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とある竜の恋の歌 ・ 序章
遠い遥かな昔、海を支配していたのは巨大な海竜の一族だった。
七つの海に一匹ずつ、守護神として君臨していた。
彼等は総ての生き物の頂点であり、互いの境界を侵す事は禁忌とされていた。
尤も、思慮深く慈悲の強い海竜は、争うことを忌み嫌っていたので、長い間海は凪いでいた。
だが、長い間に彼等以外の生き物は何代も世代交代を経て・・・何時しか彼等が居なくても世界は回るようになってしまった。
更に、いつの間にか陸に上がった生き物の中から進化した者たちが、海の世界にまでも手を出してきたのだ。
狩られる海の仲間を救おうと、立ち上がった若い種族が、海竜の長である竜王に進言するが、竜王は争う事を嫌がった。
そうして、陸の者たちによって境界は荒らされ・・・巨大な海竜たちは傷付き、深淵の海溝へと沈められてしまった。
その後、新しく海の眷属を纏め上げた力ある種族が海王となり、海から陸の者達を追い出して漸く海原に平和が戻った。
最期まで戦う事を拒否した竜王が海溝に沈む前に、流された“血”から、生まれ落ちた彼は、長い間たった一人で海底に佇んでいた。
暗く陽の届かない海底で、膨大な量の過去の記憶に苛まれていた。
それは、英知を誇った竜王の記憶。
森羅万象すべての映像と鼓動。
小さな身体では受け止めきれなくて、気が狂いそうな状態で彼は長い間動く事も出来なかった。
『・・・だいじょうぶ？』
不意に、総ての音が止んだ。
そうして、耳に飛び込んできたのは小さな声。
『どこかいたいの？・・・どうして、こんなトコにいるの？』
次々と繰り出される響きは、彼の意識の全部を奪い取った。
『―――えっと・・・ボクのゆってること、わかる？』
突然視界に飛び込んできたのは、不思議そうな顔をしている子供だった。
『・・・・・・』
反射的に声を出そうとして、ゴボリと泡が口から溢れた。
『・・・しゃべれないの？えっと・・・じゃ、てぇだして。』
ハイッと目の前に出されたのは小さな掌。
相手の意図が理解らなくて動けないでいると、何を思ったのか相手は彼の右手にそっとその小さくて柔らかな掌をくっ付けた。
途端に綺麗で優しい波動が、触れた個所から伝わってきた。
“これなら・・・つたわる？”
小首を傾げながら訪ねてくる相手に、彼は少し驚きながら小さく頷いた。
“キミハダレ？”
“ボク？・・・ボクはタク。『人魚』だよ。”
“マーメイド？・・・ソレハ、海王族？”
初めて聞く言葉は、膨大な記憶の中にも入っていない。
“『かいおうぞく』ってなあに？・・・ボク、まだ、うまれてからそんなに、たってないから、よくわかんない。マコトおにいちゃんなら、しってるかもしれないけど・・・”
喋っている内に、大きな瞳がほんの少し歪んで、潤む。
今にも泣きだしそうなその表情に、彼は動揺した。
“ドウシタノ？”
“・・・あのね、ボク・・・ここがどこなのかわかんないの。・・・おともだちともぐりっこしてて、きづいたらうみのいろが、かわってて・・・つめたいから、こわい・・・。”
彼の衣の裾を掴んだまま、上目使いで見つめてくる大きな瞳に取込まれそうになる。
明るいアクアマリンの瞳は、こんな薄暗い海底でもキラキラと輝いて見えた。
“キミハ、〈ウエ〉ニ棲ンデイルノカ。オレトハ、チガウ。”
少し苦笑して、彼は上を見上げた。
世界は変わってしまった。
海竜族の最後の一人となってしまった彼が、今更〈ウエ〉の世界に行くわけにもいかないから。
“おにいちゃんは、どうしてここにいるの？”
“ココガ、オレノ世界ダカラ。オイデ、途中マデ、キミヲ帰シテアゲル・・・”
“・・・うん。”
差し出した手に、素直に重ねられる掌がほんのりと暖かい。
“おにいちゃんのて・・・つめたいよ・・・。さむくないの？”
