来たんだぞ？飯ぐらい用意してんだろーがよ・・・」
そっぽを向いてボソボソとヒロシが呟くと、キヨシは一瞬呆気にとられたような顔をして・・・それからニヤッと口端を持ち上げた。
「んじゃ、オメーも行こうぜ！」
工事現場で鉄骨も軽々と持ち上げるバカ力でヒロシの二の腕を掴むと、キヨシは一気に持ち上げた。
「バッ・・・テメー、何言って・・・」
「そっか・・・そーだよな。顔を見せろって言われただけだもんな。泊まれとは言われてねーし・・・オメーと一緒に飯食って帰ってくりゃ良いんだな。」
変な態勢のまま引きずられる形になって泡食うヒロシの動揺もお構いなしに、キヨシはズルズルとヒロシを引き摺りながら良い事を思いついたとでも言うように笑う。
「くっそ、このクマ！離しやがれ・・・！」
「うっせ！あんま煩ェと荷物状態で担ぎ上げんぞっ！」
「フザケンナ、んな事しやがったらぶっ殺す！」
ギャーギャー言い合いながら、互いにもう拳は出ない。
でも、痛い程に掴んでくる腕が、絶対に離さないという気持ちみたいで嬉しいなんて、口が裂けても言えないから、言葉になるのは悪態ばっかりで。
泣きたくなる気持ちは大声で誤魔化した。

ずっと一人だった。
それが当たり前だと思っていた。
誰かと一緒に、年を越せるなんて・・・恋人が出来て結婚して、『家族』ができなきゃ絶対無理だろうと諦めていた。
もっと遥か先の事だと思っていた。
なのに・・・。

“―――ね、ヒロシちゃん。ボク、ちょっとは役に立った？”
脳裏に思い浮かぶのは、柔らかな声と、何処までも優しい姿。

拓が声を掛けてくれなかったら・・・話を聞いてくれなかったらこんな風に認める事なんて絶対しなかった。
意地を張って認めなくて、全部振り払って・・・。
今頃、惨めで情けなくて悔しくて・・・最低な気分のまま何処かで暴れていたかもしれない。
それが、拓と再会するまでの自分だったから。
変えたのは他の誰でもなく。
泣きたくなる位強くて優しい、ヒロシの大事な想い人。
いつだって友達の為に一生懸命な拓だから・・・拓にとってはヒロシも多くの友達の内の一人でしかないけれど。
それでもさし伸ばされる腕と、小さな身体全部で包み込むように与えられる温もり。

「・・・あんがとな、拓ちゃん・・・」
零れ落ちたのは、小さな呟き。
「あぁ？何かいったかー？」
「うっせっ！何も言ってねーよっ！！・・・ったく、いー加減離せ、バカ力！腕折れちまうだろーが！」
聞こえない筈の声を拾うキヨシに、ヒロシは心中が全部バレバレみたいで悔しくなる。
今更感情を取り繕うのもキヨシ相手では馬鹿馬鹿しいだけだと知っているから、ヒロシも言いたい事を口にする。
いつもつるんで、言いたい事言い合って、時には喧嘩して、大暴れして・・・。
気付けば、家族よりも長い時間傍に居る存在。

―――それが、大事な『相棒』。

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※注意※
ここから先のおまけは、上記の話と繋がっていますが、時貞が亡くなっている設定で書いてます。
ヒロシと分かれた後、拓ちゃんが誰と年を越したのかをちょこっとだけ書いてみただけなので、正月早々悲しい気分になるのは嫌なお方はここでお帰り頂いた方が賢明かと思います。
・・・どうしても、天拓になっちゃうのはなんでなんでしょうねぇ・・・（遠い目）

