一年の内で、大切な日は幾つもあるけれど・・・その中でも一番嬉しいのはやっぱり自分の誕生日だと思う。
親から貰うプレゼントにドキドキしたり、友達に祝ってもらって喜んだり。
でも、何よりも一番嬉しいのは・・・大好きな人と一緒に居られる【時間（とき）】。

「はぁ・・・。」
気分が落ち込んでいる所為か、空の機嫌まで悪くなってきた。
待ち合わせの場所で、約束の時間よりも早く待っていたのに・・・何時まで経っても相手が現れる事はなくて・・・。
１０分後に掛かってきた携帯のメールには、急用で来られなくなったという文字が並んでいた。
ちょっとだけ泣きたくなったのは、それだけ期待してたから。
今日会える事が、嬉しかったから。
でも、逢えなくなって・・・。
膨らんでいた気持ちが、しょんぼりと萎んで―――。
気付けば、夜空も雨模様。
今夜は友達の家に泊まると言って出てきた家に、このまま帰るのも何だか哀しかったけど、仕方がないので歩き出す。
ポツポツと振り出した雨に、公園内を家路に急ぐサラリーマンの姿が視界に映った。
この季節だから、何時降っても良いように鞄の中には折りたたみの傘も入っているけれど・・・それ程酷い降りじゃないし、何だか雨に当たりたい気分だったから、途中まで歩いてから、そのままぼんやりと立ち尽くした。
「あーあ・・・何やってんだろ、僕・・・。」
浮かぶのは自嘲。
早く家に帰れば良いのだ。
友達に用事が出来て泊まりにいけなくなったからと言えば、両親はちゃんと迎えてくれる。
こんな夜に雨に当たっていなくても・・・。
ちょっとだけ唇を噛み締めて、躊躇する。
家に帰れば、ご馳走じゃなくっても、暖かい御飯だって用意してくれるだろう。
でも・・・。
「そうだよね・・・。記念日でも何でもない日だし・・・一回言っただけの言葉なんて、覚えている筈も・・・」
呟きが、震える。
今日の約束が、自分の誕生日を祝ってくれる為のものだとは、一言も言っていなかった。
それを、勝手に勘違いしたのは自分。
それでも・・・。
ポタリ・・・と、地面に雫が落ちる。
雨粒ではない―――零れ落ちた【雫（なみだ）】。

『お前・・・誕生日いつよ？』
『え？僕・・・？えっと・・・梅雨時の７月頭だよ。』
『―――ちっ・・・』
『・・・ちょっ・・・何で、怒るの？！』
不意に尋ねられて、素直に答えたら・・・途端に相手の眉が寄って舌打ちされた。
いきなり不機嫌になったので、思わず尋ね返したら、そっぽを向かれてしまって。
『お前の方が、早いのかよ―――誕生日。・・・気にいらねぇ。』
ムスッと呟かれた言葉に、浮かぶのは苦笑。
『何で、気に入らないのさ？・・・緋咲くんは・・・何時なの？』
『―――１１月。』
その言葉だけで、怒っている理由が分かった。
拓の方が早く生まれているのが、嫌だったらしい。
そう言えば、時貞くんはクリスマスだったなぁ―――と、思い返す。
これで、マー坊くんが５月生まれだと知ったら、どうするのかなぁ・・・などと、無関係な事まで心配してしまって・・・。
『まぁ、良い・・・今年のその日はちゃんと空けとけよ。』
『・・・どうして？』
続けられた言葉の意味が理解らなくて、首を傾げたら、返ってきたのは更に機嫌が悪くなった相貌で。
グイッと強い力で引き寄せられて・・・いきなりキスされた。
『・・・ひ・・・ひ・・・』
顔から火が吹きそうな状態で、呂律が回らない程驚いたのに―――。
恨めしそうに見詰めると、怒っていた筈の表情が、打って変わって優しい笑みだったから、息が詰まる。
時折魅せる不意打ちのようなそれは、自分の意識の全てを奪い取ってしまう事を、彼は知っているのだろうか。
口付けされる度に、溢れ出てしまいそうな秘めた想いを、全部曝け出されてしまいそうで・・・怖くて俯く事しかできなくなるのに。
『―――祝ってやるよ。この俺が・・・。』
甘く耳元で囁くように喋る声が、どれだけ心臓に悪いのかも、きっと知らないんだろう。
ドキドキと鳴る心臓の音が、聞こえてしまわないようにと―――祈る。
こんな風に一緒に居られるのは、きっと戯れだから。
なのに、自分が本当は、凄く好きで堪らないなんて気付かれたら、面倒臭がられてしまいそうで・・・。
だから、怖くて素直になれない。
口付けられる度に、嬉しくて死んでしまいそうだなんて―――絶対に、口が裂けても言えない。

