天使の影
　
　
　―――聞こえてくるのは、羽音。
　それも、無数の羽ばたき・・・。
　遠くで響くのは、天使達の咏う賛美歌の調べ。
　穏やかな『空間』。
　ゆったりとした流れを作る『時』。
　何の変化もないような場所で、彼はひっそりと佇んでいた。
　銀の髪に褐色の肌。
　凡そ、この地に似つかわしくない風貌をした彼は、だが誰よりも真っ白で、巨大な羽根を、その背に持っていた。
　彼は、最上級の天使の“影”でもあった。
　光りの中でしか存在できぬ者たちの代わりに、闇の者と戦い続ける彼は、自分の『存在』をいつも嘆いていた。
　“憂いの大天使”―――彼は、仲間たちにそう呼ばれた。
　陽の下に出ないので、光りの失われた髪は、銀に変わり・・・闇の者の血を浴びる度に黒く染まってゆく身体。
　空の色を映し出していたマリンブルーの瞳は、“嘆き”の余り、緋色に彩られた。
　彼のするべき事は、『聖戦使』となって、闇の者を葬る事である。
　それが、“存在”理由であり・・・それを実行している限り、その背の羽根が汚れる事もない。
　その姿は、天界でも畏怖される“存在”となってしまい・・・彼はとても孤独であった。
　
　
　“天界”に住む者たちは、『天使』と呼ばれ、“地界”に潜む者たちは『悪魔』と呼ばれていた。　　その中でも、『聖戦使』は、“アークエンジェル”という特殊な立場を持っていて、天界と地界の狭間にある、妖精等が暮らす“中道界”にも、自由に行き来できるようになっていた。
　彼は、至幸の光りに包まれた尊厳な空間である天界が苦手だった。
　だから、“アークエンジェル”になってからは、任務の完了を報告しにいく時以外は、いつもこの中道界で暮らしていた。
　彼がいつも連れ歩く“ドラゴン”も、この地で共に過ごしている。
　その日も、いつものように気怠い気分のままに、森の奥に散歩に出掛けてきていた。
　何をするでもなく、その辺りをうろついていた彼の耳に、小さな悲鳴が聞こえた。
　と、同時に、彼がいつも相手をしている『悪魔』の匂いが、漂ってきて・・・彼の瞳が穏やかな赤銅色から、鮮やかな“緋”へと変化した。
　素早く身を翻した彼は、次の瞬間声がした場所へと移動していた。
　そうして、そこで彼が見たものは・・・。
　真っ黒な、小さな塊であった。
　「うわーーーんっ！！」
　周りを獰猛な獣に取り囲まれている所を見ると、彼らの縄張りに誤って侵入してしまったのであろう。
　真っ白な牙を剥き出しているのは、森のガーディアン達であり・・・そうして、漸くその理由も理解できた。
　その小さな『悪魔』が持っている物を見た時に。
　「そいつを、返せ。」
　金の毛並みを靡かせた半獣の少年が、一歩前に出る。
　それに対して、小悪魔は泣きながら首を横に振って、拒絶の意を顕した。
　「―――それは、この森の『護り樹』の葉だ。『悪魔』のお前には、逆に毒にしかならない物。仕掛けておいた“ワナ”を通り抜けた事には、感服するが・・・森の民であるオレは、見逃す訳にはいかない。」
　崖っぷちに追い込んだ小悪魔に向かって、少年は、きっぱりと言い切る。
　漆黒の髪に、鳶色の瞳の小悪魔は、零れ落ちる涙をそのままに、キッと、その大きな瞳を少年に向けた。
　途端に、その手の中に握り締めていた“物”が、眩い光を放った。
　その光が小悪魔の小さな全身を覆う。
　次の瞬間、その姿は忽然とその場から消えていた。
　　
　
　・・・梢が揺れる。
　風が流れた先に、彼はその“匂い”を見つけ出した。
　そうして、先回りする。
　走っていた小悪魔の前に、彼は頭上から舞い降りた。
　突然の事に、驚いた相手が・・・何かに足を取られて転んだ。
　それでも、その手の中の物を離さないというのは、あっぱれというべきか・・・それとも・・・。
　「“地界”の者が、この“中道界”の理を乱すからには、それ相応の覚悟も持っているのか・・・？」
　慌てて起き上がった後で、持っていた手を後ろにやるのを見て、彼は少しだけ口元を持ち上げた。
　麗笑が、浮かび上がって・・・瞳が、輝く。
　その“緋”色の瞳を見た相手が、青ざめた。
　「・・・“アークエンジェル”・・・」
