―――時は元禄。
将軍様のお膝元・・・花のお江戸は今日も色々な人々が暮らしていた。

ガヤガヤと騒がしい人込みの中、ふとすれば見えなくなってしまいそうな小柄な身体が動いていく。
着物姿の商人や、小間使い・・・脇差を指した武士や、遊び人風の伊達男などが、向かう先にあるのは、大通り。
たった一つしかない出口へ向かって・・・幾人もの男達が開かれた門戸を潜り抜けてそれぞれの店から出てくる。
それは、明け方の風景。
―――いつもの情景。

「・・・やれやれ・・・やっとゆっくり出来るね・・・」

キセルの先を銜えて、ゆったりと煙を吐き出しながら、奥店の女主人が吐息を漏らす。
花街と呼ばれる吉原の・・・今一番の有名置屋の女主人は、少し前までは自身が花形であった程、器量に関しては絶品である。

「きよみさん！今日の一番の上がりは誰？」

嬉々として聞いてきたのは、久しぶりに大店の主人が客として来た遊女だった。

「あぁ。相変わらず“ゆうり”太夫の客には適わないよ。何しろ、一国主のお侍さんだからねぇ・・・」
「えー、でも江戸一番の廻船問屋の若旦那である真里さまを上客にしてる“あきら”太夫は？昨夜も大枚入れたらしいじゃないですか。」

世話しなく動きながらあちらこちらから声だけが振ってくる。
カナリア位綺麗ならまだしも雲雀の様に騒ぎ立てる遊女達に、きよみは困ったように真っ赤な口端を持ち上げた。

「やれやれ・・・人の事を言う前に、せっせと自分達を磨きな。今夜も夕刻までには、お客様をお迎えしなきゃならないんだからね。」

言いながら、ふと周りを見回す。
そうして、ある事に気付いたように眉を寄せる。

「―――あれ？“たく”は・・・？」

店の中をチョコチョコと動いていた同じ禿の“あいが”に問い掛ける。

「・・・たくなら、“もえこ”太夫のお使いで、街に出てます・・・」
「―――使い？」
「何でも、鰐淵さまへの文を預かったとかで・・・」

きよみに呼び止められて、恐縮しながらあいがはそう答えた。

「・・・ふーん・・・春樹にねぇ・・・」

キセルに溜まった灰を落として、きよみは少しだけ眉を潜めた。
人気ではゆうり太夫と対を張るもえこ太夫が、何をトチ狂ったのか寄りによってヤクザな自分の弟に惚れ込むなんて・・・頭痛がしてくる。
尤も、そういう自分も惚れた相手以外と床を共にしたくなくて・・・自身で置屋を始めたのだから―――人の事は言えないが・・・。
他の置屋と違って、金で売られてくる娘は絶対に直ぐ女郎にしないし、気に入らない客は取らなくても良い・・・というきよみの店は、その潔さが逆に好まれて繁盛していた。
つまり、通う客も女郎の機嫌を取らなくては客として認めてもらえないので・・・箔が付くのだ。
そんな中で、それぞれの太夫にも必ず一番の客はいるもので・・・。
その顔なら、名うての大旦那さえも手玉にとれそうな美貌を、持ちながら・・・もえこ太夫の本命は身分が高いとは言えなかった。
確かに、金は持っている。
商人にも武士にもなれず・・・江戸の町中で悪い事をし尽くしてきたチンピラを束ねて、賭博場で使って、大人しくさせている所といい・・・中々男気な部分もあるが・・・。
―――はっきり言って、儲けにはならないのだ。
尤も、それ以外の客にもそつなく接するもえこ太夫だからこそ、きよみも頭立って反対はしなかった。

「―――たくは・・・余り“外”には出したくないんだけどねぇ・・・」

きよみの呟きは誰に聞かれる事も無く、煙と共に消えていった。

テコテコと、たくは人込みの中を歩いていく。
懐には、もえこ太夫から預かった大切な手紙を抱えている。
最近、トンとご無沙汰な恋人への想いの綴られたそれを、最初に見つけたのは他の誰でもなく自分だったから。
花街の禿なので、余り街に出ないようにと言われてはいたが、絶対に吉原から出られない遊女であるもえこ太夫に代わって気持ちを伝えて上げたかったのだ。
いつも優しく接してくれる太夫の為。
歩きなれない道を、たくは急いでいた。
ドン！

「・・・気をつけろ！」
「―――あ、すみません・・・」

不意にすれ違った相手に怒鳴られたので、たくは慌てて頭を下げる。
相手はそのまま人込みの中へ消えていく。
イチャモンを付けられなくて良かった・・・と、ホッとしたたくが胸元を触ると、そこにある筈の感触がなくて、ドキリとする。