＜オマケ＞

誰もいない静まり返った場所。
街中の喧騒もここまでは届かない。
所々にポツンと立っている街灯だけが唯一の明かりで・・・大凡の者がこんな日のこんな時間に足を踏み入れる所ではない場所。
「・・・本当は、ベイブリッジに行きたかったんだけど・・・ね。」
暗闇の中、ポツリと呟かれたのは小さな響き。
その手に持っているのは、簡易式のライト。
目的の場所まで辿り着くと、そのままライトを足元に置いて座り込む。
眼前にあるのは、物言わぬ墓石。
十字の形を模したそれは、クリスチャンだった彼が、いつも身に着けていた物と同じ形だった。
今は、拓の首に鎖で掛かっている、それ。
「これ、新しいね。誰か来たのかな？ユーリさん？」
側に置かれているのは、先日のクリスマスに拓が置いた物とは違う花束。
時期外れなのに豪華な白ユリの花束は、明るかったらもっと綺麗だろう。
勿論、応える声はない。
それでも、拓は語りかけるように言葉を発する。
「さっきね、ヒロシちゃん達と会ったよ・・・」
もしも誰かが目撃したならば、気が触れていると思われるかもしれない。
誰も居ない深夜の墓場で、独り言を言う危ない者だと認定されても仕方ない。
だが、拓にとってはそんな事はどうでも良い事で。
誰よりも強く激しく拓の心を奪ったまま、居なくなってしまった友達に会いに来ただけなのだから。
一通り喋ってから、ホウッと息を吐き出すと、闇の中に白い吐息が広がる。
少しの沈黙。
破ったのは、港の方から聞こえる汽笛の音。
「あ、」
小さな声が唇から零れる。
そうして、ポケットから取り出した携帯で時間を確認すると、それを閉じてしまい直す。
「年が、変わったよ。時貞くん。」
柔らかな微笑を浮かべて、拓はそっと呟いた。
そのまま、彼の身体が眠っている地に触れる。
氷のように冷たい墓石に少しだけ胸が苦しくて。
「―――君と一緒に、年を越したかったんだ。」
想いを吐露して、拓は微笑った。
出会ってからひと月も立たずに彼は居なくなってしまった。
その間に、彼と拓が出会ったのは本当に数える程しかなくて。
なのに、その強烈な印象は誰よりも強く拓の意識を捉えた。
友達になりたかった。
一緒に話して、遊んで、傍に居て・・・。
自分は孤独だと嘆いていた彼の力になりたかった。
でも、拓は結局何もできないまま。
差し伸べた手が届く前に、彼は逝ってしまったから。
だから、こんなのは拓の自己満足で欺瞞で、優しさでもなんでもない。
目頭が熱くなって、目の前が霞む。
それでも、泣くのはずるい気がするから、拓は必死に唇を噛み締める。
失ってから気付いたものの大きさに傷付いて嘆いて叫んで。
だからと言って、失われたものが返ってくる訳ではないから。
「・・・また、来るね。」
漸く出た震える声で、そう告げる。
笑おうとして、失敗した。
ポタリと雫が落ちてしまった。
一度箍が外れたら、堰を切ったように溢れ出す。
「ああ、もう。止まんない・・・」
涙を拭いながら、拓はそう呟いた。
「ごめ・・・ちょっとだけ・・・」
そのまま墓石に寄り掛かる様に蹲る。
ベイブリッジだったら、ここまで辛くないのに・・・だから、ここにはあんまり来たくないのに・・・。
君がもういない事を思い知らされるだけの場所。
静かな慟哭が辺りの空気を震わせる。
身も凍る様な静謐な場所で、拓の想いが涙となった。

時は帰らない。
気持ちだけを置き去りにしたまま、過ぎ去ってしまう。
だけど、過去にするにはまだ傷は癒えなくて。
今も胸はぽっかりと空いたままで、後悔の念ばかりが心を締め付ける。
どんなに話しかけても、もう届かない相手。
一方通行の想いは、報われない片思いと同じ。
辛くて悲しくて切なくて・・・それでも、思い出だけは鮮やかで。
最期に会った時に魅せてくれた初めての心からの笑顔は、脳裏に焼付いたままだ。

星が瞬く今年最初の刻。
もしも失われていなかったら、友達として過ごせたかもしれない時間。
少しでも願いが・・・想いが届くのなら。
叶わないと理解っているから、こうやって足掻いているのだけれど。
どうしても、願う事は止められない。

港とは反対側の山の方では、何処かの寺の鐘の音が遠く響いている。
漸く気持ちが落ち着いて、涙が止まったから拓は身体を起こした。
寒さに固まってしまった身体が軋む。
ハァツと手に息を吹きかけて、固まってしまった指先を動かす。
ノロノロと立ち上がって、拓は顔を上げた。
泣いた所為で真っ赤になってしまった頬と鼻の頭のまま。

「―――また、来るね。」
今度はちゃんと、微笑って言えた。