　茫然と呟かれた言葉に、彼は冷たい瞳を向ける。
　だが、相手は、彼が『裁きの天使』だと知っても、変わらない真っ直ぐな瞳を向けてきた。
　それが、彼の意識に疑問を投げかける。
　彼の今まで相手にしてきた『悪魔』とは全く違うその瞳が、感情を揺さぶる。
　だが、先がカギばった黒い尻尾も持っている。
　喩え今は見えなくても、その背にある翼も漆黒の筈である。
　『闇より生まれ・・・やがて、闇に還える』
　―――それが、“地界”の住人なのだ。
　生涯、天界の峻厳なる光に照らされる事もない。
　なのに、見つめてくる瞳の輝きから、彼は目を逸らす事ができなかった。
　「―――行け。」
　その呟きに、小悪魔はハッとしたように表情を変えて、彼を凝視した。
　だが、道を開けてやると・・・途端に弾かれたように駆けだした。
　「・・・ありがとう・・・」
　小さな声が、聞こえて。
　一瞬、彼は自分の耳を疑った。
　“地界”の者が、感謝の言葉を口にする事を・・・口にできる事を・・・彼は初めて知った。
　そうして、両手で大事そうに抱えて走っていく後ろ姿に、彼は酷く興味を持った。
　その、理由が彼は知りたかったのだ・・・。
　どうしても・・・。
　“地界”の者のくせに・・・“天界”ですら見られなくなった純粋な輝きをその瞳に秘めている者。
　そっと、その後を付けていくと、その不思議な“存在”は森を抜けて・・・平原へと飛び出した。
　湿地帯まで走って、そこで漸く足を止めて・・・周りを見回した。
　勿論、それを遙か上空から見下ろしている彼が居る事も知らないで。
　「持ってきたよっ！」
　両手に握り締めていた物を、差し出すようにしてそう告げると・・・ユラリと空間が揺れて・・・その場にユニコーンが顕れた。
　それは、確かに衝撃的な光景だったと言っても良い。
　何しろ、純粋な乙女の呼びかけにしか答えない筈の“聖獣”が、小悪魔の前に佇んでいるのである。
　そうして、更に有ろう事か・・・その時に“地界”の者が浮かべた笑みに、彼は衝撃を受けたのである。
　「これがあれば・・・“力”が戻るんだろ。そうしたら・・・“約束”守って・・・」
　『護り樹』の葉を受け取ったユニコーンは、次の瞬間・・・乙女以外には見せない筈の“真実の姿”に変化した。
　「オマエの言うのは、ヒトの“運命”に係わる事。死期を早めろと言うのではなく・・・寿命を伸ばせとは・・・何故か？“地族”の子よ。」
　「・・それは・・・・」
　困ったように口ごもる小悪魔の顔が赤らむ。
　「理由もなく、“中道界”の掟を破って危険を侵してまでする事ではなかろう・・・」
　ゆっくりと告げるユニコーンに、意を決したように小悪魔は顔を上げた。
　「・・・トモダチ・・・なんだ。」
　「トモダチ？」
　その口から零れた台詞が信じられないというように、ユニコーンが繰り返す。
　「―――ボクは・・・“落ちこぼれ”だから・・・だから、早く一人前の“地族”になりたくて・・・能力を試す為に送られた『世界』で、彼と知り合って・・・」
　そこまで言ってから、小さく吐息を吐く。
　「『悪魔』だって・・知ってるんだ・・・知っているのに・・・なのに、優しくしてくれて・・・だから・・ボク・・・」
　溢れ落ちる涙は、『想い』。
　「どうして『悪魔』なんだろう・・・天使になりたいとは言わないから・・・せめて、“中道界”の住人だったら・・・彼と一緒にいられたのに・・・」
　キュッと両手で胸を抑える仕種をする小悪魔に、ユニコーンは小さく頷いた。
　「“地族”の者が、“ヒト”になれない事はない。」
　「えっ？」
　驚いた顔をする小悪魔に、ユニコーンは優しい笑みを浮かべる。
　「オマエの言葉は、もう“地族”の考え方ではない。」
　「“地界”でも、ボクははみ出し者だから・・・」
　自分の言葉に、小さく答える小悪魔に、ユニコーンは今度は首を横に振った。
　「だからこそだ。・・・だから、“ヒト”にもなれるのだ。」
　「どうすれば・・・」
　真剣な瞳を向ける小悪魔に、ユニコーンは穏やかに告げる。
　無理難題とも言える・・・その方法を。
　「―――アークエンジェルと、交われば良い。」
　はっきり言って、それは永遠に無理だという事である。
