―君は宇宙　僕に月―





「もうすぐ―――だね。」

前を歩く姿が振り返る。

一瞬、声を聞き落としてしまって、直ぐに返事が返せない。

「・・・何が？」

聞き返すと、寒さで少し赤くなった頬が膨らんで・・・少し機嫌を損ねたようだ。

「もー、また、聞いてなかった！だから、出発までもう少しだね・・・って。」

「ゴメン。」

言いながら、また前を向いてしまう。

その隙に、開いてしまった距離を数歩で取り戻して、謝りながら隣に並ぶ。

こんな風に、月夜に公園を一緒に散歩するのも、凄く久しぶりだった。

頭一つ低い相手を、覗き込むように見詰めると、見られないようにそっぽを向かれてしまう。

困ったので、どう声を掛けようかと思ったら、途端に振り返った表情は『笑顔』。

それに、意識が強く惹きつかれて結局、言葉は出てこない。

「もう、良いよ。それより、準備はもう済んだの？」

「あ・・・あぁ。」

問い掛けられて、辛うじて言葉になった。

相変わらず、くるくる変わる表情は、どうなっているのか理解らない。

「そっか・・・。」

言って、本の少しだけ夜空を見上げる表情が、また心を騒がせる。

「・・・うん。時貞くんなら、何処へ行っても変わらないマイペースなんだろうなぁ。」

空を見上げたまま、クルリと回って戻ってきた視線は、真っ直ぐに心臓を突き抜ける。

大きな黒曜石の様に綺麗な瞳は、初めて出会った２年前と少しも変わっていなくて・・・。

二人の関係も結局変えられなくて。

もうすぐ・・・離れてしまうのに。

たった一言が、どうしても伝えられない。

こうして、二人っきりで会えるのも、これっきりなのかもしれないのに・・・。

「・・・拓ちゃん。」

口から零れ落ちるのは、その名だけ。

どうでも良い相手なら、幾らでも心にも無い美辞麗句を並べたり、傍若無人に動く事が出来るのに、どうしても拓相手にはそれが出来ない。

―――嫌われたくない。

「直ぐに会えない場所に行っちゃうのは、凄く寂しいけど・・・でも、友達だもんね！時貞くんが音楽の世界で【頂点（てっぺん）】を取るのを、僕、応援するから！」

握り拳を作って、笑顔で言いきる姿が、今は胸に苦しい。

「あ・・・あぁ。ありがとう・・・。」

ゆっくりと、痛む箇所を隠しながら、頷く。

途端に、少しホッとしたような顔が浮かぶ。

「それで・・・あの・・・これ！餞別・・・みたいなものでっ！！最近、時貞くん忙しいみたいだから、どうしようか凄く迷ったんだけど・・・」

持っていたバッグの中から、小さな包みを取り出すと、真っ赤な顔で一気にそう言って、押し付けてくる。

その勢いに一瞬気を飲まれかけるが、餞別という言葉に、ズキッと胸が痛む。

「まだ・・・あっちに行くのは再来週なのに・・・もう、会わないつもり？」

つい、声が低くなる。

こんな時間さえも、もう数える程も持てないのに。

「え？いや・・・そういう意味じゃ・・・」

困ったようにしゅんとしながら、差し出した物をどうすれば良いのか理解らないと、持っている手が震えている。

でも、それを受け取ったらもう出発まで会えない気がして、受け取れない。

二人の間に沈黙が流れる。

先に折れたのは、拓の方だった。

「―――そ・・・そうだよねっ！僕だけじゃなくて・・・時貞くんなら、他にも一杯貰ってるし・・・今更・・・」

何だか泣きそうな顔でそう言うと、小さな包みを鞄にしまい直して・・・俯く身体が一層儚く見えた。

