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紅藍の双玉
窓の外は、相変わらず白い空間が広がっていた。
北の王国は、一年の半分以上を雪に覆われる。
特に今の時期は、灰色の空に覆われていて、何日も雪が降り続けることも珍しくない。
しかもトキサダの家は、王国の中でも極寒の地に存在していた。
世界が白い空間に閉ざされる『場所』。
自分が家族と認めている“兄弟”とだけ過ごせる、唯一の“オアシス”。
尤も、今年の休暇は、思ってもいなかった客に出会ってしまったが・・・。
作業していた腕を止めて・・・トキサダは顔を上げた。
隣の部屋の気配は、相変わらず静かなままだ。
一日の大半を寝室のベッドの上で過ごさなければならない程・・・ルビィは衰弱していく一方だった。
まず、この家にあるどんな食べ物も受け付けなかった。
口に含んでも、飲み込むことができなくて・・・すぐに吐き出してしまう。
生の果物なら、食べられるらしいのだが・・・生憎と頼んでいた食材の中に、それらは入っていなかった。
取り敢えず、水と・・・果実酒を少しずつ与えたが・・・一日・一日と弱っていくのが、手に取るように理解る。
どうすれば良いのか全く理解らなかったし・・・他人に会うのが嫌で、わざわざ閉じこもっているこの家から、外に連絡できる手段は整っていなかった。
唯一この極寒の地まで来れる、法外な料金を払って契約している、“運び屋”だけが・・・今の頼みの綱だった。
今日は、１０日に一度の、頼んだ荷物を持ってくる日なのだ。
何も出来ない焦燥を、仕事をする事で気を紛らわせながら・・・トキサダは朝から待ち続けていた。
「―――オーーーッス！！生きてっかぁ、トキサダァ・・・！！」
漸く待ちに待った相手が現れたのは、いつもの約束の時間よりも遅かった。
「・・・遅いっ！―――キヨシ？・・・ヒロシはどうしたんだ？」
「・・・あぁ、悪ぃ・・・悪ぃ・・・ちょっと、あいつはヤボ用があってな。んで、これが、今回頼まれた荷物。」
肩に担いでいた大きな木箱を、ドッコイショッと下に降ろす。
それが並の重さではないのは、下に置かれた途端に、家が震動で揺れた事から理解る。
額から流れた汗を拭うと、豪快に笑う。
「んで？次の荷物のリストは？・・・ヒロシの奴は多分当分来られねぇから・・・あんま、無茶な注文は受けらんねぇぞ。」
荷物運びで鍛え抜かれた丸太のような太い腕が、伝票を差し出してくる。
注文したリストを確認したトキサダは、その中にやはり望んでいた品物が無いことを確認して、眉を顰めた。
「―――キヨシ・・・お前が運んでる荷物・・・今日はウチだけか？金は幾ら掛かっても良いんだが・・・生鮮系の・・・生の果実とか・・・。」
伝票を握り締めた途端、低く問い掛けるトキサダに、運び人のキヨシはビクッと後ずさる。
トキサダの赤い瞳が、凄みを帯びていたからだ。
「へ？・・・果実？・・・んなの・・・荷物ん中にあったかなぁ・・・？あ・・・あぁ！！そういや、ヒロシの奴が・・・わざわざ取り寄せた・・・確か自分の荷物の中に・・・」
「・・・寄越せ。」
「え？・・いや・・・だから・・・勝手には・・・」
「―――金は幾らでも払うっ！！一刻も早く果物が欲しいんだ・・・できれば、今すぐにでも・・・！！」
切羽詰ったようなトキサダの言葉に、キヨシは目を丸くする。
大体、生野菜が嫌いだからって・・・態々、サラダの葉物まで取り除かせる男が、突然ベジタリアンにでもなってしまったというのだろうか？
自分の胸倉を掴んで、こんなに激しく感情を表すトキサダなど、長い付き合いの中で初めて見る姿だったので、キヨシは酷く驚いた。
「・・・でないと・・・ルビィが・・・」
キヨシの胸倉を掴みながら、絞り出すように吐き出されたトキサダの言葉に、強く意識を捕らわれる。
その言葉を、キヨシはつい最近・・・何処かで聞いた気がしたからだ。
「―――ルビィ？・・・あ・・・ああっ？！」
大きく目を見開いて、キヨシが大声を上げる。