　“地族”に取ってまさしく天敵である“裁きの天使”とそんな事ができる筈もないではないか。
　「そんな事・・・無理に決まってるっ！」
　一縷の望みも失ったように、泣きじゃくる小さな肩を、ユニコーンが優しく撫でる。
　「無理かどうかは・・・やってみなければ理解らぬもの・・・案外『護り樹』の葉を持って来た時よりも簡単に行くかもしれないぞ・・・」
　耳許で、優しく囁くとユニコーンは、空を見上げた。
　「・・・そこで、見ている“アークエンジェル”よ・・・いい加減に下りてきたらどうです？」
　確実に、自分に向けられた言葉に、彼は少し眉根を寄せた。
　だが、ばれていたのでは仕方ないので・・・羽根を広げて、ゆっくりと地上に向かう。
　バサリと羽音を立てて、地に降り立つと舞い乱れた前髪を払う。
　ポカンとしていた小悪魔は、慌ててユニコーンの影に逃れていた。
　「何用だ？」
　「散々話を聞いておいて・・・それを聞くのですか？“裁きの天使”よ。」
　にっこりと微笑を浮かべられては、立場が弱い。
　だが、先程の会話を、認めたくない彼は、押し黙った。
　相手は、全ての世界の“創造主”が認めた『聖獣』なのだ。
　彼が、どうこうできる相手ではない。
　更に、ユニコーンの影からジッと見つめてくる瞳が気に触って仕方ない。
　「用件は既にご存じでしょう？」
　重ねるように告げるユニコーンに、憮然とした表情を浮かべる。
　知っていても、納得できない事もあるのだ。
　『悪魔』と“戦う”事が最優先される“アークエンジェル”が、何故『悪魔』の願いを聞いてやらなければならないのか。
　できる筈もない。
　「消滅させる事だけが、仕事ではないでしょう？“ヒト”として存在するのならば、貴方の仕事は全うされる事になる。違いますか？」
　穏やかな口調で、末恐ろしい事を口にするユニコーンに、殺意が沸き上がる。
　「過去に、そんな出来事は一度もないっ！大体、“天界”の者が“地界”の者に触れる事さえ、禁畏とされているのに、私にどうしろ・・・と？」
　冷やかに言い募る彼に、ユニコーンは含みのある笑みを浮かべた。
　「それでは、問うが・・・何故“天界”と“地界”の狭間に、この“中道界”があると言われているのでしょうか？決して交わる事のない筈の二つの種族から、追放された者達が、この地に集まった為ではないのですか？“天界”の血を引く『妖精』・・・“地界”の血を濃く残す、『魍魎』。どちらも、両方の血を持っているが故。」
　「まさかっ？」
　深い慈愛に満ちた笑みを浮かべるユニコーンの言葉には、真実の重みがあった。
　愕然とした彼は、小悪魔を見つめて・・・ギュッと拳を握り締めた。
　「・・・名は？」
　「タ・・・タク・・・」
　ユニコーンが小悪魔に向かって尋ねると、恐る恐るといった返事が返ってくる。
　「貴方は？“天界”の者よ・・・？」
　「私は・・・セロニアス・・・。『嘆きの天使』。私はずっと疑問に思っていた。己の存在理由を・・・。闇の者たちをこの手にかける度に、憂いは増すばかりで・・・いつしか姿までも、“影”となりつつある。本当の真実とは？・・・愛とは？慈悲とは？何を基準にして・・・それを行っているのか・・・と。」
　そうして一呼吸をおいて、彼はユニコーンを見据えた。
　「その答えを、お前は知っているのか？」
　「・・・知っていると言えば、知っているし・・・だが、全てを知っている訳でもありません。私は万能の神ではないのですから。だが、貴方に答える事はできるかもしれません。」
　「ならば、答えよ！この私が“存在”する意味を。」
　少し苛立ったように告げる彼の口調は、怒りというよりは、嘆きのように聞こえる。
　「それは・・・“アークエンジェル”である事を、辞めたいと言っているのと同じ・・・。“万能の神”は、何もなかった“無”より、“世界”を創造りたもうた。そうして、危うい均衡を保つ為に、両極の位置に“世界”を築き、両端から支える事によって・・『三界』を完成させた。両極の世界の者達が、交わらぬように・・・一番信頼のおける者たちを、それぞれの“世界”の『支配者』として存在させるように。『堕天使』となった“彼の者”は、天界を追放された訳ではなく・・使命を持って堕ちたのだ。」