“ズット、ココニ居タカラ・・・。”
言われて、改めて感じる。
冷たいのは嫌なのだろうかと彼が手を離そうとしたら、逆に強く握られてそのまま小さな身体が飛び込むようにくっ付いてきた。
“こうすれば、あったかい？あのね、マコトおにいちゃんも、さむいときは、ボクがそばにいると、あったかくなるっていってくれるから・・・だから、ね。”
腕から伝わる柔らかな感触と、温もり。
生まれて初めて与えられたそれに、今まで感じた事も無いような何かが身体の奥底から湧き上がってくる。
海竜の一族は基本単体で過ごす。
互いの縄張りを侵さないように、海域の生き物を護る事が存在理由でもあった。
その海域を失い、守るべき存在を失くし・・・総てを手放して海溝に沈んだ竜王は、それが本当の望みだったのだろうか？
今となっては、記憶の中にも残っていない感情を測る事など不可能だけれど。
“おにいちゃん？”
“シッカリ、捕マッテ。”
触れてきた小さな身体が小刻みに震えている事に気付いた彼は、その小さな身体を抱え込むようにして海底を蹴った。
海の色が変わっていく。
深海の藍色から、群青色へと。
あと少しで明るい場所へ出る直前で、彼は泳ぎを止めた。
“・・・おにいちゃん？”
“ココカラナラ、モウ帰レルダロウ？”
抱えていた腕を開いて、彼は小さな身体を離した。
光の届く世界は、彼の住む場所ではない。
傷付けられ、醜く穢され・・・嘆きの内に堕ちて沈んだ竜王の流した“血”から生まれた自分の姿が、異形だという事を、彼は十分理解っていた。だから、これ以上明るい場所へは行きたくなかった。
“どこへいくの？！”
“元ノ場所。アソコガ、オレノ・・・”
おともだちが、いるの？”
・・・・・・・・・・”
問いかけに、彼は返す言葉を失った。
流れ伝う波動で、彼の心の内を悟ったのか目の前の顔が歪む。
“ひとりは・・・さびしいよ？”
“サビシイ・・・？”
綴られた言葉に、改めて意識を委ねる。
ずっと長い間、頭の中を支配していたのは溢れ出そうな膨大な記憶の渦だけで・・・そんな感情を思い浮かべる事さえしなかったからだ。
“ワカラナイ。ソンナコト、考エタ事モナイ。”
茫然と溢れ出た想いは、ゆらゆらと揺らぐ。
『――――ク・・・タ・・・ク・・・ちゃ・・・！！』
更に上の方で、誰かを捜している声が聞こえてくる。
弾かれたように子供が顔を上げる。
その背を、彼はそっと押し出した。
ハッとしたように振り返った時には、彼の姿は海底に沈んでいく。
「まって！おにいちゃんの・・・なまえ、おしえてっ！！・・・まってぇ・・・！」
「タクっっ！！捜したよっ！ここは、海底の境界線！禁忌の場所だから、早く帰ろう！」
慌てて追いかけてこようとしたその背に、大きな影が重なって・・・小さな身体がその腕の中に包み込まれる。
そうして、更に〈ウエ〉へと上がっていく。
明るい世界に包まれた小さな姿が、緋色に染まる。
それが、腕から逃れた子供が首を降った為に広がった髪なのだとうっすらと理解った。
アオの中に広がる“緋”。
瞳に焼付いたその光景が、泣きたくなる位綺麗で、彼は海底にゆっくりと沈みながら両手を上に広げた。
たった、一つだけで良いから。
もしも許されるなら。
―――あの鮮やかな“色彩（いろ）”を、この手に・・・。
忘れてしまわないように、目を閉じる。
薄暗い海底では決して見る事のできない鮮やかな残像。
アクアマリンの煌めく大きな瞳。
生まれて初めて出会えた相手。
生きていた存在。
触れた個所から伝わった温もり。
―――柔らかな波動。
ほんの少しの『刻（とき）』でしかなかった筈なのに、その存在は彼の意識の全てを虜にしてしまった。
その日から、〈ウエ〉から色々な物が降ってくるようになった。
時が止まった世界である海底には、ありえないものばかり。
最初は、何事かと訝しんだ彼だったが、色を失ったその形状と自分の中の膨大な記憶を照らし合わせて、漸く〈ウエ〉の世界の物だと理解った。