「ちょっと、待てっ！トキサダ・・・！！手を離せって！！ヒロシに連絡すっから・・・ちっと待ってろ！！」
毟り取るようにトキサダの腕を剥がすと、キヨシはドアから飛び出すように外に出て行く。
「・・・キヨシ・・・？」
解放されたドアの外・・・白い空間に、キヨシの愛機が止まっている。
「・・・だか・・・ら・・・お前ん・・とこ・・・サフ・・・が・・・」
風の音にところどころ消されながら、大きなキヨシの声が聞こえてくる。
「―――あぁ？・・・じゃあ、渡しても・・・構わない・・んだな・・・えぇ・・？―――なんだってぇ・・・あかい・・・きゃ・・・ダメ・・・？こっち・・る・・・？アホかっっ！どれだけ離れてると思ってやがる！！」
ガチャっと、何かを叩きつける音がする。
最後は、何故か怒鳴りつけるようだったので、そのまま聞こえた。
ドアに凭れて、そんなキヨシをじっと見ていたトキサダの前で、キヨシはトランクを開けて・・・幾つかの袋を取り出した。
それを大事そうに、懐に抱え込むと、トキサダの傍に戻ってくる。
「―――ほらよ。この寒さだと、直にダメになっちまうから・・・急げよ。」
「・・・あ・・・あぁ。じゃあ、金を・・・」
「今は、良いからっ―――切羽詰ってんだろ！持ってって、やれ。」
その声と、腕で背中を押されて・・・トキサダは躊躇する。
「・・・理解ってる。ヒロシの野暮用も、それが原因だ。・・・多分、あいつが探してた、仲間がいるんだろ？」
続けられた言葉に、初めてトキサダは大きく瞳を見開いた。
そうして、手の中の袋を見つめる。
―――これなら、大丈夫なのだと・・・そう理解した。
「―――ルビィっっ！！」
踵を返して、トキサダは渡された袋を大切に抱えて・・・寝室に飛び込んだ。
ベッドの中にいるのが、すっかり馴染みの姿になってしまったルビィは・・・蒼白い顔のままぐったりと横になっていた。
その姿は今にも儚く消えてしまいそうだ。
トキサダは急いでベッドの脇の椅子に座り込んだ。
袋を破いて・・・中に入っていた果実をルビィの顔の傍に持っていく。
シーツの幾つか転がり落ちたのは、今は綴じられているルビィの瞳と同じ大きさの紅玉の塊だった。
甘い匂いが、部屋の中に充満する。
匂いに気付いたルビィが、弱々しく瞳を開ける。
「・・・イチ・・・ゴ・・・？」
今にも消えそうな声が、唇から漏れる。
そうして、儚げな笑みが浮かぶ。
ツーと零れ落ちたのは、涙だ。
「・・・イチゴ？・・・そうだよ・・・これなら、食べられるんだろう？ほら・・・」
唇にくっ付けても、ルビィが口を開けることはない。
もう、物を食べるだけの力も残っていないのだ。
きつく唇を噛んで、トキサダは涙を堪えた。
出会った時よりも、更に儚く小さくなってしまった身体。
一週間という時が、ルビィの体力を総て奪ってしまった・・・。
「・・・固形がダメなら・・・こうして果汁にして・・・」
思った以上に柔らかかった果物を、掌で握りつぶして唇に垂らしても・・・ルビィは涙に潤んだ悲しい瞳でトキサダを見詰めるだけだった。
その瞳が、翳りを帯びる。
「・・・あり・・・が・・と・・・でも・・・もう・・・」
「―――駄目だ・・・ルビィ・・・仲間に会いたかったんだろう？俺の知り合いの所に、居るんだ！！この果物もそいつが・・・だから、死んじゃ・・・駄目だ。」
祈るように、華奢な身体を抱き起こす。
自分の力で飲めないのなら、直接飲み込めるように・・・摂取できるように。
転がっていた果物を２・３個掴むと、潰してその汁を口に含む。
そのまま、トキサダはルビィの色を失った唇に口付けた。
指先で軽く顎を抑えて、薄く開いた口内に、舌を使って甘い液体を流し込んでいく。
少しずつ、馴染ませるように舌を絡めて味を伝えると・・・漸く舌が応えた。
小さな舌が動いて、コクンと嚥下する。
「・・・ん・・・もっと・・・」
果汁で赤く濡れた唇から、ねだる様に舌先が覗く。
望むままに、トキサダは口に含んだ果汁を、ゆっくりと少しずつ与えていった。