「え？！」

慌てて確かめるが、懐に入れておいた筈の文が何処にもないのだ。
何処かに落としたのかと周りを見るが、辺りには影も形も無かった。

「・・・どうしよう・・・」

真っ青になって、たくは辺りを見回した。
だが、見知った者が居る筈も無く・・・途方に暮れてしまう。

「―――イテテテッ！！」

人込みの中で、突然悲鳴が上がる。
弾かれたように振り返ったたくは、先程ぶつかった相手が誰かに腕を持ち上げられているのを見つけた。
その手の先には、財布が握られている。

「・・・掏った相手が悪かったな。」

そう言いながら、持っている腕を握りつぶしていく者の表情は全く変わらない。
紫紺の着流しのスラリとした美丈夫だ。
鼻頭の刀傷さえなければ、さぞ浮名を流せる事だろう。
尤も、その傷が更にゾッとするような畏怖さを醸し出していたのだが・・・。
腰に刀を付けていてもおかしくない立ち振る舞いだったが、脇差は付けていなかった。

「うぎゃっ・・・お・・・折れる・・・！！オレが悪かった・・・盗った金は返すから・・・放してくれぇ・・・」

腕を掴まれた男は本気で痛がって、恥じも外聞も無く喚き立てていた。
力の抜けた指先から、財布が落ちた。
それでも、掴んだ腕の力が緩められる事はなく、やがてバキッという鈍い音と共に、男の腕は奇妙な方向へと曲がってしまった。

「・・・これで、もう二度と悪事はできないな・・」

何でも無い事のように呟くと、痛みにのた打ち回っている相手を一瞥して、美丈夫は財布を拾おうとした。
そうして、その傍に落ちていた白い紙に気付いた。

「・・・あっ！！それは！！」

思わず、たくは大声を上げてしまった。
途端に、向けられた目線と合ってしまい・・・ゴクリと息を呑んだ。
冷たい氷のような視線に見つめられて、ゾクリと総毛立つ。

「―――お前のか？」

問い掛けられて、どうしようか・・・迷う。
それでも、たくは小さく頷いた。
その文が無くては、想いを渡す事が出来ないから・・・。
ゆっくりとした動作で、男が近付いてくる。
蛇に睨まれた蛙のように、たくは硬直していた。
―――時が止まってしまったかのような感覚に、鼓動だけが早鐘のように鳴っていた。
だが、身構えたたくを一瞥しただけで、男は何も言わずに拾った文をたくに押し付けた。
そうして、クルリと踵を返すと、流れるような動作で街並みの中に消えていった。
その後姿に、漸く緊張の糸が切れたたくは、手元の文をギュっと握り締めた。
確かな感触に、二度と離さないと心に強く思う。
そうして、既に無い姿に向かって、想いを込めて感謝のお辞儀をした。
ちゃんと礼を言えなかった事に、少しだけ自己嫌悪に陥りながら・・・。

それでも―――。
冷たい印象の眼差しが妙に胸に残って離れなくて。
スラリとした背中の残像が、ずっと意識の中から消えなかった・・・。

お使いを終えて花街に戻ってきたたくを見つけたのは、男衆を束ねているリュウヤだった。

「―――今、戻りか？たく。」
「・・・はい。」

確認に、たくは小さく頷いた。
この吉原の女郎達は全員が自分の意思で“花街”に居る訳ではないのだ。
親に捨てられた者・・・売られた者・・・。
身一つでしか自分を持たない者たちが大勢いるので、思いにそぐわない置屋も中にはある。
散々こき使われて・・・逃げ出したくなる女郎も少なくは無い。
そんな女郎達が吉原から逃げられないように、入り口を見張ったり、花街の中での揉め事を収めるのが男衆の役目でもあった。
頬に刻まれた傷は、無粋な客同志で花魁を取り合った際に、侍が持っていた刀を振り回して出来たものらしい。
頬を切られ、流血しながらもリュウヤは最後まで花魁を守り切り、その男気に先代の頭が跡目を継がせて・・・そうしてリュウヤはいつも吉原の秩序を守っているのだ。

「―――『横浜』の客の絵師だったか？先刻通って行ったが・・・何処か患ってやがるのか？随分と咳き込んでいたぞ。この吉原で、病が蔓延しないよう、きよみによく言っとけ。」
「絵師って・・・大珠さまですか・・・？でも、りんこ太夫はそんな事全然言ってなかったけど・・・」
「ふん。それなら構わねえが・・・。」

