その部屋の中は海底の宮殿のように煌びやかだった。
一歩部屋の中に入ったタクは口をあんぐりと開けたまま、言葉もなく立ち尽くした。
中央には白磁の巨大なプール。
底に沈んでいるのは、珊瑚や真珠の粒。
周りを飾るのは色とりどりの豪奢な布。
幾重にも折り重なった布が中央のプールを囲むように垂れ下がっている。
所々透き通った箇所には、黄金の宝玉が散りばめられていて・・・。
「―――タクちゃん・・・？」
思わずフラフラと近付こうとしたタクは、掛けられたマコトの声に我に返った。
「ね、・・・凄いだろう？ナツオ王が俺の為に揃えてくれたんだ。ここでなら、タクちゃんも思いっきり泳げるだろ。さぁ・・・」
柔らかな笑みを浮かべてマコトが手を差し出す。
「・・・う・・・うん・・・」
ドキドキしながらタクはその手を掴んだ。
縁からそっと水中に足を入れると、マコトは見る見る内に容貌を変えていく。
茶色の髪が、エメラルドに変色し・・・瞳の色が深い藍色へと。
海の種族に相応しい・・・海王の姿に戻ったマコトは、既に水中で動きやすい鱗を持った下半身に変わっていた。
一緒に水に入ったタクは、自分がまだ服を着たままだった事を思い出す。
「あっ、服、脱がなきゃ・・・」
慌てて着ていた衣服を総て脱ぎ捨てる。
途端に、白い裸体が現れた。
「―――本当に、『足』になってしまったんだね。あんなに綺麗な尾びれだったのに・・・傷一つない玉のような・・・あぁ、勿体ない・・・」
「―――良いの。あの姿じゃ、リューヤと一緒にいられないから。」
大げさに嘆く真似をするマコトに、タクは困ったように微笑う。
「それに・・・髪も・・・」
「―――これは・・・薬と交換したから・・・」
短いタクの髪先に触れて、マコトは悲し気な表情を浮かべる。
人魚の髪は、魔力の素でもあるのだ。
何も持たずに魔女の館へ行ったタクたちには、他に交換できるものが無かった。
リューヤは自分の愛剣を差し出そうとしたのだが・・・それはタクが嫌がった。
何度か会話をしていた中で、それが物凄く大切な物だと知っていたから・・・。
「本気なの？本気で、『人間』になるつもりなんだね。」
「本当に、ボクが人間になれるのかなんて・・・理解らない・・・。でも、一緒に居られないと、ココが壊れちゃうのはホントみたい。」
そう言って、タクは自分の胸を押さえる。
「そう・・・。ずっとこの腕の中にいると思っていたのに・・・タクちゃんはもう『成長期』に入ってしまったんだね。」
「・・・成長期？」
「大人になる準備期間・・・かな。タクちゃんも海王族の血を引いているから今までは幼体だったから、無性だったけど・・・これからは伴侶しだいで性別が決まる。」
「―――性別・・・？」
「力が強くなれば、海王となるし・・・海王の后となれば、次の世代を生むことになる。・・・本当は・・・タクちゃんは・・・俺の・・・」
髪先にそっと口付けて、マコトは瞳を綴じた。
『運命の相手』だったナツオとの“絆”が切れたあと、マコトが見つけたたった一つの希望。
暁の光の渦の中から生まれた『タク』。
神託など関係ないと、ずっと手中で大切に育ててきたのだ。
何時か、自分の伴侶として・・・“絆”を繋ごうと思っていたのに・・・。
「マコト兄さん・・・？」
少し強く抱き込まれて、マコトの腕の中でタクが小さく身じろぐ。
マコトの中で薄暗い欲望が渦巻く。
―――このまま・・・想いを繋げたら？
二度と人間にはなれないが、器を繋げて海王としての力を注ぎ続ければ、タクが泡となって消える事はない。
人魚として・・・海の眷属としてマコトと共に、ずっと一緒に居られるのだ。
マコトの足元から立ち上るオーラが、深淵の闇色に染まりかける。