「・・・ふぅ・・・」
吐息と共に、甘い息が漏れる。
口移しで何度か果汁を飲んだルビィは、漸く落ち着いたような表情で瞳を開いた。
その紅玉が、鮮やかな色を取り戻している事に、気付いてトキサダも緊張を解く。
「―――ルビィ・・・？」
「・・・おいし・・・かった・・・ありがと・・・。」
ふんわりと花が綻んだように浮かべられたのは、紛れも無く笑顔で・・・。
青白かった肌に、ほんのりと色が戻る。
「あぁ・・・良かった・・・。本当に・・・」
泣きたくなるぐらい切なくて・・・胸が苦しくなる。
トキサダは、腕の中の身体をそっとベッドの上に戻した。
そうして、乱れてしまった毛布を掛けなおしてやる。
「―――トキサダ・・・？誰か・・・居る・・・？だれ・・・？」
漸く呼吸を整えたルビィが、小さく声を出す。
そうして、トキサダもその存在を思い出した。
「そうだ・・・！―――キヨ・・・シ？！」
振り返ったトキサダは、真っ赤な顔のまま壁にへばり付いていたキヨシの姿に声を途切らせた。
「―――お・・・いや・・・俺は何も・・・何も、見てないからな・・・！！」
顔面を覆って、必死に首を横に振り続けるキヨシに、トキサダは苦笑する。
「あぁ。まだ、礼を言ってなかったな。助かった・・・。ルビィ・・・彼は、キヨシ。果物を持ってきてくれたんだ。」
「・・・イチゴを・・・？あぁ・・・ありがとう・・・」
ベッドの上、横になったまま小さく笑ったルビィに、キヨシは目を見開いた。
「―――サフィ？・・・え？・・・いや・・・違うか・・・でも・・・」
「キヨシ？」
近付いて顔を覗き込んでブツブツ呟くキヨシに、トキサダが声を出す。
ルビィも、大きく瞳を見開く。
「・・・サフィ・・？サフィを、知っている・・・の？サフィ・・・どこ？」
慌てて起き上がろうとするルビィを、トキサダが支えてやる。
「ルビィ・・・落ち着いて・・・。」
死にそうになっていた身体の何処にそんな力が残っていたのか・・・必死に腕を上げて縋り付こうとするルビィをトキサダが抱え込む。
赤い瞳から、ポロポロと大粒の涙が零れ落ちた。
「・・・何処って・・・そりゃ・・・ヒロシの・・・」
「―――ルビィっっ！！」
途方に暮れたようなキヨシが何か言うよりも早く、部屋の中に飛び込んできた物体が、ベッドの上に飛び乗った。
そうして、トキサダの腕の中からルビィを奪い取ると、あっという間に抱きしめる。
「良かったっ！・・・ルビィ・・・ルビィ・・・探した・・・ずっと探したんだよぉ・・・」
「さ・・・サフィ・・？ほんと・・に・・・？―――サフィ！！」
真っ青な瞳からポロポロと涙を零して、ルビィを抱き締めていたのは・・・髪と瞳の色以外はルビィとそっくりの少年だった。
緋色の髪に紅玉の瞳を持ったルビィとは、本当に対照的な―――藍玉の瞳に水色のちょっと癖の強い髪。
ルビィと同じ“ウサギ”では無かったけれど、ルビィと同じ仲間なのだとはその容姿からすぐに納得できた。
だが、二人で抱き合ったまま、ポロポロと泣きじゃくる姿に、トキサダもキヨシも声を失ったまま、ただ見詰める事しか出来ない。
「―――サフィっ！！」
一泊置いて、飛び込んできた人物が、部屋の中の状況にサングラスの中の瞳を丸くした。
「・・・うぉっ？！・・・サフィが・・・二人？」
驚いたように呟かれた言葉に、トキサダの呪縛が漸く解ける。
「・・・ヒロシ？」
そうして、確かに目の前にいるのが、ルビィがずっと求めていたサフィなのだと理解った。
「・・・こんなに、弱っちゃって・・・どうして？酷い事されたの？」
「・・・ううん・・・違う・・・トキサダはずっとボクを慰めてくれたの・・・でもここには・・・ボクが食べられる物がなくて・・・」
「ルビィ・・・」
弱々しく首を振るルビィに、サフィはその両手を取る。
「―――もう、大丈夫だよ！ボクの『力』を分けてあげる・・・。」
「・・・でも・・・」
「ダメだよ・・・もう、ルビィの『力』は消えかかってる・・・。ボクが理解らないと思うの？」
