拝啓。天国にいるお父さん、お母さん。
二人が突然の交通事故で亡くなって、早半月が過ぎました。
茫然としている間に、初七日も過ぎてしまい、改めて僕は自分が天涯孤独な身の上である事も知りました。
葬式会場で僕を押し付け合う遠い親戚の人たちの言い争いを見て、怒ってくれたのは、お父さんの教え子で、わざわざ焼香をあげに来てくれた聖誠さんという男の人でした。
お父さんに昔、散々世話になったから、成人するまで家に来ればよいと、優しい声で言ってくれて・・・その言葉に、思わず子供みたいに大泣きしてしまいました。
泣きじゃくる僕の背中を押してくれて、その人は色々な手続きも全部やってくれました。
職業はお父さんと同じ教師で、隣町の有名な中高一貫の私立の学校の先生をしていると教えてくれました。
ずっと側にいてくれたヒロシちゃんは、胡散臭いとずっと反対してたけど・・・。
凄く優しくて、綺麗な瞳をしてる人を疑いたくないし、このままでは会った事も無い遠い親戚の家に厄介者としてお世話にならないといけないようなので、心を決めました。
僕に出来る精一杯でお返しして、誠さんのお世話になろうと思います。
お父さん、お母さん。
新しい生活に飛び込む僕を、どうか見守っていて下さい。
―――そう、意気込んできたんだけど・・・。
肩から掛けたボストンバックを抱えて、拓は口を大きく開けたままポカンとしてしまった。
浅川拓、１５歳。
中３男子の平均身長には届かない小柄な身体が、更に縮こまる。
大きな黒曜石のような瞳が、顔から零れ落ちそうな状態で、キョロキョロと周りを見回す。
だが、どう見ても巨大で重厚な門は自分の身長以上あるし、拓を拒むかのように存在している。
余りにも立派な門構えに、思わず表札を確認し直した拓は、そこに刻まれている聖という名に、ちょっとだけ涙目になった。
どちらかと言うと、引っ込み思案で人見知りが強い性格の拓では、チャイムを押すのも凄い勇気を必要とするような場所なのだ。
「―――誰だ？」
「は・・・はいぃ？！」
こっそり帰ろうかな・・・と考えていた拓は、背後からいきなり掛けられた声に、ビクッと硬直した。
心臓が口から飛び出るかと思うほど、驚いた。
「ウチに何か用か？」
「・・・あ、あの・・・まこと、さ・・・っ？！」
家の人なら取り次いで貰おうと、慌てて振り返った拓は、その場で固まった。
目の前に立っていた人物の、想像外の容姿に、ザーッと全身から血の気が引いていく。
一番最初に目に入ったのは、左頬に刻まれた大きな傷跡で、それから真っ赤な髪色に思わず拓は一歩後ずさってしまった。
「――――あぁ？誠？」
一瞬で目付きが鋭くなったのと、眉間に刻まれた皺と、不機嫌そうな相手の声に、拓はアワアワと目線を逸らす。
余りにも怖くて、ガクガクと膝が笑う。
逃げる事も声を出す事も出来なくて、目の前が暗くなっていく。
「あー、龍也ぁ！なーに、家の前で一般人脅してんだよぉ？！」
今にも意識を失いそうだった拓は、降ってきた明るい声に救われた。
「てめー、真里！人聞きの悪ぃ事言ってんなっ！誰が、脅してるかよ！？」
「えー、その貌で睨んだら駄目じゃん！ほら、この子こんなに怯えて・・・って」
何処から現れたのか、いつの間にか門の上に乗っていた金髪の少年が、拓の目の前に飛び降りてくる。
そうして、呆然と凝視する事しかできなかった拓の傍にきた相手は、マジマジと拓を見詰めて・・・。
「うっわー、君、可愛いねっ！すっげー、俺のタイプ♪ねぇねぇ、名前教えてよ。俺は、聖真里。マー坊って呼んで！」