「こうしていると・・・懐かしいね。いつも、兄さんと一緒に泳いでいたから・・・」
言葉と共に、不意にタクが身を摺り寄せる。
柔らかな素肌の感触が、マコトの欲望に火を点けていく。
―――もしも心が壊れてしまったら・・・新しい『玉』を入れて、最初から育てれば・・・。
ゆったりと安心したように身を任せるタクに、マコトの葛藤が膨れ上がる。
「―――止めろ、マコト。」
今にも感情が爆発しそうなマコトを、留めたのは静かな・・・だが強い声だった。
バサリと布が払われて、ナツオ王がプールの傍に歩いてくる。
「・・・ナツオ・・・。」
「お前の考えが、俺に理解らないと思うのか？―――それで、お前が後悔するのを理解ってて、俺が止めない―――と？」
途方に暮れた表情を浮かべるマコトに、ナツオ王はきついとも言える真剣な顔でそう言った。
「―――王様？」
二人の只ならない雰囲気に、マコトの腕の中にいたタクが驚いたように目を丸くする。
「余り長く水に漬かると、『人間』の身体には負担になる。今の状態を保ちたいのなら・・・寝るのは水中のマコトの腕の中ではなく、ベッドの上にするんだな。」
キョトンとしているタクにそう告げると、片手でマコトの腕の中からタクを取り上げて・・・持ってきた柔らかな絹でできたタオルに包み込む。
「―――ッッ！！」
「頭を冷やせ、この馬鹿！理解っているだろう？―――お前と俺は未だに繋がっているんだから、お前の考えなんかだだ漏れなんだぞ？！『運命』を捻じ曲げれば、幾らお前だって輪廻の災いを受けて、ただで済む筈が無い。闇に染まった身体で、大事な者が本当に護れると思ってやがるのか・・・？」
奪われた事に、瞬時に怒りの表情を浮かべたマコトは、続けられたナツオ王の言葉にカッと顔に朱を走らせた。
対するナツオ王は軽々とタクを抱え上げたまま、仁王立ちの格好で構えている。
「小さな眷属を泡にしたくないと泣きついてくるから、ここまでお膳立てしてやったのに・・・　何が不満なんだ？いい加減、子離れしろっ！！」
「貴方に、俺の気持ちが理解るもんかっ！！―――こんなちっちゃな・・・掌に納まる頃からずっと・・・傍で・・・大事に・・・大切に・・・っっ！・・・貴方とは・・・駄目だった・・・から・・・だから・・・うぅ・・・」
真っ青な瞳から大粒の涙が零れ落ちる。
それは、キラキラと輝いて水中に沈む真珠となった。
「マコト兄さん？！」
初めて見るマコトの本気の泣き顔に、タクは蒼ざめた。
―――海王が泣けば、海が荒れてしまう。
大津波が陸を襲う。
海王の感情が、高ぶれば高ぶるほど、支配する海がその感情を読み取って波動を広げるからだ。
透明だったプールの水が、どんどん海底の藍に染まっていく。
俯くマコトの身体から立ち上るオーラが半端ないほどに広がっていく。
マコトの慟哭が衝撃波となって、プールの周りを飾っていた何枚もの布を吹き飛ばした。
「・・・ああぁ・・・ど・・・どうしよう・・・」
オロオロとするタクを、安全な場所に下ろすと、ナツオ王はやれやれという風に、腰に手を当てて深く溜め息を吐き出した。
「―――仕方ないな・・・。」
短く呟くと、マコトの放つ衝撃波を物ともせずに、近付いていく。
「・・・いつもいつも、俺の大切なモノを・・・奪っていく・・・人間なんか・・・『ニンゲン』なんか・・・」
マコトの足元から、今にも破裂しそうなほどプールの水が大きく盛り上がって―――膨れ上がっていく。
「こんな狭い場所で力を使われたら、王宮だけじゃなく、お前も壊れるだろうが―――静まれ、馬鹿っ！！」
膝までの深さとなってしまったプールの中、マコトの傍らに辿り着いたナツオ王は、抑えきれなくなった『力』を解放しようとしていたマコトの腕を掴んで引き寄せると、そのまま口付けた。