俯くルビィに、サフィは青い目を真っ直ぐに向けて、言い募る。
「ボクなら大丈夫・・・ちゃんと、エネルギーを採ってるから・・・ほら。」
そう言うと、サフィはルビィの額に自分の額を押し当てた。
「・・・ん・・・」
目を閉じたサフィの額から、青く強い光が溢れ出る。
対するルビィの額には本当にうっすらと赤い痣が浮かぶだけだった。
ベッドの上、二人の身体が青い光に包まれる。
風も無いのに舞い上がる二人の髪が、対照的な色合いを混ざり合う。
徐々にサフィの青い光が弱くなると同時に、今度はルビィの額から赤い光が溢れて・・・二人を包み込む。
やがて、青い光と赤い光が消えた時・・・抱き合ったままだった二人の身体がグラリと揺らいだ。
「―――ルビィ！」
「サフィ？」
慌てて、トキサダとヒロシが同時に動いた。
ベッドに倒れこんだサフィとルビィは、それでも互いの身体を離すことはなかった。
「ムチャ・・・しやがって・・・」
先にそう呟いたのは、疲れたようにベッドの端に座り込んだヒロシだった。
トキサダも、体勢を変えて、二人に毛布を掛けなおすと椅子に座りなおした。
キヨシは、壁に寄りかかったまま、静かに立っていた。
「悪い・・・トキサダ。今日は、このまま二人を寝かせてやってくれ。多分、その方が、お前んトコの奴にも必要なんだと思う。」
サングラス越しに目を細めると、ヒロシが頭を下げる。
「いや・・・こっちの方こそ・・・ルビィを助けて貰ったみたいだし・・・。まさか、ルビィがあんなに会いたがっていたサフィが、ヒロシのとこに居たなんて思いもしなかった
から・・・」
「そりゃ、こっちの台詞だ。キヨシから連絡貰って・・・サフィのやつ、あっという間に飛び出しちまった。あんなにいつもビクビクしてたサフィが、自分から動いたんだ。余程、会いたかったんだろうよ。」
「―――それは、ルビィもだ。ずっと、泣いてた。涙と一緒に消えてしまうんじゃないかと思うぐらい・・・。ここには、ルビィの食べられる物が本当に何もなかったから。だけど、この家から外に連絡する手段はなくて・・・だから、今日に・・・」
「じゃあ、サフィが危惧してた通り、本当にギリギリだったんだな・・・。サフィの話じゃ、逸れた時に、ルビィはすぐ近くに居たって言うから・・・色々近場を探してたんだけど・・・。お陰で、この一週間仕事になりゃしねぇ・・・」
「―――嘘付け。自分が、サフィと離れたくなかっただけの癖に・・・。」
憮然と言うヒロシに、キヨシが茶々を入れる。
「うるせーぞ、キヨシッ！！」
サングラスのすぐ下の頬が赤くなっているのを見て、トキサダも苦笑する。
「ああ・・・でも、その気持ちは理解る。少しでも目を離すと、何処かに消えてしまいそうな・・・儚い『存在』だから。ルビィも、食べられないから、どんどん弱ってしまって・・・尤も、最初に雪原の中で見付けた時から、大分弱っていたから・・・尚更・・・」
遠くを見るような眼差しで、トキサダは気持ちを吐露する。
「雪原？・・・そりゃあ、随分と離れてたんだな・・・じゃあ、サフィが言ってた他の仲間って言うのも・・・もっと広範囲に散らばっちまったのか？トキサダ・・・お前、何か聞いてないか？」
「いや・・・ルビィは本当に何も理解らなかったらしい。何人かの名前は聞いたけど・・・話も昔の・・・楽しかった頃の事ばかりで・・・帰りたいと言っては、いつも泣いて。」
ヒロシの問い掛けに、トキサダは緩く首を振って、そう答えた。
「そうか・・・サフィに言わせると、ルビィは酷く心が弱いらしい。だから、一番心配していたと・・・そう言ってた。まぁ、俺らから見たら、サフィも十分弱っちいけどな。―――んで、この一週間で理解った事は、こいつ等が何処から連れてこられたかって事ぐらいだった。」
「・・・ルビィの言ってた『楽園』っていうのは、何処なんだ？ちゃんと、帰れるのか？」
懐から手帳を取り出したヒロシが、色々な文字や記号が書かれたページを捲ってそう話し始める。
驚いたように、トキサダは顔を上げてヒロシを見詰めた。