それだけ言うと、リュウヤは歩いて行ってしまう。
その後姿を見送ってから、店に戻ろうとしたたくの肩が、ポンと叩かれる。

「やっぱりたくちゃんだぁ・・・お店の外で何やってるんだい？」

明るい笑顔でそう尋ねられて、たくは困ったように相手を見返した。

「・・・若旦那様・・・」
「ヤダなぁ・・・真里で良いっていっつも言ってるのに・・・」
「でも・・・」
「んーー、たくちゃんはそう言うトコが可愛いんだけどね。」

ニコニコと悪意の欠片もない口調で言われて、たくの頬がピンク色に染まった。
名を鮎川真里といい、江戸一の船問屋である鮎川屋の息子である。
その容姿からは想像も付かないが、自身も率先して荷運びを行うという見た目と行動が伴わない人物だったりする。
一見すると、良いとこのお坊ちゃま以外の何でもない細身で小柄な体格だというのに・・・。
自分と同じくらいの荷物を軽々と持ち上げる怪力の噂は、花街にいる者なら誰でも知っていた。
現在は、次の花魁と噂されるあきら太夫の愛い人だったりする。
たまたま手伝いで膳を運んだたくをえらく気に入って、顔見世をきよみに進めている要注意人物でもあるのだ。

「あ・・・あの・・・まだ仕事があるので・・・」

そう言って、たくはペコリとお辞儀をして真里の傍から離れた。
真里がここにいると言う事は、夕刻の門が開いたと言う事で・・・これからが一番吉原の忙しい時間帯なのだ。
思っていた以上に外にいたのだと改めて気付いて、たくは店に戻る足を速めた。

「―――あーあ、逃げられちゃった・・・」

心底がっかりしたように真里は呟いた。

「まだ・・・子供じゃないか・・・」
「んーん、でもアッと言う間に変わるし・・・その前に大切に仕舞っておかないと、誰に持っていかれるか理解らないし・・・ね、あっちゃん。」

嗜める様な言葉に、真里は商人の顔付きとなって答える。

「―――絶対、手に入れるから。」

小走りに離れるたくの姿を視界に入れながら、キラリとした眼差しで真里は不敵に笑った。

「ただ今、戻りました・・」

勝手口から店に戻ると、店の中はてんやわんやの大騒ぎだった。

「・・・あの？」

不思議そうにたくが立ち尽くしていると、店の奥から誰かの泣き声が聞こえてきた。

「―――死なないでよぉ・・・大珠ぅ・・・」

その声に、弾かれたようにたくは動いた。
階段を上がっていって、目的の部屋に向かう。
部屋の外には数多くの女達が、何事かと集まっている。

「たくちゃん・・・こっちこっち・・・」

たくの姿を見つけたもえこ太夫が、たくを手招きした。

「・・・ちゃんと、渡してくれた？」
「はい。三日後にこちらに来られるそうですよ。」
「ほんと？嬉しい・・・ほんとに、ありがとね・・・たくちゃん・・・」

心配そうに首尾を尋ねるもえこ太夫に、たくは相手からの返信を口答で伝えた。
商人でもなければ、文字を覚える事も無いので・・・。
たくの言葉を聞いた途端に、もえこ太夫は嬉し泣きに着物の袖を濡らした。
それだけで、たくは自分が使いをかって出て良かったと思った。
そうしている間にも、騒ぎは大きくなっていく。
部屋の中までは見えないのだが、どうやらりんこ太夫ときよみが言い争っているようだった。
部屋の中を気にするたくに、もえこ太夫は困ったように吐息を吐いた。

「りんこ太夫が気になる？」
「え？・・・はい。」

隠しても無駄なので、たくは素直に頷く。
そんなたくの頭を撫でて、もえこ太夫は艶やかな唇を少しだけ開く。

「・・・客が血を吐いたんだよ・・・。それで、きよみ姐さんが療養所へ行かせろって言ってるの。」
「―――血を？」
「あぁ。幾ら上客でも、病気持ちはヤバイからね。それで、療養所行きになっちまうと、会えなくなるからってりんこが泣いて嫌がってるんだ。」
「それで、大珠さまは？」
「男衆が抱えて運んでいっちまったよ。」

もえこ太夫の言葉が終わらない内に、部屋の中からきよみが出てきた。
その後を、血の付いた着物のままりんこ太夫が付いて行く。
涙で化粧の落ちた顔はやつれて・・・腫れた瞼が痛々しい。

