遠くから、何かが聞こえる。

優しく響く・・・『旋律』。

耳にとても心地良い―――音色。

意識がぽっかりと浮上する。

目を開けた途端に、目じりに溜まっていた涙が流れ落ちた。

だが、目が覚めても、見知らぬ空間は意識を失う前と全く変らなかった。

―――絶望感が、全身を支配する。

心が壊れてしまいそうで、ギュッと全身を縮こませようと身じろぎした途端、耳に柔らかな『音』が届いた。

暖かくて・・・優しいメロディ。

その、旋律は懐かしく耳を震わせ・・・心を軽くした。

何処から音が聞こえてくるのか・・・耳を澄ます。

隣の部屋・・・フレーズと・・・何かを書く音と・・・紙の擦れる音。

弾かれる弦の響きは、そのままダイレクトに綺麗な『音』を生んだ。

ピクピクと耳が動く。

他に聞こえるのは、パチパチという音。

シュンシュンと鳴っているのは、何なのだろう？

初めて聞く『音』はコワイものではなく・・・。

落ち着いて聞いたら、とても優しい響きを持っていた。

外は・・・この空間の外は・・・ゴウゴウと鳴り響く―――あれは・・・何？

起き上がってみると、今度はちゃんと何かを身に着けていた。

自分の服ではなかったので、随分とぶかぶかだったが・・・。

ベッドから降りたら、下が脱げてしまった。

それでも・・・大きな上着がマントのようで・・・膝まで隠れるので構わなかった。

ソーッと歩いて・・・ドアに近付く。

自分から一人で行動するなんて滅多にしたこと無いので・・・心臓が破裂しそうなほどドキドキと鳴っている。

それでも、誰もいないから・・・自分で動かないと―――逃げないと・・・。

ギュッと胸を押さえて・・・ゆっくりと慎重にノブを回す。

小さく開いた空間に身を滑らせるようにして、部屋の外に出てホゥッと止めていた息を吐き出した。

「―――ワンッ！」

突然響いた強い音に、ビクゥッと身を竦ませる。

「―――キャアーーーっっ！！」

見た事の無い、大きな生き物が直ぐ後ろに居た。

しかも、二匹もだ。

思わず口から、大きな悲鳴が飛び出した。

耳が大きく逆立って、尻尾がピンと立つ。

―――鼓動が止まりかけた。

「アービィ！ルーファス！―――ストップっ！！シッダウン！！」

強い声が振ってきて、大きな生き物に圧し掛かられて息も絶え絶えになっていたところを、解放される。

「・・・ああぁ・・・」

ガクガクと身体の震えが止まらない。

「―――た・・・食べられるかと・・・思った・・・」

へたりと座り込んだまま、足に全く力が入らない。

「ゴメンゴメン・・・。でも、目を覚ましたんだ・・・良かった。急に、また意識を失うから・・・どうしようかと思った。」

大きな生き物を部屋の外に連れて行った後で、戻ってきた人物は先程の者だった。

横に座り込んで、顔を覗き込んで目を合わせてくる。

「さっきの俺の“兄弟”が、雪の中に倒れていたキミを見つけたんだよ。別に猟犬じゃないから、食べたりしないよ。あぁでも、キミ・・・ウサギみたいだから・・・じゃれ付いちゃったみたいだね。あれは彼らなりの、キミに対する愛情の証なんだ。許してあげてよ・・・」

「―――あ・・・」

緋い瞳に見つめられて、言葉が出なくなる。

真っ直ぐな眼差しが、強くてドキドキするのに・・・どうしても、目線が離せない。

「・・・こ・・・ここは・・・？」

「―――ん？ここは・・・北の王国だよ。冬は雪と氷に閉ざされた・・・静かな世界。この家は、この国での俺の住まい。」

「北の王国・・・？―――『青い星』・・・じゃないの？」

「青い星？・・・随分古い言葉を使うんだね。そういう意味では、確かにここは『地球』だけど・・・。キミはこの国に昔からいる妖精の類じゃないの？他の星から来たのかい？―――何の観光もないこの時期に、わざわざ雪原の中で遭難してまで・・・？」