ギューッと拓を抱き締めてそう宣まった。
「・・・・・・」
突然の出来事に、拓は大きく瞳を見開いたまま絶句した。
「あれー？君って随分と・・・」
「―――拓、ちゃんっっ？！」
キョトンとした少年が小首を傾げた瞬間、巨大な門が開いて中から慌てたように青年が飛び出してきた。
その相手が、漸く目的の人物だったので、拓は一瞬でブワッと涙を浮かべた。
「・・・誠、さんっ！」
「マー坊、その手、放してあげて！」
抱き締められている状態だったので、目線だけで救いを求めると、気付いた誠が声を掛けた。
「えぇー？誠兄さんの知り合い？！」
プーッと頬を膨らませながら腕が離れると、代わりに大きな掌が、慰めるように肩に置かれる。
「―――駅まで迎えに行けなくてごめんよ。ついさっき留守電に気付いたから・・・慌てて車出そうと思って出てきたんだけど・・・」
そうして、労わる様に引き寄せられる。
優しい仕草は、一緒にいてくれた３日間と全く変わらない物だったので、緊張にガチガチになっていた拓の心が解れていく。
「・・・っ・・・」
ポタッと雫が地面に落ちる。
同時に暖かな腕が護るように拓を包み込んだ。
「・・・大丈夫だよ、拓ちゃん。よく来てくれたね。今日から、君は俺の家族だから・・・。もう、泣かなくて良いよ。
耳元で囁くように穏やかに告げられた言葉に、縋るように指先で服を掴むと、その手に大きな手が重なった。
「―――――？！」
「えぇーーーーーっ？！」
直ぐ側で、息を飲み込むような気配と、驚いたような声が上がった。
「・・・ま、誠兄さん・・・？」
「―――ま、ま、ま、まさか・・・？！」
訝しむような声と、狼狽する音が辺りに響く。
「ん？何、マー坊？それに、龍也も変な顔してどうしたんだ？」
拓を腕に抱いて、その涙をポケットから取り出したハンカチで拭ってやりながら、挙動不審な二人に目線を向けながら発せられた、おっとりとした誠の声が、不思議そうな音を含む。
「あぁ、そうか。紹介がまだだったね。この子はね・・・」
そう続けた誠の言葉が、拓の耳に遠く届く。
余りにもドキドキする事が多過ぎたので、一度切れた緊張の糸はそのまま身体の均衡まで崩したようだった。
「―――拓ちゃん？！」
驚いた声と共に、グラッと傾いた拓の身体が、力強い腕に抱きとめられた。
声を出そうとしたけれど、拓の意識はそのまま真っ白な世界に引きずり込まれてしまった。
額に触れる冷たい感触に、拓はゆっくりと目を覚ました。
そうして、見覚えの全くない景色に、横になったままぼんやりと辺りと見回した。
チリーン・・・と、何処かで風鈴の音がした。
「―――気付いた？」
ゆったりとした声に、目を見開く。
視線を向けると、柔らかな微笑を浮かべた誠が、添い寝するような格好で団扇を片手にそこにいた。
「・・・ぁ・・・っっ！！」
慌てて起き上がろうとした途端に、また目の前がクラッと霞む。
「まだ、無理しない方が良いよ。軽い熱射病みたいだし・・・。この暑い中、随分、家の前で待たせちゃった？」
崩れそうな拓の身体を支えて、布団に戻しながら、誠が苦笑する。
「・・・ご・・・ごめん・・・なさい・・・」
余りにも恥ずかしくて、拓は涙ぐみながら掠れた声で謝る。
「こら。こーゆー場合は謝るんじゃないだろ？」
「・・・え？」
優しい指先が、そっと目尻を拭う仕草に、真っ赤になったまま拓は瞠目する。
「あ・・・あの・・・」