そうして、降るように落ちてくるそれらが、誰からの物なのかを理解して、胸が苦しくなった。
一つ・二つ・三つ・・・。
不定期に色を失いながら落ちてくるそれらが、降り積もっていく。
目を瞑って、記憶を辿っていく。
竜王の残した膨大な記憶は、彼に取って苦痛でしかなかった筈なのに・・・。
密やかに捧げられる贈り物が、本当はどれ程色鮮やかなのかを、理解らせてくれた。
何時しか、彼はそれを楽しみにするようになった。
自分から何かを返す事はできないから・・・受け取るだけの一方通行ではあるし、何時気が変わった相手が止めるかもしれないと理解っていながらも。
十個・・・百個・・・千個・・・。
珊瑚に真珠に宝玉に・・・色々な形の貝に・・・海草や花まで。
一体何処で手に入れてくるのか？―――というような物まで降ってきた。
何もなかった彼の世界は、何時の間にか色々な物で埋め尽くされていた。
もしもここが薄暗い海底でなければ、それは素晴らしい景色になっていただろう。
微睡むように思考の波に漂っていた彼は、胸から溢れ出そうな想いを抱えて、佇んでいた。
指先で弄んでいるのは、最初に降ってきた丸い珊瑚の耳飾り。
小さな耳を飾っていたそれを最初に寄越したその気持ちを考えただけで、息苦しくなる。
目を閉じれば、何時でも鮮やかに思い出せるその小さな姿。
この耳飾りはあの髪と同じ色なのだろうか？
願うように、そっと持ち上げて唇を寄せる。
すっかり冷たくなってしまったそれからは、温もりを感じる事はできなかったけれど。
ゴポリと口元から泡が毀れる。
話す相手も居ないから、相変わらず言葉を発する事はできない。
それでも・・・。
ゆっくりと、手を伸ばして一番新しい贈り物に触れる。
そのままゆっくりと目を閉じると、波動を広げていく。
脳裏に鮮やかに映し出されるその姿は、成長したあの子。
腰まで伸びた緋色の髪は眩しく輝いている。
それ以上に綺麗なアクアマリンの瞳が、見える。
そうして、贈り物に込められた祈り。
『・・・ちゃんと、届きますように・・・』
柔らかな波動が密かに伝わってくる。
最初にその光景に気付いたのは何時だったか覚えていないけれど。
気付いてからは、それを『視（み）』るのに夢中になった。
降り積もった物を、順に辿れば、その姿がどんな風に成長していったのかまで理解って、嬉しくてずっと浸っていた時もあった程だ。
それでも、世界の違う二人が会う事はもう無い。
ここが禁忌の世界だと理解っているからこそ、こうやって贈り物だけを降らせている事も、理解ってしまったから。
会いたくて。
逢いたくて。
でも、逢えない相手。
焦がれる想いは幾重にも降り積もって、こんなにも彼の胸を締め付けるのに。
どれ位の時が経ったのだろう。
〈ウエ〉から降り積もる贈り物が、不意に途切れた。
最後の贈り物は、あの子がずっと髪に付けていたお気に入りの飾りだった。
それを通して『視（み）』た最後の姿は、あれだけ長かった髪を短くしてしまった姿で・・・一瞬別人かと様変わりした姿だった。
余りの変貌に、何かがあったのかと、湧き上がる気持ちを抑えきれなくて、彼はつい海底を離れてしまった。
そうして禁海のギリギリの境界まで一気に翔け上がる。
余りにも急いでいたから、途中で彼の暴走に巻き込まれた者たちを傷付けて・・・我に返った時には、既に彼の身体は禁忌の海域を飛び出して、陽光の届く世界へと足を踏み入れてしまっていた。
銀の鬣に血色の眼。
褐色の鱗が、光を受けて滑る様に鈍く輝く。
彼の姿を見た者たちが、悲鳴を上げて逃げていく様に、漸く彼の意識が元に戻る。
“・・・アァ、コンナ姿デ、アノ子ニ会ッテモ・・・オレハ・・・”
恐怖と畏怖にかられた者たちの、怯えきった眼差しが、彼を拒絶していた。
同じ顔をあの子にされたら、自分は消えてしまいたくなる。