「・・・地球・・・そう・・・水の惑星。博士が言っていた・・・。じゃあ、ここは『青い星』？どうして？・・・どうして、白いの？―――青くないの？」

震える声で、尋ねる。

ここが地球と言うのなら、地表は青いのだと思っていたからだ。

『楽園』に浮かぶ『地球』は、何処までも青に包まれたとても綺麗な星だったのだから・・・。

だが、確かにここが地球だというのなら、他のみんなはどうしたのだろう？

何処までも続く白い世界には、何処にも・・・どんなに耳を済ませても・・・声を出しても・・・返事が返ってはこなかった。

「―――探さなきゃ・・・」

ギュッと拳を握って、鼓動を落ち着ける。

震えて力が入らない足を必死に動かして・・・立ち上がる。

「探す？誰を？・・・誰かと一緒に居たのかい？―――でも、雪原の中は広いし・・・アービィとルーファスが雪の中から探し当てたのはキミだけだったよ・・・」

「違うっ！！一緒に・・・サフィも・・・側に居たのに・・・」

「サフィ？キミの友達か何かかい？―――調べたいのなら、管理局に問い合わせてあげるけど・・・今すぐここからじゃ、無理なんだけど・・・」

「管理局・・・？」

ふらつく身体を支えるように腕が伸ばされる。

抵抗したくても、力の入らない身体では、どうする事もできない。

「ああぁ・・・何だか、泣かせてばっかりだ・・・。別に、キミを泣かせたい訳じゃないんだ。雪原の中に行き倒れるくらい大変なことがあったのなら・・・助けたいと思うし・・・」

困ったように言葉を綴る相手を、漸くマジマジと見返す。

涙に濡れた赤い瞳が、キラリと輝いた。

「・・・どうして？だって・・・ボクは、『不思議な生き物』なんでしょう？あなたも、ボクを・・・売り飛ばすんでしょう・・・？」

震える声で、問い掛ける。

そうだ―――と言われたら、怖くて死んでしまいそうなのに・・・問い掛けは自然と口から飛び出した。

「―――はっ？売り飛ばす？・・・まさか、キミ、愛玩ペット？！ちょっと、待ってっ！！こんな精巧なの・・・ありえない！！」

「・・・愛玩ペット？なにそれ？『不思議な生き物』のこと？」

「いや・・・『不思議な生き物』って言ったのは、ただ単にこの国に伝わる妖精とか精霊の類かと思っていたからであって・・・」

「・・・ようせい・・・？・・・せいれい・・・？それも『不思議な生き物』なの？」

初めて聞く言葉ばかりで、全く理解らない。

外の世界の本ばかり読んでいたジスや、物凄く『力』も強くて頭も良かったダイヤなら理解るのかもしれないけれど・・・。

「・・・ボクは・・・ボクたちは・・・『不思議な生き物』だから・・・“地球”の・・・おうさまに売るって・・・無理やり連れてこられて・・・」

言いながら、胸が苦しくなってポタポタと涙が溢れてくる。

「あなたも・・・ボクの事・・・『不思議な生き物』って・・・だから・・・だから・・・」

―――怖かったのだ。

自分が何処に居るのかも理解らなくて・・・。

傍に誰も居ないなんて・・・今まで一度だって無かったから・・・。

優しい指先が、そっと頬に触れて、零れ落ちる涙を拭っていく。

「そうか・・・随分と怖い思いをさせられたんだ・・・。大丈夫・・・俺は、キミを売ったりしないよ・・・。同じ《彩》の瞳を持った相手だからね。それに・・・髪色も同じ・・・。」