「―――もっと、甘えてくれて良いんだよ？」
どうしてこんなに優しくしてくれるのかが不思議で、拓が質問しようとすると、その先を読んだかのように誠は見惚れそうな笑顔でそう告げた。
「・・・どうして・・・？」
拓の口から零れ落ちたのは純粋な疑問。
いくら恩師の息子だからと言って、ここまで親切にしてくれるのが本当に理解らなくて。
そんな拓の頬を、長くて綺麗な指先が撫でる。
その眼差しが、余りにも真摯だったから、拓はどうして良いのか理解らなくなった。
「―――誠・・・さん？」
息苦しくなりそうな雰囲気に、思わず問い掛けようとした時だった。
ミシッ。
『わ・・・、バカ、押すなっ！』
『―――って、よく見えないぞ・・・』
障子が軋む音と共に、微かな声が聞こえてくる。
「・・・はぁ・・・」
軽い溜め息を付いて、誠は立ち上がるとそのまま一気に障子を開け放った。
「うわっ？！」
「・・・っっ！」
「いたっ！」
途端に部屋の中に崩れるように入ってきたのは三人。
その内の二人は先程門前で出会った二人だった。
そうして、もう一人。
＜――――ええぇ、紫？！＞
それぞれのカラフルな髪色に、拓は大きく目を見開いてガバッと起き上った。
同時に、視線がぶつかる。
鋭い視線は、瞳が合った途端に、フイッと逸らされてしまった。
「今度は、薫くんまで？」
「―――いや・・・こいつらが、アンタが女を家に連れ込んだって言うから・・・」
コホンと咳払いして、困ったように言葉を発した誠に、紫の髪をした人物がふて腐れたようにそう答えた。
「―――はぁ？」
「・・・え？」
思わず毀れた誠と拓の声が重なる。
二人して顔を見合わせて・・・。
「ちょっ、何、勘違いしてっ？！」
「・・・違いますっ！！・・・っ！」
否定の言葉は同時に出た。
真っ赤な顔のまま叫んだ所為で、拓はまた目の前が掠む。
「あぁ、拓ちゃん！」
慌てたような誠の声が部屋の中に響いた。
１０分後。
漸く落ち着いた拓は布団の上で正座していた。
「あ・・・あの・・・拓ちゃん？そんなに畏まらなくても・・・」
隣にはオロオロしている誠が、困ったような表情でどうにか拓の正座を止めさせようとするのだが、拓にとっては最初の挨拶は大事なのだ。
これからお世話になる身として、最低限のマナーはしっかりと守りたい。
「―――浅川拓と言います。何もできない不束者ですが、これからどうぞよろしくお願いします。」
深々と頭を下げて、自己紹介する。
大まかな説明は、誠がやってくれたので、それ以外に告げる言葉を持たなかった。
顔を上げた拓は、目の前の三人の複雑そうな表情に顔を曇らせる。
どう見ても歓迎されていないような雰囲気に、思わずギュッと胸を抑える。
やはり来ない方がよかったのだろうか・・・そんな事を思った瞬間、赤い髪の人物が深い溜め息を吐いた。
誠にしてもらった紹介では、この家の３男で龍也という名らしい。
「・・・誠。」
ジロリと睨むような目線を龍也が向けたのは、長男である誠にだった。
「何？龍也。」
「何、じゃねぇよっ！あれだけ、所構わずにほいほい拾ってくんなって言ってんだろーがっ！」
キョトンとした顔の誠に向かって、空気がビリビリするような怒声は、完全な拒絶。
ガーンと後ろから頭を殴られた様な気がして、拓は蒼褪めた。
「えー？良いじゃん！俺は誠兄さんに賛成ェー。だって、この子可愛いもん。」
「真里！てめぇは黙ってろ！」
今にも兄弟喧嘩が始まってしまいそうな剣幕に、拓は大きく瞳を見開いて凍りついた。