　「・・・それは、『サタン』となったルシフェルの事を言っているのか？」
　ユニコーンの言葉に、彼は疑問を投げかける。
　それに対して、ユニコーンは静かに頷いた。
　「−敵対する立場を取らねばならない故に、最上級の『大天使』を遣わされた。“地界”に降りた“彼の者”は、まず全身の光を全て捨て去った。そうしなければ、彼の光に“地界”の者たちが耐えきれなかった為。そうして、七日間地獄の極炎に身を焦がした・・・。」
　その事を喋る時に、ユニコーンは少しだけ言葉を途切らせた。
　「ルシフェル様は、御自分が『天界』よりいなくなる事で、ミカエル様の心に傷が残らないように・・・最後の天使の力を持って御自分の“影”を造りだされた・・・。」
　そうして、ユニコーンはゆっくりとその深い思慮を讃えた宝石のような瞳を、彼に向けた。
　「・・・そんな馬鹿な・・・」
　茫然と彼は、呟く。
　確かに自分の“存在”する理由を知りたいとは思った。
　−だが、自分の正体が理解るとは思いもしなかった。
　「『アークエンジェル』だから、自分が他の天使たちと違う風貌をしているのだと、思っていたでしょう？ですが・・・それは、“地界”にいるルシファー様の姿が、変貌した為なのです。」
　“緋”色の瞳が、見開かれる。
　彼の受けた衝撃は、それ程強烈なものだった。
　「私がお教えできるのは、これぐらいです。それが、真実かそうでないのかは、御自分で調べられた方が納得いくでしょう。私は、もう行かねばなりません。少々この場に長く居すぎました・・・。」
　そう告げると、ユニコーンは人型から、元の形へと変貌した。
　「タク・・・よ。『護り樹』の葉は確かに受け取りました。オマエの望みを叶えてあげましょう。逝く“運命”を背負った＜ヒト＞の命を、少しだけ伸ばします。ですが、＜ヒト＞の世界の掟は、既に定められている事です。歯車がずれた事によって生じる物事は、オマエが側に居て護るが良いでしょう。」
　「でも・・・ボクは・・・」
　「方法は、教えました。」
　「できませんっ！だって・・・今、『天使』と『悪魔』は敵対するように・・・って・・・」
　泣きながら言う小悪魔のタクに、ユニコーンは頷く。
　「確かに、言いました。でも・・・オマエなら大丈夫でしょう。」
　「そんな・・・確かにボクは落ちこぼれだけど・・・でも、“地族”の者です・・・」
　首を横に振って哀しげに言うタクに、ユニコーンは慈悲深い笑みを浮かべた。
　「私は・・・白い翼を持つ者を、『悪魔』とは呼びませんよ・・・」
　静かに告げたユニコーンに、タクはハッとしたように自分の背中を見た。
　だが、そこには何もない。
　「どういう事だ？」
　『悪魔』と呼ばれる“地族”の翼は、漆黒の闇の色をしている筈なのである。
　地界では、全てが闇の色なのだから・・・・。
　「ボクが・・・できそこない・・・だから・・・」
　ポロポロと大粒の涙がタクの瞳から溢れ落ちる。
　次の瞬間、タクの背中に生えた小さな翼は・・・確かに純白だった。
　信じられないものを見た彼は、それを凝視してしまう。
　「あぁ・・・もうこの空間を保つ事ができません・・・私は元の世界に戻ります・・・」
　ユラリとユニコーンの姿が揺らめく。
　陽炎が立ち消えるように・・・ユニコーンの姿は影も形もなくなってしまっていた。
　そうして、その場に残されたのは、不安げな泣き顔の小悪魔と彼だけになってしまった。
　「・・・そんなに＜ヒト＞になりたいのか？」
　問いかける彼に、タクは真っ直ぐな大きな瞳を辛そうに歪めて首を横に振った。
　「なれるものなら・・・なりたかったけど・・・」
　儚げな笑みを浮かべると・・・ゆっくりと歩きだす。
　「何処へ行く？そっちは、森に戻る事になるぞ。また“ガーディアン”達に見つかったら、今度こそ命の保証はないのではないか？」
　「理解ってる・・・だけど、“約束”だから。」
　振り返りもせずに答えるタクの言葉に、彼は端整な眉を顰めた。
　「“約束”・・・？」
　「・・・そう。『護り樹』の葉を貰う代わりに・・・ボクの『力』を渡す為に・・・」