「さあさあ、野次馬は自分の持ち場に戻っておくれ。本日は、穢れを払うからお勤めはお休みにするよ。全員、身を清めてきな。」

きよみがパンパンと手を叩いて声を出すと、その場にいた野次馬全員がくもの子を散らすかのように散らばっていく。

「―――たく。」
「・・・は・・・はい？」

目が合った途端に、きよみに呼ばれてたくは慌てて姿勢を正す。

「帰ったのかい？それなら、すまないが・・・りんこ太夫の穢れを落とすのを手伝ってやっておくれ。」

疲れたように言うきよみに、たくは小さく頷く事で答えた。

身体の穢れを湯浴みで落としてやると、りんこ太夫は化粧のしてない素顔でポロポロと泣いた。

「―――大珠・・・死んじまったら・・・どうしよう・・・」

目の前で、激しく吐血した姿が記憶に張り付いてしまったりんこ太夫は、呆然とそう呟いた。
そうして、身体を洗ってやっているたくに縋り付く。

「り・・・りんこ太夫？」
「・・・たくちゃん・・・あたいの愛しいあの人がいなくなっちまうなんて・・・考えられないよぉ・・・あたいを置いてくなんて・・・」

泣き崩れるりんこ太夫に、たくは優しくその身を撫でてやる。

「大丈夫ですよ。大珠さまは少し体調が良くないだけで・・・直ぐにお元気になりますから。でも、具合が悪くてもりんこ太夫に会いに来られるなんて・・・大切にされてるんですね。羨ましいです。」

にっこりと笑って、たくはゆっくりと言葉を綴った。

「―――そう？」
「そうですよ。」
「また、来てくれるかな？」
「ええ。ご病気を治して来て下さいますから。」

何度も何度も問い掛けるりんこ太夫に、たくは頷いて見せた。
それは、只の気休めでしかない。
喀血したのであれば、それは多分・・・・。
この吉原でも何度もそう言う者を見たが、戻ってきた者はいなかったから。

「あいつ、貧乏絵師なのに・・・ここに通う為に無理して・・・」
「―――それだけ、りんこ太夫がお好きなんです。」
「うん・・・。ありがと、たくちゃん・・・」

泣き腫らした目を眇めて・・・りんこ太夫はほんの少しだけ微笑した。

落ち着いたりんこ太夫を部屋に戻してから、たくは台所へ戻ろうとしたが・・・途中できよみに呼び止められた。

「どうだい？」
「はい。今は落ち着いて・・・眠っています。」
「そう・・・。」
「あの、大珠さまは？」
「ああ。ヤブ先生んとこに連れてったよ。」

そうして、きよみは長い髪を掻き揚げた。
その仕草をするのは、何か困った事がある時だと知っているたくは、黙ったままきよみの次の言葉を待った。

「・・・肺を・・・やられているようだよ。」

眉を潜めてそう言うきよみに、たくは悲しげな顔をする。
予感が、正しかったのだ―――と気付いて。

「そうですか・・・」
「参ったね。りんこ太夫になんて言ったら―――」
「そんなにお悪いのですか？」
「・・・療養所に入れれば、まだ助かるかもしれないんだけど・・・それだけの金をあの男が持っているかどうか・・・」
「―――りんこ太夫が、悲しみます・・・」
「あんたは、優しいね。」

たくが泣きそうな顔でそう言うと、きよみは小さく笑ってそう言った。

「ところで・・・今日は外に行ったのかい？」
「―――はい。文をお渡しに。」

誰に頼まれて・・・とは言わない。
それが、たくの性格だと知っているきよみもそこは追求しなかった。

「・・・まあ、お使いも良いが・・・余り吉原以外には出ない方が良いよ。あんたはこの街で育ったんだから。外で、変なヤツに見初められても困るからね。」
「そんなこと・・・。町にはもっと綺麗なお嬢さんが一杯いますから・・・」

赤くなって小さく告げるたくに、きよみは心の中で溜息をつく。
この吉原で生まれ育って早、１５年・・・初心なのは愛らしいが、余りにもたくは色事を知らな過ぎた。
禿として花魁に仕えているのだから、男と女の床入りがどう言う意味かなどは知っているようだが・・・心が幼すぎるのだ。
だからこそ、未だに顔見せもできないのだが・・・。
大切な親友の忘れ形見だからこそ、きよみも大切に育ててきたのだから―――。
この吉原一の花形だった親を持つたくの容姿が醜いはずもない。
自分の事を知らな過ぎるたくに、きよみは心配が尽きないというのに。

「中には、幼いのが好みっていうヤツもいるんだよ。」

１５はもう立派な大人だ。
たくの容姿が幼いので、顔見せも遅らせてはいるが・・・この吉原にいる以上、いつかは客を取らなくてはならない日が来る。
禿だというのに、今直ぐにでも顔見せをしろと五月蝿い客も大勢ついているのだ。
まあ、問題はそれだけではないのだが・・・。

「はい、気を付けます。」

きよみの言葉に、たくは真面目な顔で頷いて見せた。