「・・・あ、あの・・・ごめんなさいっ！！」
立ち上がって、部屋の隅に置いてあったボストンバックを両手で掴むと、大きく頭を下げて踵を返す。
「―――待って！拓ちゃん！」
部屋を出ようとした手が、誠の手に止められる。
「何処に行くって言うの？！」
「・・・帰ります。あの、ボク・・・やっぱりここに来ない方が良かったんですよね？ごめんなさい・・・優しい言葉につい甘えてしまって・・・」
誠の問い掛けに、震える声でそう告げる。
精一杯の強がりでそう口にすると、重ねられた手を外す。
俯いたまま障子を開けて部屋の外に出た所で、ドンッと何かにぶつかった。
「・・・っ！」
転びそうになった所を、ガシッと腕を掴まれて助けられる。
「ご・・・ごめんなさ・・・」
思わず飛び込むような形になってしまった事を謝ろうと顔を上げた拓は、途中で声を詰まらせた。
オールバックにサングラスという、どう見ても堅気の者ではないその雰囲気に、硬直する。
誠が余りにも純朴な好青年のような容姿なので、全く想像もしていなかったのだが、自分はとんでもない場所にいるのではないかと今更ながらに気付いたからだ。
「・・・春樹。おかえり。」
「あぁ。所で、誠。これ、何だ？」
「これ、じゃなくて・・・拓ちゃんだよ。」
「拓って・・・あの？」
ぶつかった拍子に拓が落とした荷物を拾った誠が、笑顔を向けると、低い声がその強面から零れる。
説明を求めた声に、誠は拓の名を口に乗せる。
途端に、頭の先からジロジロと見られて、拓は生きた心地がしなかった。
「そうか。俺は、この家の二男の春樹だ。宜しくな。」
ビクビクする拓の頭に、大きな掌が乗ってクシャッと髪を撫でられた。
その思ってもみなかった行動に、拓の目が大きく見開かれる。
心持ち屈みこむようにして、目線を合わせてから外されたサングラスの下の目は、誠と同じ優しい色を滲ませていた。
「ん？何、泣いてんだ・・・？」
「あ・・・」
無意識に盛り上がったそれを、ゴシゴシと手で擦る。
そんな拓の肩に、ポンと誠の手が乗せられる。
「じゃあ、拓ちゃんの部屋に案内するよ。」
「え？あの・・・でも・・・」
にーっこり笑って告げる誠の台詞に、拓はオロオロしてしまう。
途端に、スパーンッ！と凄まじい音がして、障子が開かれた。
「ちょっと、待てーーーっっ！！」
怒髪天を衝くの勢いで開け放たれた障子が、ビリビリと震える。
思わずビクッと身を竦めてしまった拓を、誠が護るように抱き込むと、そんな二人を庇うかのように春樹は龍也の前に立ち塞がった。
「何だ？騒々しい。」
「どう考えても、可笑しいだろ？！犬や猫ならまだしも・・・そんな子供・・・」
「別に拾ってきた訳じゃないだろう？それに・・・」
そこまで言って、春樹は誠に目線を流した。
互いの視線が絡むと、それは一瞬で離れた。
「―――誠の望みなら、俺は構わない。」
きっぱりと言い切る春樹の迫力に、龍也はグッと息を飲んだ。
「勝手にしろっ！」
怒ったようにそう告げると、龍也はドカドカと廊下を足音を立てながら立ち去ってしまった。
「気にしなくても良いからね。」
困ったようにその背を見詰めていた拓に向かって、誠は柔らかな微笑を向けてそう言った。
「誠・・・あいつに説明してなかったのか？」
「え？俺、皆にちゃんと言ったよね？十日くらい前・・・」
「―――一十日前？って、三日ほど行方くらましてたあの時か？」
「そうだよ。今度、俺に新しい家族が増えるかもしれないから、宜しくね・・・って。」