一度は、家に向かって歩き出した筈なのに・・・気付けば、元の場所で。
来ないと態々メールを打ってくるぐらいだから、間違いなく来ない筈なのに―――どうしても振り切れない未練に心は捉まったまま。
「・・・・バカみたい。」
公園のベンチに力なく座って、そのまま膝を抱える。
梅雨のこの時期の夜の雨は、容赦なく体温を奪っていく。
雨にけぶる街灯側の時計の針は、既に１０時を回っていて・・・約束の時間よりも２時間半が過ぎた事を示していた。
頭では理解っている。
基本的に緋咲は約束を護らない男ではないから、急用というのは本当に大事な用なのだと言う事ぐらい。
でも頭では理解っていても、【胸（こころ）】が哀しくて寂しくて・・・ぽっかりと開いてしまった隙間を埋める術がないのだ。
折角の誕生日に、こんな惨めな思いをするなんて―――最悪の気分。
それでも・・・少しも嫌いになれないのだから、全部自分が悪い。
今日が終われば、諦めも付く。
“あと２時間・・・ここで泣ければ・・・きっと・・・。”
「―――嘘吐き・・・」
今度の呟きは、自分の心に向けて言い放った。

呟くと同時に、拓が座っているベンチに誰かが座った。
ビックリして、拓が顔を上げると・・・そこに居たのは、物凄く怒っている緋咲で・・・。
その苦虫を噛み潰したような表情に、拓はビクリと身を竦ませて・・・思わず逃げようとしてしまう。
だが、その前に腕を捕まれて、引き寄せられる―――その腕の中に。
「――――悪かった・・・。」
きつく抱擁されて、緋咲の身体もずぶ濡れだという事に、拓は気付いた。
「・・・どうして・・・こんなに濡れて・・・？」
余りの驚きに思考回路が上手く働かなくて、心に沸きあがった疑問がそのまま口を付いて出た。
「・・・バイクを飛ばしてきた。―――メールの返事が無かったから、お前ん家に電話したら・・・まだ帰ってこないって言うから・・・」
低く呟かれた言葉に、拓は納得する。
「そっか・・・ごめんね。メール返すの忘れてた・・・」
それだけショックだったし、どう返事を返せば良いのか理解らなかったのも事実だから。
「・・・でも・・・急用だったんだよね・・・？こっちに来ちゃって・・・大丈夫？」
精一杯の強がりで、笑って言う。
上手く笑った筈なのに、零れ落ちる雫。
それを、緋咲の指先が拭う。
「―――違うだろ？何で、怒らないんだ？こんな場所で一人で泣いてないで、もっと俺を、詰ればいいっ！！」
目の前で緋咲の顔が歪む。
その悔いる様な表情を見ただけで、拓の胸に広がるのは暖かな感情。
そんな風に思って貰えるだけで、嬉しくて・・・会えただけで胸が一杯だから。
拓は小さく頭を振って、涙に濡れた瞳で緋咲を見詰める。
「・・・会えたから・・・もう良いんだ・・・」
掠れる声で、想いを言葉にする。
雨の中、ずぶ濡れになりながら【横浜】まで走ってきてくれた事が、何よりも嬉くて―――。

涙を浮かべていた拓の顔に、柔らかな笑みが浮かび上がる。
それを見た瞬間、緋咲の全身を衝撃が突き抜けた。
気付けば、その小さくて細い身体をきつく抱き締めていた。
そうしなければ、衝動で叫んでしまいそうだった。
だから、口を塞いだ。
拓の柔らかな口唇に、感情を全てぶつける様に、噛み付いた。
「・・・っっ・・・！！」
驚いたような震えが、腕の中で起こる。
それでも、緋咲は手放す事が出来なかった。
自分に対する苛立ちと、自分を責めない拓に対する焦燥と・・・。
確かに世話になった先輩の急な呼び出しは大事な用ではあったが、今日の特別な意味を自分が覚えていたら比べる筈もない。
こんな風に、雨の中で一人泣かせて良い日では、決してないのだ。
戻ってこない返信に、おかしいと気付いて家に電話しなければ、ずっとここにいるつもりだったのかと思うと―――やり切れない。
どんな気持ちで、拓が３時間もこんな場所にいたのかを考えただけで、自分が許せなくなる。
会えただけで良い・・・そう言う拓が―――酷く愛しくて。
身体の中で暴れまくっている凶暴な感情を、持て余す。
気に入らない相手なら、拳で殴って感情を解放できるのに・・・大事な相手の場合、荒れ狂う激情を抑える術がないのだ。
だから、緋咲の荒ぶる気持ちはどんどん酷くなっていく一方で。
決して泣かせたい訳でも、ましてや哀しませたい訳でもない。
誰よりも自分の感情を抑え込んで、一人で抱え込んでしまう―――拓だから。
もっと、笑って欲しいのに。
心からの笑顔が見たいのに。
―――どうすれば良いのか理解らない。
だから、こんな風にその心を確かめたくて、口付けてしまう。
その温もりを確かめる事でしか、何も言わない拓の気持ちを感じる事ができないから。