「流石に、帰れるかどうかまでは・・・探れなかった。だけど、連邦当局の中央情報制御室にハッキングして、見つけた。―――『月』だ。」
「月？あの・・・小さな衛星？すっかり開発が終わって・・・施設も古くなってしまったから、他の星のコロニーに移住するようになって・・・大分前から打ち捨てられている場所だろ？第一、あんな寂れた場所をルビィたちが『楽園』と呼ぶなんて・・・」
「いや・・・。個人所有の小さなコロニーが今も残っているんだ。マコト＝ハンムラ博士。僅か１８歳で“地球”最高峰の博士の“称号”を受け持った・・・あの超天才。３年前から表舞台には一切顔を出さなくなったが・・・月に引き篭もっていたらしい。引き出した情報の博士の顔を、サフィが確認してる。」
パタンと手帳を閉じて、ヒロシはトキサダを真っ直ぐに見つめた。
「こっから先は、恐らく国家機密。どうする、トキサダ。聞いたら、後には戻れないぞ。お前が大嫌いな権力とかに固辞してる人間が、大勢係ってくる。このまま、音楽家として生きていくんなら・・・俺たちはルビィを連れて帰ってやる。」
「―――ヒロシが配達に出ねぇのは、追いかけられてる所為もあるからな。」
ヒロシの言葉に、キヨシも被せる。
「―――追いかけられる？一体、誰に？・・・まさか、ルビィの言っていた連中の事か？」
「あぁ。そいつ等だけじゃねぇがな。どうするんだ？時間はマジでない。俺はサフィを連れて、居場所を変え続けなきゃならないからな。幾らここが極寒の果て地だろうが、あいつらには関係ない。こいつらの為に、お前は総てを捨てる覚悟はあるか？・・・確実に、お前が嫌う戦いの日々だ。」
「・・・それは・・・。」
きっぱりと告げるヒロシの言葉に、トキサダは一瞬躊躇してしまった。
トキサダが雪の中で拾ったのは、ずっと妖精のような『存在』だと思っていたのだ。
消えないようにずっと傍についていた一週間。
心を通わせなかったといったら嘘になる。
それなのに、護ると思っていた相手は、想像していた以上の問題ごとを抱えているらしい。
―――人間の醜い欲望にずっと晒されてきて・・・争いや謀略や醜い『世界』に絶望しているトキサダには、自分がどれだけの事ができるのか全く理解らなかった。
腕の中に包み込んで、傷付かないように・・・壊れてしまわないように・・・優しく生きていく事だけならば―――考えるまでも無かったのに。
「―――俺では・・・きっと、足手まといになるだけだ・・・な。」
零れ落ちたのは、深い溜め息・・・。
ヒロシは、キヨシと顔を見合わせて・・・目線を落とした。
「・・・理解った。じゃあ、ルビィは連れて行く。あいつが居なくなれば、お前には何の問題もなくなるから。取り敢えず、今日はこのまま預けてくぞ。俺等は明日また迎えにくるから。」
「―――サフィと一緒なら、ルビィは大丈夫だ。お前が、覚悟決めとめ。」
ベッドから立ち上がったヒロシが、座ったままのトキサダの肩を叩いて、部屋を出て行く。
眠っている二人の寝顔を見ながらそう言って、キヨシも同じように背を向けて去っていった。
椅子に座ったトキサダだけが、時が止まったように微動だにもせずに空を見詰める。
不意に、指先に柔らかな毛並みが触れて・・・傍にアービィとルーファスがいたことに、気付く。
「あぁ・・・。もう、夢見る『時間』は終わりだ・・・。」
“緋”い瞳が、キラリと光って・・・トキサダはアービィの首をかき抱いた。
ルーファスも、トキサダを慰めるように鼻面を押し付けた。
やがて、フラリと椅子から立ち上がったトキサダは、重い足取りで部屋を出た。
機械的に身体を動かして、いつもの生活通りの行動をする。
暖炉に火をくべて・・・食事を取る。
暖かい筈の食事が、冷たく感じられて・・・。
口に入れた物を、ただ嚥下しただけだ。
それでも、半分以上残したそれを、片付けて。
―――寝室で眠れないのならと・・・仕事部屋に向かう。
いつものようにギターを手にして、曲を書く。
だが、浮かんでくるフレーズは、どうしても物悲しい物ばかりで。