「その翌日に、拾ってきたよな・・・子猫。あれの事じゃ、無かったのか・・・」
「―――オレも、チビの事だと思ってた・・・」
「もう良い。あれ以外言ってないんじゃ、あいつが怒っても仕方ない。後で、言っとく。」
嘆息して、春樹が纏める。
「ねぇねぇ、拓ちゃんて、ほんとーに誠兄さんの彼女じゃないの？」
真面目な雰囲気をぶち壊したのは、明るい声だった。
「幾ら恩師の子供だからって、前から知ってた訳じゃないんでしょ？もしそうなら、俺等も知ってる筈だし・・・。でも、それにしちゃ随分親密じゃない？」
「か・・・彼女って・・・ボク、男ですからっ！」
続けられた声に、拓は真っ赤になって抗議する。
「ぎゃっ！！」
「・・・ほんとだ。胸無いや。さっき抱き締めた時、随分スレンダーだなとは思ったけど・・・誠兄さんの趣味かな・・・てぇ！イタイ、イタイ！！」
抗議した途端に、ギュッと胸を触られて拓が悲鳴を上げると、変な風に納得していた真里の頭に誠と春樹の拳骨が落ちた。
「―――本気で怒るよ、マー坊・・・」
「ごめんなさい・・・」
メッと表情を変える誠に、真里はしょぼんと肩を落とす。
「拓って名前で女な訳ねぇだろ？それに、こんな子供に手ぇ出したら犯罪だろが。」
「緋咲はそう言うけどさぁ・・・あ、じゃあ俺より年下？！やったぁ！」
冷めた目線で告げられた言葉に、真里はニコニコと笑顔を浮かべた。
「あれ？あぁ・・・そう言えば、言ってなかったっけ。年下じゃなくて、マー坊とは同じ年だよ、拓ちゃん。」
「「「「え？！」」」」
言った誠以外の全員の声がハモった。
「・・・高校生じゃないんですか・・・？」
「俺と同じ年って、中３？！」
「・・・嘘、だろ？」
「―――小さいな。」
呆然と呟いた拓の言葉に被さる様に、それぞれの感想が零れ落ちる。
中には拓にとって聞き捨てならない物もあったが、驚いている拓にはそこまで意識が回らなかった。
「うん、そうだよ。だから、新学期からはマー坊と一緒に学校に行く事になる。もう手続きも済ませてあるし、来週には制服や教科書も揃うから。マー坊も、ちゃんと拓ちゃんに色々と教えてあげて。」
「・・・理解った！そっかぁ、同じ年なんだ。じゃあ、一杯仲良くしようね、拓ちゃん！」
スッと差し出された手に、拓は戸惑った。
どうすれば良いのか救いを求めるように視線を流すと、誠がニコニコしながら頷いた。
「あ・・・あの・・・宜しく、お願いします。」
そっと手を重ねて深々とお辞儀すると、その手がギュッと握りしめられた。
「ね、誠兄さん！拓ちゃんの部屋って何処？！」
「―――俺の部屋の隣。あそこなら、何かあってもすぐに呼んでもらえるからね。」
「んー、分かった！じゃあ、俺が案内するよ。良いでしょ？誠兄さん。」
「・・・それは・・・」
珍しく言い淀む誠の視線が拓を捉える。
心配そうなその眼差しに、拓は急に不安になる。
「否。ここは、誠が連れて行け。お前じゃ屋敷の中の案内もせずに、真っ直ぐ部屋にだけ連れて行きそうだしな。後々、迷わないように最初にちゃんと教えないと。」
口を挟んだのは春樹だった。
「えー？！俺だってちゃんと案内できるよぉ！」
「うん。でもまぁ、今日は色々騒がせちゃったし、そろそろ拓ちゃんも疲れただろうから俺が案内するよ。さ、・・・おいで。」
プーっと頬を膨らませる真里に言い聞かせるようにそう言うと、誠は拓の荷物を持ったまま、反対の手で拓の右手を掴んだ。
「・・・はい。」