急に噛み付くように口付けられて、拓は鼓動が止まるかと思った。
全てを奪われそうな深いキスに、息が詰まる。
激しい感情そのままの・・・それは緋咲の【想い】。
ずっと寂しかった心が満たされていくようで、拓はゆっくりと瞳を閉じた。
きつく抱き締められる腕の中が、酷く安心できる場所なのだと気付いたから。
想いを口にするのも・・・こういう行為も・・・物凄く恥ずかしくて、いつも何処かへ逃げ出したくなるのだけれど。
気持ちを曝け出すのが、自分がどうにかなってしまいそうな程、怖いけれど。
―――ウザがられても、呆れられても・・・。
でも・・・嫌われたらと思うと怖くて勇気が出ない。
“どうしよう・・・どうしたら、良い？”
こんなに誰かを好きになる事なんて、初めてだからどうして良いのか理解らない。
与えられる口付けや温もりや・・・この腕の中は、こんなにも居心地が良いから、素直になれない自分が泣きたくなるぐらい情けない。
でも、今日なら・・・自分に取って特別な日なら、少しぐらい気持ちに素直になっても、大丈夫だろうか？
想いを口にしても・・・受け止めてもらえるだろうか？
考えるだけで、怖くて仕方ないのだけれど。
伝えたい・・・少しでも良いから―――この【想い（きもち）】。
今なら一歩踏み出せる気がするから・・・。
そんな自分の気持ちを察知したのか、キスが解ける。
俯く前髪から、ポタリと雫が落ちて・・・心臓が跳ね上がる。
どうしよう・・・不安に心が囚われる。
それでも、喩えそれが自分の我が侭だとしても―――

触れた緋咲の手が凄く冷たくて、拓はそれを思わず両手で掴んだ。
「―――拓？」
顔を上げた緋咲は、まっすぐに見詰めてくる拓の濡れた瞳に摑まった。
「あの・・・今夜・・・一緒に・・・朝まで・・・」
言いながら真っ赤になっていく拓の表情に、緋咲の瞳が衝撃に見開かれる。
握られた指先から、震えが伝わる。
それは、どちらのものなのだろうか？
「―――本当は・・・いつも傍に居たい。・・・でも・・・それは、無理だから・・・」
拓の瞳が少しだけ伏せられる。
「今夜は・・・特別だから・・・我が侭言っても・・・。その・・・」
どんどん色づいていく姿と比例して、拓の声が小さくなっていく。
もう、怖くて緋咲の顔が直視できない。
漂う沈黙が、拓の思考をどんどん悪い方向へと引っ張っていきそうで。
やっぱり、言うんじゃなかった―――と拓がギュッと目を瞑った瞬間、力強い腕が、拓を抱き上げた。
「・・・えっ？・・・あの・・・ご・・・ごめんなさいっ！」
驚いて拓が顔を上げると、すぐ傍に緋咲の顔があって・・・その眉が中央に寄っている事にビクッと身を竦ませてしまう。
怒っているのかと慌てて拓が謝ると、ますます眉間の皺が増えていく。
「謝るな。―――行くぞ。」
拓を抱き上げたまま、緋咲はスタスタと歩きだす。
「い・・・行くって・・・何処へ？！」
「―――何処でも良い。・・・もう、我慢できやしねぇから、お前を抱ける場所へ行く。」
きっぱりとぶっきらぼうに言い切った緋咲に、今度は拓の方が目を丸くする。
何の臆面もなく言い切った緋咲に、やっぱり勝てないとつくづく思った。
だから、返事の変わりに首に手を回して抱きつく。
言葉に出来ない拓の・・・それが精一杯の答え。

時計の針が１２時で重なる。
ベッドの中、白いシーツの上で拓は緋咲に抱かれていた。
拓にとって一年で一番嬉しい日は、文字通り最高の日になった。
日付が変わっても、幸せは変わらずに続いていて。
「―――愛してる・・・拓・・・」
耳元で囁かれた言葉が、何よりも嬉しいプレゼント。
与えられる口付けと、抱擁と―――傍にある大好きな相手の【体温（ぬくもり）】。
満たされた想いを抱き締めて、拓はまどろみの中に吸い込まれていった。

腕の中で意識を失った拓を見て、緋咲は深く息を吐き出した。
脳裏に浮かぶのは、真っ赤な顔と―――消え入りそうな声で呟かれた【想い（こころ）】。
『―――本当は・・・いつも傍に居たい。』
零れ落ちた、拓の本心。
あの瞬間、確かに緋咲は心臓を鷲摑みにされた気がしたのだ。

「・・・そう思ってるのは、お前だけじゃない。」
小さく呟いて、緋咲は口端を持ち上げて嗤う。
―――酷くSEXYなそれは、彼独特の会心の笑顔だった。