　「―――そんな事をしたら・・・“地界”には、帰れなくなるぞっ！」
　信じられない事を言うタクに、彼はつい声を荒らげてしまった。
　「それでも・・・良い・・・。彼の為に・・・秀人クンの為に・・・ボクでもできる事があったのだから・・・」
　ふんわりと微笑するタクの表情は、彼の知っている『悪魔』とは、確かに違っていた。
　喩え、その姿は“地族”のものでも、その本質は『純粋天使』の如く、清らかなのだ。
　確かに“地族”では、さぞかし落ちこぼれでできそこないだったろう。
　だが・・・もしも、その姿が『悪魔』に似ておらず・・・『天使』だったら・・・。
　そこまで考えて、彼は苦笑する。
　あり得ない事だ・・・と。
　それでも、沸き上がった疑問は、どうしても拭えようが無かった。
　喩えそれが、“創造主”の意に反する事であったとしても・・・。
　その背の巨大な羽根を広げて、彼はタクの小さな身体を抱え上げてしまう。
　「ひっ？！」
　「暴れるな・・・落ちてもしらないぞ。」
　自分の身体が宙に浮いている事に、慌てたタクが身じろぐのを、言葉で押さえつける。
　おとなしくなった腕の中のタクを見て、彼は少しだけ微笑した。
　そうして、力強い羽ばたきは・・・一瞬にして、『護り樹』の元まで二人の身体を運んだ。
　「『護り樹』よ・・・。“中道界”の古き精霊よ・・」
　彼が、呼びかけると・・・巨大な大樹全体が揺れ・・・梢がざわめいた。
　『・・・これは・・・“天界”の光の使者・・・この我に何用か？』
　「この者が、そなたとの“約束”を果たしに来た。」
　『・・おぉ・・・“古”の種族の血を秘めた“地界”の子供よ・・・。本当に戻ってくるとは・・・』
　大地が震えるのは、驚きの為なのか。
　それとも、深き感動故か・・・。
　「ボクの・・・『力』を・・・」
　彼から離れたタクが、大樹の前に立って・・・無防備な状態で両腕を開く。
　それはまるで、巨大な大樹をその小さな腕で抱き締めているようにも見えた。
　『・・・それはできぬ・・・できぬのだ・・・“地界”の子供・・・。先刻の言葉は、オマエの勇気を試したもの・・・真実の心を知る為に・・・。確かに、オマエは自分の為にアレを使わなかった。それは、ちゃんと識っておる・・・理解っておる。この“世界”の事で、我が知らない事はない・・・』　威厳のある言葉が、さざめくように振ってくる。
　『嘆く事はない・・・“地界”の子供よ・・・。オマエはまだする事があるだろう・・・したい事があるだろう・・・？我は、もう掛けがえのない『力』をオマエから貰っている。“真実の勇気”・・・それはやがて我の枝に実を結ぶ事になるだろう。“契約”は果たされた・・・。』
　森全体が光輝くかのように・・・巨木の枝葉一枚までにもキラキラとした光が漲っている。
　閉じていた瞳をゆっくりと開いたタクは、泣き笑いの笑顔となった。
　そんなタクの隣に、彼はスッと近づく。
　「オマエの望みを叶えてやろう。」
　静かに告げる彼を、タクは黒曜石のような瞳で強く見つめた。
　「＜ヒト＞になりたいのだろう？」
　重ねた問い掛けに・・・返ってきたのは弾けるような笑顔だった・・・。
　
　
　聞こえてくるのは無数の羽音。
　舞い散るのは、純白な天使の羽根。
　遠くから聞こえてくる・・・賛美歌の響き。
　「−珍しい者がいるな。」
　“天界”の花園・・・。
　中央にある“泉”の側で佇む彼を、見つけた『大天使』が近づいてくる。
　「何を見ているんだ？」
　“泉”は、水鏡・・・。
　「『堕天使』になりそこなった・・・。」
　“緋”色の瞳で水面を見つめながら、彼は静かに微笑ってそう呟いた。
　「不謹慎な事を口にするな・・・。反逆罪になるぞ。」
　眉間に皺を寄せる美貌の『大天使』の言葉など、どこ吹く風という調子で、彼は水面を見つめ続けた。
　
　
　水面を通して見ていた者は、一度だけ腕に抱き締めた小さな“存在”。
　全てを捨てて望みどおり＜ヒト＞になった“地界”の子供は、トモダチだと呼んでいた＜ヒト＞の側で、幸せそうに微笑んでいた・・・。
　

　
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