途端に、衝撃に襲われたように、マコトの瞳が大きく見開かれる。
愕然として、離れようとしたマコトの顎を掴むと、ナツオ王は尚も深く口唇を合わせた。
「・・・んんん・・・！！！」
力強い腕が、マコトの抵抗を封じ込めて・・・意識を奪う。
響きあうのは、互いの鼓動。
流れ込む強くて暖かい感情に・・・マコトは激しく動揺した。
解放する為に頂点まで高められた『力』が、威力を失う。
部屋の天井近くまで盛り上がっていた水は、大地の引力を思い出したかのように下に向かって流れ落ちた。
―――つまり、ナツオ王とマコトの上に。
「・・・冷てぇ・・・。」
頭からずぶ濡れとなったナツオ王が、唇を離して・・・憮然と呟く。
瞳を見開いたまま、わなわなと震えているマコトの表情は、信じられないものを見たかのようにナツオ王を凝視している。
「・・・な・・・な・・・な・・・」
唇が震えて、言葉にならない。
その顔が見る見る内に珊瑚のように赤くなる。
「―――なんで・・・こんな・・・」
掠れた声で、口元を抑えながら・・・マコトは後ずさる。
「―――まだ、理解んねぇのか？」
真っ直ぐな眼差しのまま、ナツオ王はひたと真摯にマコトを見詰めた。
そうして、掴んだまま離さなかったマコトの右腕を持ち上げて、そのまま手の甲に口付ける。
途端に、そこから光が溢れて・・・赤い痣が浮かび上がった。
それを見たマコトが、更に驚愕の表情を浮かべた。
「・・あ・・・有り得ない・・・こんな・・・」
泣きそうな顔で、首を横に振り続けるマコトに、ナツオ王は目線を合わせて、そうして自分の服の胸元を開いた。
「―――嘘だっ！・・・“絆”は・・・失われた筈・・・だから俺は・・・」
顔を背けて、見たものを否定しようと瞳をきつく綴じたマコトが悲鳴を上げる。
「マコト！」
動揺の余り・・・水に逃れようとフラフラとプールの奥に進もうとするマコトを、ナツオ王は逃がさなかった。
「・・・ちゃんと、見ろっ！！これが“絆”だ。繋がりだ！！理解ってるんだろう、お前も！『人間』に憧れるあまり・・・成れなかった『人間』を憎んできた。理解っている。先に、お前の心を壊したのは、俺だ！約束を破ったのも・・・。戦いの中で、俺はどうしても仲間を見捨てられなかった。それでも・・・俺は行ったんだぞ！―――約束の場所へ。お前が待っていると思って・・・」
「嘘だ・・・嘘だ・・・」
想いを吐き出すように告げるナツオ王に、マコトは何度も頭を振って拒絶する。
「―――待っていたのは・・・『ニンゲン』だった・・・。人魚の肉を食べれば不老不死になれると言って・・・俺を捕まえようと・・・。逃げるには、力の弱い人魚のままでは駄目だった・・・だから・・・だから俺は海王に・・・」
両手で顔を覆って、マコトは崩れ落ちた。
「海底に沈んで・・・そのまま消えてしまいたかった・・・。それでも、海は優しくて・・・俺を包み込んで浮上させた。・・・海上近くで、生まれたばかりのタクちゃんと出会わなかったら・・・俺は泡になってた・・・」
紡ぎだされる慟哭に、触発されたように、タクの瞳にも涙が盛り上がる。
胸が苦しくて仕方がない。
立ち上がったタクは、ふらつく足取りのままでマコトの傍に近付いて・・・崩れ落ちているマコトを抱きしめた。
「マコト兄さん・・・」
「・・・小さなタクちゃんが、俺の心の傷を癒してくれた。塞いでくれた・・・。ずっと一緒にいないと、俺は・・・俺の心は・・・。」
震えながら感情を吐露するマコトに、タクは何と声を掛ければよいのか理解らなかった。
マコトの告白を、目を閉じてずっと辛そうに聞いていたナツオ王は、ゆっくりとマコトの手を離した。
「そうか。なら、『解法』するか。」
重苦しい響きが、ナツオ王の口から発せられる。