そっと優しく抱き締められて、鼻の奥がツンと痛くなった。

腕の中が余りにも優しい空間だったから・・・涙が止まらなかった。

いつも抱きついていたサフィではないけれど・・・傍にいてくれたエメではないけれど・・・。

撫でられる感触が、博士の指と同じ動きをしたから・・・。

不安を全て拭い去ってくれる―――魔法の手と同じだったから・・・。

「―――大丈夫だよ・・・。大丈夫だから・・・泣かないで・・・」

何度も耳に響く優しい―――《呪文》。

それは小波のように揺らめいて・・・全身に浸透していった。

「―――俺の名前は、トキサダ。セロニアスって呼ぶ奴もいる。キミの名前はあるの？」

不安が全て涙と共に流れて・・・漸く心が静まった後。

銀の鬣に緋い瞳をした人は、そう聞いてきた。

一瞬、どうしようか悩んだけれど・・・抱き締めてくれる腕の温かさから伝わる波動が余りにも心地良かったので、自然と口が開く。

「・・・ルビィ・・・。」

小さな声が、零れ落ちた。

途端に、トキサダは柔らかな微笑を浮かべた。

「あぁ、やっぱり・・・。その瞳の宝石だ。―――どうりで、綺麗な色だと思った。」

吐息のように囁かれて、心臓が跳ね上がる。

綺麗だなんて・・・初めて言われたからだ。

「じゃあ、サフィは青色の瞳？」

「―――どうして、わかるの？“地球”の人はみんなそうなの？！」

続けられた言葉に、目を丸くする。

クスクスと零れ落ちたトキサダの笑みは、とても綺麗だった。

思わず頬が熱くなって・・・クラクラした。

「さぁ？他の人はどうかな？・・・でも・・・そうだね。キミの友達もちゃんと探さないとね。」

「うん・・・。他のみんなは、どうしたんだろう・・・。無事・・・なのかなぁ・・・」

考えている内に、またウルッときてしまう。

すると、柔らかくて暖かいモノが頬に触れて、涙を掬い取った。

「・・・トキサダ？」

「―――ルビィは、本当に泣き虫だ。」

顔を上げると、直ぐ近くにトキサダの顔がある。

「・・・あの・・・その・・・」

ドキドキしてしまって・・・・涙も止まる。

「―――何？」

「・・・顔が・・・近くて・・・ドキドキが・・・止まらないの・・・」

胸を押さえて、小さく呟くと・・・トキサダは驚いた顔をして・・・破顔した。

「あぁ・・・。ごめん・・・。すっかり眼鏡をかけるのを忘れていたよ・・・どうりで、見にくいと思った。」

そう言うと、トキサダはガラスのレンズがくっついた物を手にとって顔に付けた。

「何それ・・・？メ・・ガネ・・・？それを付けるとどうなるの？」

初めてみる物体に、ちょっと興味が沸く。

問い掛けると、ガラス越しの赤い瞳が和らぐ。

「―――今度はルビィの方が、近いね。」

「え？！・・・あっ・・・」

苦笑されて、慌てて離れる。

それでも・・・一度湧き上がった興味が消えることはない。

『メガネ』とかいう物体を顔につけたトキサダは、随分と印象が変わってしまったから・・・。

「んー、これはねぇ・・・なんて言ったら良いのかな・・・物を良く見る為の機械だよ。俺は、この瞳の色だから・・・裸眼では余り細かい世界は見えないんだ。―――この国では、見る事は余り重要ではないから・・・外すのが当たり前になってたんだけど・・・」

続けて言われた言葉に、キョトンとする。

「ルビィのその瞳には、景色はどんな風に映っているのかな？」

「―――“けしき”・・・？この空間の事？うーん・・・とね、暖かいよ・・・。とっても、暖かくて・・・優しい空間。ボクらがいた世界よりもキラキラはしていないけど・・・あの
白いばっかりの世界よりはずっと・・・好き。」