「・・・ごめん。ちょっと、急用思い出したから、僕・・・帰る。えっと、時貞くんが出発する前には、ちゃんとまた皆と一緒に会うから・・・」

「―――拓ちゃん？！」

声が震えているのは、怒らせてしまった所為だろうか？

呟くような台詞に、慌てて声を掛けるが、伏せられた瞳は帰ってこない。

そのまま、クルリと踵を返して走り出そうとする腕を、間一髪で掴む。

「・・・拓・・・ちゃ・・・？」

驚いて振り返った拓の瞳が赤く・・・潤んでいる事に気付いて、自分が何かまずい事をしてしまったのだと理解った。

「・・・離してっ！」

振り払うように暴れる腕を掴んだまま、引き寄せる。

このまま、手を離したら・・・多分、自分は取り返しのつかない事になる―――そう直感したからだ。

この手の感覚は、昔から外した事がない。

だからこそ更に、抱き締める腕に力を込めた。

「・・・嫌だ！」

初めて、強い声が出た。

嫌われるのが怖くて、自分からこんな風に強く言う事なんか無かった。

当たり障りの無い会話で、馴れ合うように過ごしてきたこの２年間。

真綿で包まれるようなぬるま湯に、心地良さと焦燥の二重の意味で鎖に捕らわれながら・・・それでも壊せなかった関係。

初めて思う侭に抱き締めた身体は、想像以上に小さくて腕の中にすっぽりと納まってしまい、驚きと同時に壊してしまいそうで怖かった。

「―――とき・・さだ・・くん・・・？」

びっくりしたような大きな瞳で見詰められて、心が隠せない。

溢れ出そうな想いは、もう限界まで膨らんでいて・・・。

―――今にも破裂しそうだ。

「嫌だ・・・離さない・・・。―――餞別なんて、欲しくない。」

肩口に顔を埋めて、心を暴露する。

理解って欲しい。

欲しいのは・・・俺が本当に欲しいモノは、決して手に入らない。

餞別を用意されてしまう程、拓の心の中では既に決別が受け入れられているのだと、気付いた心が悲鳴を上げる。

未練を断ち切れないのは、俺だけ。

勇気が出なくて・・・嫌われるのが怖くて・・・ずっと引き伸ばしてきた。

その間に、想いだけがどんどん成長してしまった。

「―――時貞くん・・・？」

腕の中で大人しくなった小さな身体から、おどおどとした腕が伸びて、俺の髪を慰めるように掬う。

そう・・・いつでも先に俺の心を気遣ってくれる。

―――優しい・・・俺の“唯一”。

この存在を失って、俺は本当に耐えられるのだろうか？

「・・・はぁ・・・」

小さな溜め息が拓の口から零れ落ちる。

呆れられたかもしれない。

それでも、この腕を離す事が出来ない。

きっと、離したら逃げられてしまう。

「―――えっと・・・餞別って言うのは・・・。ゴメン、嘘だから。」

ポツリと呟かれた言葉に、意識が捕らわれる。

その意味を把握できなくて・・・思考が停止する。

「・・・え？」

「だから・・・」

思わず顔を上げたら、何故か頬を綺麗に染め上げた拓の顔が・・・凄く可愛く見えた。

「餞別に託けて・・・僕の想いを・・・って・・・ほんと、ごめん・・・この体勢じゃ・・・。逃げないから、もう・・・離して・・・」

真っ赤になってしどろもどろ言うその姿から、驚くほど目が離せない。

つい、言われる侭に、あんなに放せないと思っていた腕から力が抜けてしまう。

途端に、ホッとしたように息をついて一つ深呼吸すると、その真っ直ぐな瞳が赤い顔の中で綺麗に輝く。

「えっと・・・本当は、渡すつもりもなかったんだ。でも・・・二人っきりで会えるのはもう最後だから・・・。皆の前で渡すのは・・・開けられたら凄く恥ずかしくて・・・。」