途端に、マコトが弾かれたように顔を上げた。
「『人間』の世界も漸く安定した。まぁ、まだまだ平定しているとは言えないが・・・後に続く者もいる。―――もう、良いだろう。」
そう告げて、ナツオ王は懐から短剣を取り出す。
「・・・これは、あの時お前が寄越した髪から作った短剣だ。深淵の魔女に作らせた。それで俺の印の上・・・心臓を突き刺せば良い。」
ブルブルと震えるマコトの、赤い痣の浮き出ている右手にそれを握らせると、ナツオ王は自らの痣の上に狙いを定めた。
「スマンな・・・。俺の命を遣るから・・・こいつらの『願い』は叶えさせてやってくれ。」
大らかに優しく笑うナツオ王に、タクは我慢が出来なかった。
―――リューヤ・・・リューヤ・・・！！
悲しくて苦しくて・・・心に浮かび上がる『相手』を強く想う。
彼等は、自分たちと同じなのだ。
一歩間違えれば、自分たちが辿る悲しい道を選んでしまった二人。
「・・・ダメーっっ！！」
「―――タクっ！！」
マコトの腕を掴んだまま、自らの胸を貫こうとしたナツオ王の姿に、タクが泣き叫んだ途端、部屋の中にリューヤが飛び込んできた。
短剣からナツオ王を庇うように身を滑らせたタクの身体に、吸い込まれるように白刃が突き出される。
スローモーションのように、時が止まる。
刹那で抜刀したリューヤが、タクの身体を傷付けようとしていた短剣を弾き飛ばした。
キンッッ！！
―――カシャーーンッッ！！
刃物同士のぶつかり合う音の後で、弾かれた短剣が床に落ちた音が重なった。
「―――ダメ・・・ダメだよ・・・ダメなんだ・・・からぁ・・・ばかぁ・・・」
ナツオ王にしがみ付きながら、タクはポカポカとその胸を叩き続ける。
泣きながら、何度も口にするのは抑えきれない悲鳴だ。
ナツオ王は、困ったような顔で・・・タクのするが侭にさせている。
「―――何が、あったんだ・・・？」
間一髪で危機を救ったリューヤは、訳が理解らなくて唖然と呟いた。
元凶の一端であろうマコトを見遣ると、すっかり魂が抜け落ちた感じで座り込んでいた。
その表情の儚さに、一瞬タクの姿が重なる。
グラリと傾いだマコトの身体が、力を失ったかのように水中に沈んだ。
「―――マコト？！」
「マコト兄さん？」
気付いた二人が慌てて近寄り、ナツオ王が水中からマコトを抱き上げた。
ぐったりとしたマコトは、青白い表情のまま硬く瞼を閉じていた。
「・・・王様が・・・王様があんな事するから・・・」
辛そうに絞り出すように言葉を吐き出すタクは、全身を震わせていた。
「―――タク？」
「・・・マコト兄さんが、可哀想だ・・・ぅ・・・うわーーーんっっ！！」
横に立ったリューヤにしがみ付いて、タクはわんわんと泣き出した。
「・・・っっ！！」
「―――くゥッ！！」
途端に、鼓膜を破りそうな超音波が広がって、ナツオ王とリューヤは耳を押さえた。
部屋の中、心臓を鷲摑みにされそうな響きが、胸を締め付ける。
特に、タクと同調しているリューヤの痛みは酷いものになった。
「・・・っぅ・・・タク・・・！」
こんなにタクが大泣きするのを、初めて見たリューヤは、苦しい息の中、目まぐるしく頭を働かせる。
“―――人魚は、涙から溶けてしまう・・・。あんまり、不安にさせない事だ。泣かせるなんて、もっての他だよ。いつも一緒に居て、泣かなくて済むように護ってやるんだな。―――��
浮かび上がるのは、魔女の最後の『詞』。
泣かせるな―――と、魔女は言ったのだ。
そうして、泣き止ませる方法も―――。
自分にしがみ付いてわんわん泣きじゃくっているタクを抱え上げると、そのままリューヤは額にキスをする。
それから、透明なガラスの粒が溢れる瞼に触れる。
「・・・タク・・・タク・・・」
何度も何度も耳元で名前を呼んで、想いを込めて頬に口付ける。