「―――きらきら・・か。それは、凄く素敵な場所なんだろうね・・・。」

「うん！・・・でも・・・もう・・・。」

最後に見えたのは、赤い炎に包まれた『楽園』。

多分・・・もう・・・あの場所は・・・。

ブルッと身体が震える。

連れ出された時の恐怖が甦ってしまったからだ。

「ルビィ？」

「・・・帰りたい・・・帰りたいよぉ・・・みんなと・・・一緒に・・・」

震える自分の身体を包むように小さくなると・・・ふわりと暖かな温もりに包まれる。

「ルビィ・・・泣かないで・・・ルビィ・・・。」

髪に・・・耳に・・・頬に・・・いっぱい触れてくる・・・暖かい感触。

そこから流れ込んでくる優しい感覚に・・・身を任せる。

不安で怖くて仕方ない筈なのに・・・トキサダの傍が暖かくて・・・触れられる感触が心を慰めていくから・・・。

どうして・・・この人はこんなに“やさしい”のだろう？

地球の人が、みんなトキサダみたいに優しかったら・・・良いのに・・・。

そうしたら・・・サフィも・・・ジスも・・・きっと大丈夫だと・・・思えるのに・・・。

「―――俺が・・・探してあげるから・・・。綺麗で真っ白なキミを・・・護ってあげるから・・・。」

耳元で、囁かれる“詞”。

それは、幾重にも折り重なる響きとなって・・・心を満たしていった。

泣きながら腕の中で眠ってしまった、柔らかくて小さな身体をそっと壊さないように運ぶ。

綴じられた瞼の奥に、紅玉も消えてしまった。

今まで、幾つものルビーを見た事があったけど、こんなに大きくて綺麗な物はなかった。

頬に残る涙の跡が、酷く痛ましげだ。

「・・・可哀想に・・・」

すぐに零れ落ちる涙は、どれだけこの小さな存在が哀しみに包まれているのかを示しているようで・・・自分の胸も痛む。

綴られた声は、とても澄んでいて、綺麗な音を発した。

口にした言葉はそんなに一杯ではなかったけれど・・・一生懸命に自分の気持ちを伝えていた。

眼鏡を見た時の、驚いたような表情と・・・キラキラした瞳が凄く印象的で―――。

笑ったら・・・どんな顔になるのだろう？

辛そうな、悲しそうな表情ではなく・・・心からの笑顔が見てみたい。

―――きっと、その瞳以上に、自分の意識を捉えて離さないだろうと思うから―――。

ベッドに横にしようとして・・・その細い指先が、自分の服を掴んでいる事に気付く。

一瞬躊躇するが・・・何だか外したらまた起きてしまいそうだったので・・・そのまま一緒に潜り込む。

すぐに温もりを求めて擦り寄ってくるルビィに、トキサダは苦笑した。

儚くて・・・綺麗で・・・純粋な・・・『存在』。

遙か昔・・・まだ親が生きていた頃・・・自分が一人になってしまう前・・・。

何度も夢物語で聞かされた―――『御伽噺』。

世界には、目に見える物だけじゃなくて・・・それ以外の存在もいるのだと・・・。

何処から来たのかは理解らないけれど、連れてこられたと言っていた。

夢のような世界から・・・ルビィたちの世界を壊して・・・。

不意に湧き上がるのは、強い怒り。

変わらないのだと―――思う。

人間の驕りは・・・何時の時代も・・・何処までいっても。

「・・・ッッ・・・！！」

腕の中で切なげな息が漏れる。

眠りの中でも苦しんで・・・ルビィは泣いているのだ。

自分が夢の中に入って助けてあげる事が出来たなら、良かったのに・・・。

そう、心から思う。

この綺麗な『存在』が壊れてしまわないように―――静かに“祈”る。

「・・・夢の中でぐらい・・・ルビィが故郷に帰れますように・・・。」

悪夢を追い払う呪いを口にして・・・そっと額にキスをする。

遙か昔・・・自分が小さかった頃・・・母親がそうしてくれたように。

今では、自分にしてくれる人は誰もいなくなってしまったから―――。

窓の外は、相変わらず白い雪が舞い落ちている。

総てを白に染め上げて・・・地上の穢れを覆い隠す。

しん・・・とした、閉ざされた『世界』。

余計な雑音に・・・煩わしい声に、邪魔されないように―――この地を選んだ。

地の果て・・・北の大地。

見つけたのは―――綺麗で・・・純粋な『存在』。

繊細で儚い雪の結晶のように、脆く壊れそうなそれは、恐ろしい程心を奪い取った。

人でありながら・・・人で在ることに絶望していたトキサダが見つけたのは・・・その後、生涯を共に生きる事になる―――『至宝の宝玉』だった。

　　　　
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