慟哭に全身を引き裂かれそうになりながら、それでも最後の映像が脳裏から離れない。
寂しそうな・・・切なそうな・・・。
「おやおや・・・随分と騒がしいと思ったら・・・」
どうする事も出来なくて、動けなくなっていた彼の目の前に、突然渦が巻いて、中から艶やかな美女が現れた。
彼は初めて出会ったが、記憶の中に彼女の記憶は残っていた。
「ふふふ・・・あんたが捜してるのは、あの子だろ？あぁ、そんなに警戒しないでおくれ。あんたには適わないけれど、アタシだって結構長く生きているのさ。」
そう言って、深淵の魔女はにっこりと微笑った。
彼は、静かな目線で魔女を見た。
「南の海域の海王一族の末っ子。まさか、最後の海竜一族と知り合いだったとはねぇ。」
「・・・・・・・」
魔女の言葉に、彼は眉を潜めて息を吐き出した。
「今更、否定しなくても良いだろうに。尤も、既にあの子は〈リク〉に上がってしまったよ。運命の相手である“陸人（ニンゲン）”と一緒にね。」
一瞬、彼の思考回路が真っ白になった。
魔女の言葉を理解したくない感情が大きかった所為かもしれない。
「おや？叡智と思慮の塊である海竜族が、そんな風に表情を変えられるとは知らなかったね。アタシが知ってるヤツは無表情で、何考えてんだか全く理解らないジジイだったんだが・・・」
魔女はクスリと唇を歪めた。
そうして、目を細める。
「―――ジジィは『滅びるのが運命なら、従うまでだ』・・・なぁんて、悟った顔して沈んじまった。あんたも、そう思うのかい？それとも望みがあるのなら、叶えてやるよ。」
笑っているのに、魔女の目はまるで怒っているようだった。
それが何に対しての怒りなのかは、彼には想像もつかなかったけれど。
その言葉は抗うには魅力に充ち溢れすぎて・・・彼は戸惑った。
頭の中では冷静な自分が必死に止めようとしているのに、彼の心臓の鼓動は熱く脈打っている。
思考と感情がバラバラで、おかしくなりそうだった。
「対価は・・・そうだねぇ・・・その角で良いよ。海竜族の角と言ったら万能薬でもあるからね。」
その言葉に、彼は漸く魔女の本当の望みを知って唇を噛み締めた。
角は海竜族の叡智の結晶だ。
失えば、ある意味力を喪失する事になるし、それが世界の均衡を壊す元にもなりうる。
この世界の均衡を壊してまで、彼の想いを叶える事は許される事ではない。
静かに彼は首を横に振った。
そうして、一度だけ血色の瞳で上を見上げてから・・・。
「・・・・・・・・」
ゴポリと、泡が口元から毀れた。
それはゆらゆらと揺らめいて、更に〈ウエ〉に向かって上がっていった。
「―――諦めるのかい？」
魔女の言葉に、彼は一瞬目を閉じて。
次の瞬間には海底に向かって一線の煌めきと化して沈んでいった。
後に残されたのは、深淵の魔女だけ。
「―――あの時、アタシには力が無くて・・・沈んでいくジジイ達をただ見てる事しかできなかった・・・。タク・・・あんたには悪いけれど・・・海竜族の最後の一人であるアレの想いを、アタシは叶えてやりたい。諦める事しか選べない者たちに、せめて対等の位置で運命を選ばせたい。星の導きが正しいのなら、タクの“運命”の相手は未知数。あの子が最後に誰かを選ぶのか・・・それとも・・・？」
小さく呟いて、彼女は口元を綻ばせる。
長い間、色々な事を見聞きしてきた彼女にとっても、『未来（さき）』が“視”えないなんて初めてだから、意識が惹き付けられる。
対価は口実に過ぎない。
あの海竜族の青年が舞台に参加した後の、運命の辿る糸を考えただけで身体がゾクゾクと震えるのだ。
自分の身体を抱きかかえる様な格好で、深淵の魔女もまた自分の住処に戻った。
星が巡る。
数奇な運命の導きで、彼は望むと望まざるとに係らずに、世界に巻き込まれていく事になるのだった。
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