すると、徐々にタクの声が静まっていく。
クスンクスンと啜り泣きに変わったのを確認して、リューヤはその唇を塞いだ。
「・・・ん・・・」
しがみ付くタクを安心させるように、何度も髪を梳いてやると、漸く泣き止んだ。
それでも、リューヤにしがみ付いたまま、顔を上げようとしない。
余程、悲しい事があったのだと理解したリューヤは、ナツオ王に向き直った。
「―――で？」
凶悪な視線で、話を促す。
すっかり蚊帳の外な状態なのと、タクが短剣によって傷付く寸前だった事を思い出して、感情が納まらない。
「返答次第では、このままタクを連れて行く。」
ギリギリの線で怒りを止めて、冷静な声を出す。
夜間の行動など、危険以外のなんでもない。
それでも、タクをこれ以上泣かせる訳にはいかないのだ。
「―――俺の命で、ケリをつけようとしただけだ。」
マコトを抱えたまま、ナツオ王はボソリとそう告げた。
思ってもいなかった爆弾発言に、リューヤは瞠目した。
「・・・俺たちも、同じだ。１５年前・・・帝国はまだ争乱期だった。俺は、只の地方の一貴族でしかなく・・・大地は乱れに乱れていた。弱い者から淘汰されていく、理不尽な世の中・・・。誰かがやらなければならないのなら、俺が変えてやろうと思った。そうして、『人間』同士の醜い争い事がなくなれば・・・同族で争そう事を止めれば・・・平和を愛する海の眷属にも認められると思っていた・・・。」
疲れたように、ナツオ王は言葉を吐き出す。
「マコトは、王になどならなくても良いと・・・戦いに身を投じて・・・血潮の穢れに浸らなくても、生きていけると何度も言っていた。」
遠くを見ているような視線が、部屋の隅に向けられる。
「―――だが、俺は『人間』を捨てられなかった。弱くても、しっかりと大地に足を根付かせて、雄々しく生きる者達を・・・どうしても、見捨てられなかった・・・。」
悔恨の“想い”。
王道を生きる為に、生を受けた―――その『宣託』を、ナツオは変えられなかったのだ。
“覇王”の貌相を持って生まれた為に、修羅の道を往くしかなかった・・・。
「・・・本当に護りたかったのは・・・護らなければならなかったのは、唯一の『存在』だったのだと、気付いたのは―――失った後だった。」
視線をマコトに移して、ナツオ王は独白を続ける。
「それでも、胸の“痣”が消えることは無かった。カナガワを統一して、陸の王として『海神』の王族に会いに行ったが・・・マコトは何処にもいなかった。残された髪と引き換えに、魔女に行方を尋ねて・・・占って貰った時に、自分が取り返しのつかない事をしたのだと理解った。」
マコトの髪を梳きながら、ナツオ王は自嘲気味に笑った。
「―――再会したのは、３年前だ。代替わりした『南海の王』として、マコトはこの王宮に現れた。せめて何か出来ないかと、この部屋を贈った。・・・王宮の地下に海に続く洞窟と湖を造らせたのも、本当はマコトを迎え入れる為だったからな。だが、マコトの心は俺を拒否した。・・・当たり前だ。“約束の場所”で、人間に襲われていたなんて・・・その所為で・・・。」
拳を握り締めて、ナツオ王はプールの壁を殴りつけた。
「どうすれば良いんだ・・・俺は、どう償えば良いというんだ・・・。この“絆”がある限り、『運命の相手』は変えられない。魔女が寄越した“絆”を断つ海の眷属の短剣で、人間の心臓を貫く事だけが・・・ただ一つの・・・」
唇を噛み締めて、絞り出すように吐き出したナツオ王の言葉で、漸くリューヤは先程部屋の中に飛び込んできた時の状況を理解した。
眉間に深く皺が刻まれる。
話の内容からすると、どうやら人間であるナツオ王と、タクの兄である南海王も『運命の相手』同士だったようだ。