諦めたようにペンを置いて、書いていた楽譜を手で払った。
机から落ちた何枚もの楽譜が、床に散らばった。
「・・・っ・・・！」
両手で頭を抱えて、膝を抱える。
身の内から溢れ出る、抑えきれない感情が今にも爆発してしまいそうで・・・。
恥も外聞も掻き捨てて、喚いてしまいそうだった。
―――衝動が、神経を侵していく。
綺麗で純粋な『存在』。
トキサダが見つけた・・・たった一つの《紅玉》の宝石。
護れない事が悔しくて。
自分に力が無い事が、苦しい。
悲しい・・・悲しい―――“哀”しい。
慟哭が、トキサダの心を突き破っていく。
ヒロシが言ったように、元の生活に戻っても・・・欠けた心が埋まる筈もない。
もう遅いのだ・・・出会ってしまった事を、忘れることも・・・もう、できる筈もないから・・・。
それでも、自分の力で・・・ルビィを護り続ける事は恐らく出来ない。
だからこそ、ヒロシはあんなにも真剣な顔で聞いてきたのだから。
総てを捨て―――。
絶望の世界へ・・・また身を投じなければならない。
それは、トキサダにとって地獄へ戻れと言っているようなもの。
激しい胸の痛みが、全身を苛む。
やっと見つけた唯一の存在である“ルビィ”を手放して・・・生きていく事と、どちらが辛い『世界』なのだろうか？
腕の中に納まる小さくて柔らかくて―――愛しい者。
消えてしまわないように、必死だったこの一週間を思い出して・・・トキサダは“緋”い瞳を涙で濡らした。
―――その夜・・・切なくて胸を掻き毟られるような・・・悲しい旋律がずっと鳴り響いていた。
目が覚めたら、目の前には自分と同じ顔があった。
癖が強いのに柔らかな水色の髪は、ずっと夢見てきた相手の物で・・・。
やっと見つけた安堵に、息を吐き出した。
ずっと重くて苦しかった胸の痛みも、すっかり消えて随分と楽になっていた。
そうして、ルビィは意識を失う前の事を思い出した。
「・・・サフィ・・・？」
そっと、声にしても・・・目の前のサフィが消える事はなくて・・・夢じゃない事が嬉しくて・・・涙が溢れる。
「・・ん？・・・ルビィ・・・？どうしたの？まだ何処か痛いの？」
「ううん・・・嬉しい・・・の。サフィに会えたから・・・」
「うん。本当に良かった・・・。」
起き上がって、互いの両手を組んで、頬を寄せる。
核になる宝玉が、もともと対の物だったので、二人も自然と引き寄せられてしまうのだ。
額を合わせて、波動を交換する。
それだけで、お互いの今までの行動が共有できる。
「―――そう、ルビィはずっと辛かったね・・・。でも、優しい人に助けて貰ったんだ・・・」
「サフィも・・・。」
「うん。ヒロシが、ボクを助けてくれた。とても、優しい人。・・・人間は、怖い人ばかりじゃないんだね・・・。でも・・・怖い人も一杯いるんだって・・・。」
「え？」
「―――ヒロシが教えてくれた。あのね・・・ヒロシは、僕たちを見つけてくれるって・・・それで、絶対『月』に帰してくれる・・・て。」
「・・・つ・・・き？」
「そうだよ。『楽園』がある場所。博士も生きてるから、大丈夫だって・・・」
「・・あぁ・・・博士・・・。」
ポロポロと泣きじゃくるルビィに、サフィは困ったように握った手に力を込めた。
「帰ろう？僕らの『世界』へ・・・」
サフィの言葉に、顔を上げる。
うん・・・と、返事をする筈だった。
ずっと、望んでいた事。
願っていた事。
なのに、素直に頷けない自分に、ルビィは酷く動揺した。
それでも返事を返そうとしたルビィは、遠くから聞こえる機械音にピクリと耳を欹てた。
「・・・サフィーーー、迎えにきたぞ！」
「ヒロシっ！！」
家の前に着いた車から、転がるように飛び出してきた人物に気付いて、サフィの顔に笑顔が浮かぶ。
柔らかなその笑みは、自分が今まで知っていたどの顔とも違って見えて・・・ズキリと胸が痛んだ。
組んでいた手を離すと、サフィはベッドから飛び降りて・・・。
「―――腹、減ってないか？食事も持ってきた・・・ぞ。うおっ！！」