自分を気遣ってくれる誠の言葉に、拓は安堵の表情を浮かべてその手をそっと握り返した。
大きな門構えは伊達ではなかった。
拓だって今まで一軒家に住んでいたのだ。
だがこの家の広さは拓の想像以上で、一回ではとても覚えきれない程の場所を通り過ぎて、拓が案内されたのは八帖畳の部屋だった。
「ここが、拓ちゃんの部屋だよ。」
「―――・・・」
部屋の入り口で、拓はポカンと口を開けて立ち止まってしまった。
「本当は洋間の方が良いんだろうけど・・・古い家だから空いている部屋もこんな場所でごめんね。新しく増築した別邸の方に皆は居るんだけど・・・俺はこっちの本宅の方が馴染んでっていうか、落ち着くから。隣が俺の部屋なんだけど・・・」
そう言って襖を開けた奥は、確かに落ち着いた雰囲気の部屋で、持ち主の気質そのままに柔らかい空間が広がっていた。
全体的に和で纏められているけれど、その中にシックな色のパソコンやオーディオなどが置かれている。
本棚の中には先生という職業そのままに、難しい専門書や問題集や教科書などがきっちりと整頓されて収められていた。
「必要な物や、欲しい物があったら遠慮しないで言って。出来る限りの事はするから・・・」
持っていた荷物を置いた誠が拓を見てそう告げる。
「あ・・・あの。本当に、どうして、こんなに良くしてくれるんですか？」
夢を見てるみたいで、拓はギュッと胸を抑えて問い掛ける。
幾ら恩師の息子だからって、ここまでされる謂れはない筈だ。
身寄りのない自分を同情してという理由にしても、余りにも親身になってくれる誠に、拓はどうしてよいのか理解らなくなる。
「だって、幾らお父さんが恩師だからって、会った事も無い僕に貴方がここまでしてくれる意味が・・・僕には、理解らないんです。」
辛そうに眉を寄せて、拓は疑問を口にする。
こんなに優しい人を疑う訳ではないけれど、素直に好意を受け入れるには自分が何も持っていない事を知っているから。
組んだ指先に力が入る。
どんな答えが返っても大丈夫なように、心に重石を乗せる。
多くを望むには、自分は力が無さ過ぎるから―――。
そんな拓を見て、誠は一瞬だけ困ったように眉尻を下げて・・・それから、少しだけ息を吐いた。
「うーん・・・浅川先生には、本当に恩師って以上にお世話になっちゃったし・・・それに、俺が拓ちゃんと会ったのは、実は先月が初めてじゃ無いんだよ。」
「・・・え？」
「―――拓ちゃん、小っちゃかったからもう忘れたかもしれないけど・・・俺が今の君よりももう少し若くて・・・１２才の時に、一緒に暮らしてたんだ。一か月だけだけどね。君はまだ３才になったばっかりで・・・」
遠くを見る様な目付きで、誠は息を吐くように言葉を紡いだ。
「あの頃、色々な事があって、でも何の力も無い自分じゃどうしようもなくて、途方に暮れていた所に、手を差し伸べてくれたのが、浅川先生だった。」
「お父さんが・・・？」
「うん。でも、壊れそうだった俺の心を救ってくれたのは、小さかった君なんだ。」
「・・・えぇ？」
「―――お兄ちゃんって、懐いてくれて・・・凄く可愛くて・・・」
ニコッと微笑う誠に、拓は絶句して真っ赤になってしまう。
全く記憶に残っていない過去の話に顔から火を噴きそうな気がした。
「あ・・・あの・・・」
「出来る事なら、ずっと一緒に居たかったんだけど・・・そういう訳にもいかなくて。浅川先生の家を出る時に、泣きじゃくって縋る君を置いていくのが本当に辛かった。だから・・・ね。」
柔らかな笑みが誠の表情を形作る。