だから、あんなにリューヤに対して感情を激しくぶつけてきたのだと・・・タクを不幸にすると言い切れたのだと今更ながらに気付いた。
「どうして、二人が『運命の相手』のままではいけないんだ？」
取り敢えず、疑問を口にする。
リューヤの問い掛けに、ナツオ王は驚いたように顔を上げた。
「―――魔女は言った。『運命の相手』以外と契りを結ぶことはできない―――と。だから、俺はタクを護り、一緒に居る事を選んだ。それは、これから『人間』になるタクが男になろうが、女になろうがこの気持ちは変わらない。死の淵から俺を救い上げた『魂』。その傍にいられれば―――それだけで良い。」
言い切るリューヤの言葉に、しがみ付くタクの腕に力が篭った。
リューヤの言葉は、いつも自分の心に真っ直ぐだ。
普段の口数は少ないけれど・・・それでも、態度で・・・全身でタクを護ってくれる。
今も、そうだ。
悲しいマコトとナツオ王の話に傷付いたタクの心を、リューヤの言葉があっという間に癒してくれた・・・。
胸の奥から、暖かくて柔らかな“想い”が溢れ出てくる。
ゆっくりと全身を満たしていく『感情』。
「・・・魔女は、俺に死ぬなとも言った。『運命の相手』を失った衝撃は、タクには耐えられないだろうとも。“絆”を交わしたのなら、『誓約』を唱えて誓いを口にした筈だ。―――“互いの鼓動が同じ《時》を刻む”・・・繋がっていると聞かなかったのか？」
「―――聞いた。だからこそ・・・“絆”の呪縛から解放しようと・・・」
「あんたにとって、“絆”は呪縛なのか？」
「それ・・・は・・・」
戸惑うようなナツオ王の言葉に、リューヤは尚も問い掛ける。
「あんたが死んだ後、“絆”を失えば、マコトは本当に“解放”されるのか？それは、一体―――何からの“解放”なんだ？」
静かな問い掛けに、沈黙が落ちる。
答えはナツオ王の口から返ることは無かった。
「・・・マコト？！」
ナツオ王の腕の中で、マコトの身体から淡い光が湧き上がったからだ。
胸の中心から溢れ出した輝きが、見る見る内に全身に広がっていき・・・その輪郭が揺らぐように薄くなっていく。
「―――兄さん？！駄目・・・消えないでっっ！！」
異変を察知したタクが、リューヤの腕の中で悲鳴を上げる。
『―――もう良い・・・俺が消えれば良いんだよ・・・。あの時、泡になっていれば・・・』
透明な澄んだ声が直に脳裏に響き、硬く綴じられたマコトの瞳から一筋の光りが零れ落ちた。
『ナッちゃん・・・ごめん・・・なさい・・・』
「王様っ！！兄さんを繋ぎとめて！！・・・大好きな人を自分の手で殺すなんて・・・そんなこと・・・できる筈ないものっ！！どうして、理解らないの？！兄さんが欲しがってるのは・・・望んでいるのは、たった一言なのにっ！！」
大きく首を横に振って、タクは心の底から全身全霊でそう叫んだ。
―――気付いて欲しかった。
本当は、タクも知っているのだ。
いつも優しかったマコトが、口では人間が嫌いだと言いながら・・・時折淋しそうに陸を見ていた事・・・。
タクにも触らせない、硬い貝殻の宝石箱に大切にそっとしまっている・・・その指輪の宝玉が王様の瞳と同じ大地の色をしている事も思い出した。
そんな二人が、互いの気持ちがすれ違ってしまったまま・・・こんな風に、悲しい結末を迎えるなんて、辛すぎるから・・・。
ツツーッと、ナツオ王の頬を涙が伝わった。
「―――逝くな。俺は、お前に幸せになって欲しかった・・・誰よりも・・・何よりも・・・。俺一人を置いて・・・消えないでくれ・・・」
いく筋もの流れが落ちて、淡く光り輝いて今にも消えてしまいそうなマコトの顔に滴り落ちる。
「今でも・・・愛してる―――マコト。」
懇願するように、そう告げると・・・ナツオ王は抱き締めたマコトの唇に口付けた。