ドアを開けて入ってきたヒロシに向かって、その腕の中に飛び込んだ。
驚いた表情をしながらも、飛び込んだサフィを受け止めたヒロシは、そのまま大切なものを護るかのように腕を回す。
「ちゃんと、休めたか？友達も、大丈夫か？」
「うんっ！」
顔を見ながら、何度も問い掛けている。
その度に、サフィの笑顔は輝きを増した。
仲良さそうな二人に、ルビィはただ立ち尽くすしかない。
「―――ヒロシっ！！手前、邪魔！早く、部屋ん中入れっ！」
「あ、キヨシ！おはよう」
スリスリとしていた相手を、今度はキヨシに定めて飛びついていく。
「おう。すっかり元気になったじゃねぇか。」
大きな腕で柔らかな頭をカイグリカイグリするキヨシも、上機嫌だ。
何だか見ていられなくなって、ルビィはトキサダを探した。
そう言えば、今日はまだ一度もその姿を見ていなかった事に気付いたからだ。
いつもだったら、目を覚ますとどんな時も一番最初に傍にいてくれたのに。
暖炉のある部屋にいなかったので、仕事をしているという部屋なのかと思って・・・そっとドアを開ける。
それでも、そこに目的の人物の姿が見えなくて・・・ルビィはどんどん心臓が苦しくなっていく。
床に散らばっていたのは、トキサダがいつも何かを書いていた紙で。
『楽譜』なのだと教えてくれたもの。
とても大切なものなのだと・・・教わったのに・・・。
「・・・トキサダ・・・？」
声に出して呼んでも、返事は返らない。
彼が“兄弟”と呼んだ二頭のボルゾイ犬の姿も何処にもなくて・・・。
ガクガクと、全身に震えが走る。
『・・・ルビィ・・・』
優しい旋律のような声が、耳に残っているのに。
何度も・・・何度も、呼ばれた・・・呼んでくれた『名前』。
「・・・いやっ・・・！！」
身を翻して、ルビィは部屋を飛び出した。
「―――ルビィ？！」
驚いたような顔のサフィの横を駆け抜けて、そのまま外に飛び出す。
そこは変わらない一面の白い『世界』。
思わず足が竦んでしまうが・・・それでも、必死に身体に力を込めて前に進もうとする。
「―――トキサダ・・・トキサダぁ・・・っ！！」
ポロポロと涙を零しながら、進もうとする足が、雪に取られる。
バランスを崩して、ルビィは雪の中に転んでしまう。
「おいっ！・・・大丈夫かよ・・」
「―――ルビィ？！」
「や・・・離して・・・！・・・トキサダが・・・いないの・・・！何処にも・・・居ないのっ！！」
慌てて追いかけてきたサフィたちにも構わずに、ルビィは白い世界に向かって泣き叫んだ。
「ずっと・・・ずっと一緒に・・・ボクが元気になったら・・・仲間を探してくれるって・・・それでも・・・傍にいるから淋しくないよって・・・そう言ってくれたのに・・・。」
激しく頭をふって、ルビィは悲鳴を上げる。
はち切れそうな苦しい想いに、胸が張り裂けそうだ。
それでも、どんなに耳を澄ませても・・・聞こえてくるのは風の音ばかりで・・・。
「・・・どうして？・・・どうしてぇ・・・？」
「ルビィ・・・」
泣きじゃくるルビィを、サフィが抱き締める。
困ったようにヒロシを見ると、その表情は硬かった。
「ヒロシ・・・僕らが意識を失った後、何が・・・」
「―――その話は、部屋の中でする。このままじゃ、また体力無くすぞ。」
「うん・・・。ね、ルビィ・・・戻ろ。」
真面目な顔のヒロシに、サフィは小さく頷いた。
そうして、崩れ落ちているルビィを気遣う。
しがみ付くように寄りかかるルビィを支えながら、サフィはゆっくりと歩きだした。
そうして、部屋の中に戻ってヒロシから話を聞いたルビィは、余りの衝撃に耐え切れなくなって・・・意識を手放した。
その後、サフィがどんなに呼び掛けても、意識が戻ることは無くて・・・。
それから、３ヶ月間・・・ルビィは人形のように総ての機能を止めて、深い眠りに付く事になる。
《紅玉》の宝石は―――“沈黙”した。
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