「俺を信じてくれる？」
請うように告げられた真っ直ぐな瞳が、拓を映している。
その瞳を見返して・・・拓は小さく頷いた。
「・・・忘れてしまってて・・・ごめんなさい。」
口を付いたのは謝罪。
物心さえついていたかどうかの頃に出会った相手だと言われて、実感は全くないけれど・・・それでも誠が嘘を付いているとはとても思えなかった。
「ううん。だから、俺の事は本当の兄だと思って甘えてくれると嬉しいよ。」
「・・・っ！」
優しく言われた台詞に、拓は声を詰まらせる。
「拓ちゃん？」
「ぼ・・・ボク・・・一人っ子だったから、凄く兄弟に憧れてて・・・。」
唯でさえ、両親が無くなってから、この世界に一人ぼっちで置いてきぼりにされてしまったような思いをずっと抱いてきたのだ。
もしも兄弟がいれば、こんなに心細くはなかったと叶う筈も無い願いを何度願った事だろう？
誠の言葉は、そんな拓の弱い部分を救い取ってくれた気がした。
「そっか・・・」
「・・・夢、みたい・・・です。」
今度こそ耐え切れなくて、ポタポタと涙を零す拓を、誠はそっと抱き締めてくれた。
「今度は、俺が君を守るよ。だから、辛い時は我慢しなくて良いから。」
耳元で囁く声が優しい。
「―――はい。」
包み込まれるような感覚に、拓は甘えるように擦り寄る。
そんな拓を、誠はギュッと抱き締める。
漸く取り戻した宝物を、二度と離さないとでも言うかのように。
一頻り泣いた拓が、鼻を赤くしたまま、照れたように顔を上げる。
見詰める誠の優しい眼差しに支えられるように、唇を開く。
「あ・・・あの・・・。」
「ん？」
「呼んでも良いですか？」
「―――何？」
真っ直ぐに向けられる瞳に、少し小首を傾げた誠が聞き返す。
「・・・誠、お兄ちゃん？」
そっと息を吐くように小さく告げられて、誠の目が丸くなる。
それから、拓の目の前で見る見る内に顔が赤くなっていく。
「・・・っ！！」
思わずといった風に、誠は片手で赤くなった顔を隠すように覆った。
それから、天井を仰ぎ見るように上を向いてから、ぼそぼそと何かを呟いた。
「・・・あ・・・あの・・・やっぱり、駄目ですか？」
「・・・・ぅ・・・」
急に馴れ馴れし過ぎたかと拓が不安に尋ねると、誠の顔が拓に向けられた。
顔だけじゃなくて、耳や喉まで真っ赤になっている誠が、フルフルと首を横に振る。
「―――ちょっ・・・ちょっと、待って。今、落ち着くから・・・」
そう言うと、誠は拓の目の前で何度も深呼吸を始める。
３回ほど吸って吐いてを繰り返してから、誠の目線がやっと拓を捉えた。
「ごめん・・・。不意打ちだったから、全然心の準備が出来てなかった・・・」
「え？」
「もう一回、言って。」
まだ少し赤い顔のまま誠が強請る。
「呼んで。もう、一回、俺の事。」
お兄ちゃんと呼んだ事を怒っていないのだと理解って、拓も安心したように破顔する。
「・・・誠お兄ちゃん。」
笑って拓が言葉を発すると、誠は感極まったように拓をギュッと抱き締めた。
「ああもう、俺、拓ちゃんの為なら何でもしてあげるからっ！」
叫ぶようにそう言った誠の腕の中で、拓は本当に幸せそうに微笑った。
この人の傍なら、安心できる。
それは、両親が死んでから初めての安らぎだった。
窓から差し込む夕焼けがやけに眩しくて、拓は誠に身体を預けるようにしたままそっと瞳を閉じた。
それは、拓が聖家に訪れた最初の日の出来事。
一癖も二癖もある兄弟に囲まれて過ごす事になる、第一歩でもあった。