　　　＊＊＊＊＊＊＊＊＊

ガヤガヤと騒がしい街並み。
祭りはまだ続いているようだった。
人波を逸れない様に、二人の旅人が歩いていく。
それは、王宮を離れたリューヤとタクだった。

「・・・マコト兄さんと王様のケンカ・・・仲直りできて、良かったね。」
繋いだ手を大きく振って、タクが明るい声を上げる。
「―――別に、喧嘩をしていた訳ではないだろ？」
長年の確執はそう簡単に消えるものではない。
それでも、ナツオ王の口付けが、消えようとしていたマコトの魂を繋ぎとめたのは紛れも無い真実で・・・。
眩い閃光と共に、実体を取り戻したマコトが目を開けるまでそう大した時間は掛からなかった。
人目も憚らず、きつく抱き締めたナツオ王の腕の中で、浮かべられていたマコトの表情を見たリューヤは、もう大丈夫なのだとストンと納得できた。
直ぐに照れ隠しのようにナツオ王を突き飛ばして、あっという間にプールの際奥の水中に消えたマコトは、赤い顔のまま水中から出てこなかったが・・・。
立ち上がって、水の中から出たナツオ王は、酷くバツが悪そうな表情を浮かべてから、リューヤとタクに礼を告げた。
―――半身を失わなくて済んだ・・・ありがとう―――と。
その後、二人がどうしたのか、リューヤもタクも理解らない。
そのまま、別の客室を用意されて、二人で朝まで一緒に寝たからだ。
腕の中で穏やかな寝顔を浮かべているタクに、漸くリューヤも安堵して・・・眠りについたのだ。
やはり、離れているのは酷く心が落ち着かないのだと改めて理解した。
一緒に居なくてはならないのだと。
「ふーーん・・・。」
何か考え込んでいたタクが、リューヤを振り返る。
「でも、あの黒い鎧の男の人が、王様に向かって・・・『痴話喧嘩もほどほどにして下さい』って・・・そう言ってたよ？」
「―――グッ！！」
予想外の言葉に、一瞬息が詰まる。
黒い鎧といえば、『玄武』の騎士ハルキ＝ワニブチに他ならない。
王宮一の堅物で通っていた男の意外な発言に、リューヤは二の句が告げなかった。
「ねえ、リューヤ・・・痴話喧嘩って・・・何？」
小首を傾げて問い掛けるタクに、深い意味はない。
それでも、どう答えれば良いのかリューヤには理解らなかった。
「・・・犬も食わない・・・もの・・・だ。」
取り敢えず、苦虫を噛み潰したような表情で、覚えている知識を引っ張り出す。
「―――犬が食べるの？ん？・・・食べないの？」
顔中に？マークを貼り付けたまま、タクはむぅ？と唇を尖らせる。
「・・・つまり、手を出すものじゃないって事。」
「人間の言葉は・・・本当に難しいねぇ・・・」
続けられたリューヤの言葉に、タクは困ったように微笑った。
釣られて、リューヤも口端を持ち上げて、タクの身体を引き寄せる。
「リューヤ？」
「難しい事は考えなくて良い。まずは、本当の『人間』になってからだろ？」
耳元に口を近付けて、そう呟くと・・・そのまま柔らかな頬にキスをする。
途端に、花が綻ぶようにタクは笑う。
「・・・うん。」
ナツオ王とマコトの事は、あの二人自身が決めることだ。
取り敢えず、自分たちは自分たちの道を進まなければならない。

二人で一緒に居る為に・・・。
違う種族でありながら、『運命の相手』と定められてしまった二人が―――一緒に生きていく為に。

大好きな相手と同じ人間になりたいと望んだ『人魚』と・・・総てを失って、人魚の為だけに生き、その身を護ることを誓いとした『人間』。

物語のハッピーエンドを目指して、二人の旅はまだまだ続くのだった。

　　　　　　　　　　　　　　　

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