ボソボソと小さな声が、零れ落ちる。

ちょっと口を閉ざした拓は、鞄の中から先程の小さな包みを取り出した。

「―――これ。」

硬直したようにその姿に見惚れたまま動けない俺の腕の中に、押し付けられるように渡された・・・それ。

「餞別じゃなければ、受け取ってくれるんだよね！―――じゃ、言い直す。これが、僕の気持ち・・・だから！」

真っ赤になったまま、言い募るその表情は、緊張に強張っているみたいで・・・手の中の包みに視線を移す。

綺麗にラッピングされたそれは、思った以上に軽く・・・何が入っているのか理解らない。

それでも、ギュッと口を結んだまま、大きな瞳だけが答えを待っているようなので・・・促されるように、包みを開く。

中から転がったのは・・・透き通ったカラフルな【金平糖】。

「・・・何、これ？」

目線だけを移動すると、一瞬ビクリとしたその身体が動く。

「えっと・・・その・・・ごめ・・・やっぱ・・・恥ずかしい！」

弾かれるようにそう言うと、小さな身体がその場から飛ぶように逃げ出す。

「あっ・・・」

思わず追いかけようとした途端に、挟まれていた小さな紙が下に落ちた。

ドクンッ！！

それを視線で追った瞬間、見えた文字が、意識を取り込んだ。

拾って、もう一度文字を確認して―――。

次の瞬間には、意識するよりも先に、身体が動いた。

逃げ出した小さな身体を捕まえる為に。

「―――全速力で走ったのなんか・・・何年ぶりだろう・・・」

「・・・ううぅ・・・逃げられなかった・・・」

腕の中、やっとの思いで捕まえた拓に、荒い息で言うと、同じように呼吸を乱した状態の声が返ってくる。

浮かび上がるのは、嬉しい気持ちだけ。

「・・・俺の返事・・・まだ、してない。先に言われるなんて・・・思ってもいなかったから・・・」

俯いたまま、顔を上げてくれない拓の顔を掴んで上げる。

「―――俺も、好き。どうしようもない位・・・手放せない程・・・愛してる。」

少し不安そうに揺れる黒曜石の瞳が、涙で潤んでとても綺麗だから・・・俺は精一杯の笑顔を贈った。

見る見る内に、綺麗な雫が頬を転がり落ちる。

それを唇で拭うと、大きな瞳が零れ落ちそうなぐらい見開かれて・・・見事に赤面した。

「え？・・・あの・・・その・・・」

困ったように、ワタワタと辺りに目線をキョロキョロさせる表情が、物凄く可愛い。

「―――キスしたい。」

だから、思った侭に口にした。

途端に、固まったのを見遣って・・・口元が緩むのを止められない。

今まで、２年以上一緒に居て、拓が誰か他の女の子と付き合ったという話は聞いた事もないし・・・近付く男共は片っ端から排除してきた。

だから、多分・・・。

「・・・俺じゃ、嫌？」

少し声を落として言うと、ブンブンと首が横に振られる。

理解ってて言う俺も、そうとう酷い男だと思う。

それでも、どんなに姑息な手段を使っても、欲しいものは欲しい。

それが、手に入れられるというのなら・・・他には何もいらない。

「えっと・・・その・・・僕・・・初め・・・て・・・・」

少し泣きそうなその唇を、怖がらせないようにゆっくりと摘み取る。

最初は軽く・・・啄むように何度も・・・。

静かに瞳が閉じたのを見て・・・。

そっと重ねた唇は、柔らかくて―――。

キスなんか、何度もした事があるのに、こっちまでドキドキした。

ずっと、夢見ていた瞬間は、涙が出そうなほど、嬉しかった。

「・・・はぁ・・・」

名残惜しむように、唇を離したら・・・赤い唇から吐息が零れ落ちた。

息を止めていたのか・・・大きく息を吸い込んで・・・潤んだ瞳が、酷く色っぽくて・・・またキスしたくなる。

「・・・だ・・・ダメっ！！これ以上は、心臓バクバクして、死んじゃう！」

もう一度、顔を近付けたら、両手で口を隠されてしまった。

余りの事に、一瞬呆気に取られたが、そこがまた拓らしくて・・・苦笑するしかない。

「死んじゃあ・・・困る。俺としては・・・もっと心臓バクバクしちゃいそうな事もしたいんだけど・・・」

「え？えぇ？！これ以上は・・・ムリっ！」

本気で半泣き状態で首を横にブンブン振る様子が、呆れるどころか、涙を誘う。

高校生活２年間・・・恋愛事情を邪魔しすぎたかもしれない。

こんな綺麗な存在を、このまま残して行かなきゃならないなんて、絶対に無理だ。

出発まで、あと２週間。

その間に全てを手に入れられなければ・・・連れて行くしかない。

その瞬間、見事な程に腹が決まった。

「理解った。今夜は、しない。」

「そう・・・良かった。ん？・・・今夜は・・・って。」

渋々言う俺の言葉に、一瞬安堵の表情を浮かべてから、ハッとしたように顔を上げる。

「―――ちゃんと、覚悟付けといて。」

にっこり笑い掛けると、小さな身体からへなへなと力が抜けた。

ポケットの中から、さっき貰った金平糖を取り出す。

袋の中から、二つ取り出して、一つを自分の口に入れて・・・もう一つを拓の口へ押し込む。

「時貞くん？」

「―――甘い。」

キラキラした砂糖菓子は、口の中で簡単に崩れて・・・溶けた。

「うん。甘くて・・・美味しいね。」

ふわりと、浮かんだ拓の表情は、もっと甘く蕩けそうで―――。

生まれて初めて心の底から・・・こんなにも人を愛しいと思えるのだと識った。

夜空には、細い剣のような三日月。

周りを煌くのは、手の中にある金平糖のような星たち。

三日月が、まん丸になる頃には、自分はこの“地”にいない。

地元に残る拓と・・・ここを離れる自分。

音楽の世界で頂点を目指すのを決めた事について、後悔は少しも無い。

それが、ずっと長い間望んできた“自由”でもあるから。

自分の力だけで何処まで翔べるのか・・・試してみたい。

根無し草の様に、ゆらゆら流れて行くだけではなく、こうして帰る場所が出来た今なら、どんな夢も叶えられる気がした。

“時貞くんが何処に行っても、夜空にはこの金平糖のような星が一杯あるから。星を見たら、僕を思い出して。忘れないで―――大好き。”

小さな紙に小さく書かれた、大きな“想い”―――それは、時貞が一番欲しかった【詞（もの）】。