目の前から相手が消えたのは、拓が唇を奪われてから１５秒後だった。

『――――＊＊＊＊＊＊＊・・・！！――――』

不思議な音と共に、拓の固まった身体が動いた。

「・・・・た・・・・・ぁ・・く、、、さ・・・ま・・・」

微妙な音程が耳に染みこむのと、目の前を銀色の幕が覆うのは同時だった。
柔らかなその幕が揺れる。
頬に触れたそれが、美しい銀色の髪なのだと認識したのは、またしても全く見知らぬ人物が覗き込むように視線を合わせてきた後だった。
先ほどの人と対照的な西洋人形の様に透き通った肌を持った人物が、湖水のような深翠の瞳を潤ませて、拓をじっと凝視しているのだ。
そのまるで天使のような容貌を持つ人物に見詰められて、拓はかあぁっと全身を染め上げた。
しかも、その物凄く長い足が足蹴にしているのは、今まで拓を捕まえていた人物で・・・どうしてそんな事になっているのかが全く理解できない。

「あ・・・あの・・・その・・・ひぃっ！！」

まだ夢を見ているのか・・・？
それとも、さっきの出来事でとうとう自分はどうにかなってしまったのだろうか・・・などと、パニックに陥りそうな状態でしどろもどろ言葉を探そうとした拓を、相手は物凄い笑顔を浮かべた状態で抱き締めてきたのだ。
余りの衝撃に、拓はとうとう半狂乱になった。

「や・・・なに・・・？―――は・・・離してっ！！・・・」
「―――拓様？！如何、なさいましたか？！」
「あ、檜原さん？！・・・た・・・助けて下さいっ！・・・じゃ、なくて・・・時貞くんにっっ！！・・・え？」

奥庭の方から現れた天羽家の忠実なる執事である檜原が、小走りにバルコニーへと向かって走り寄ってくる。
藁をもすがる気持ちでつい助けを求めてから、得体の知れない人物を相手では、檜原に申し訳ないと、拓は時貞の名を出す。
だが、視線を向けた檜原の表情に愕然とする。
いつも冷静沈着で無表情を貫き、滅多に感情を表に顕す事のない完璧な執事である檜原が見せた初めての『貌（ひょうじょう）』。

「・・・桜？・・・吹雪？」

その口から零れ落ちた音に、拓を包み込んでいた腕がビクリと震えた。

「お前たち・・・その姿は・・・」
『・・・グラン、パ・・・』

耳に飛び込んできた言葉に、拓は「はぁ？」と間抜けな表情となった。
今聞いた、物凄い衝撃的な事に、思わず自分の頬を抓る。

「いたっ！」

―――現実だった。
夢じゃない。
できれば、夢であって欲しかったのに。

「・・・檜原さんのお知り合いの方でしたか・・・。えっと・・・ボクもう寝ますから・・・離して頂けませんか？」

何処をどう辿ったら血脈で繋がるのかとか物凄く気になったけれど、これ以上深入りしたら絶対にろくな事に成らないとひしひしと第六感が告げているので、拓は早急に逃げ出そうと言葉を発する。
吹き飛びそうな根性を精一杯引き寄せて、穏やかに慎重に言葉を選ぶ。
途端に浮かんだ寂しそうな相手の表情に、引き込まれそうになって、思わずギュッと拳を握り締めた。

「拓様の言う通りにしなさい。」

檜原の言葉に、漸く拓の身体が離される。
自由を取り戻した拓は、自分の足で地面を踏んで、確かに足が地に付く事にホッと胸を撫で下ろした。
それから、キョロキョロと辺りを見回す。
一緒に居た筈のアービィとルーファスの姿が何処にも無かったので、先に寝室へと戻ったのかもしれない。
絡みつくような視線に気付いて振り返ると、月光の中すらりと佇む美貌の二人が、真っ直ぐに拓を見ていた。
その強い目線が、何かを訴えているようで拓は足が動かなくなってしまう。
ゾクゾクする悪寒は、確実に強くなっているし、耳に痛いほど心臓の音が鳴り響いている。
早くこの場所から離れるべきだと全身が訴えているのに、囚われてしまったかのように意識が離れない。

「あ・・・あの・・・檜原、さん。」

危険信号の様に、甲高い警戒音が何処かで鳴っている。
なのに、言葉は無意識に唇から零れ落ちた。

重なるシルエット。
自分は確かにこの二人を“識”っている。
金と銀の――――孤高の魂。
寂しがり屋の・・・獣。

＜・・・あれは・・・誰？＞

不意に、脳裏に湧き上がったその『姿』。
記憶の深淵からプカリと浮き上がった映像。
目の前の二人と酷似したその姿には、ありえない物が付いていた。
驚きのままにもっと良く“視”ようとして、次の瞬間、目の前がテレビの砂嵐のように真っ暗になった。
同時に、スゥッと力が抜けて、全身が鉛の様に重くなっていく。

「拓様っ！！」

驚いたような檜原の声を最後に、拓の意識は闇に吸い込まれるように沈み込んだ。
フラリと倒れこんだ拓を、俊敏な動きで抱き止めたのは、銀の髪の人物だった。
壊れ物を取り扱うかのように腕の中に包み込んで、ザッと全身に目を走らせる。
そうして、拓が気を失っているだけだと気付いて深い溜め息を吐いた。

「取り合えず、時貞様にご説明をして、指示を仰ごう。吹雪、拓様をそのまま寝室へ。・・・桜、いくら久しぶりだからといって、その姿で四つん這いになるのは止めなさい。」

眉を潜めた檜原の言葉に、従うように拓を抱き上げた吹雪と呼ばれた人物は、そのまま慎重に歩き始めた。
金髪の人物も、ムクリと起き上がって檜原の言葉に従い、銀の髪の後を追う。

「―――お前たちに掛けられた“呪い”。まさか拓様が解く事になろうとは・・・」

きつく眉を寄せて苦悩の表情を浮かべてから、檜原は深く考え込むように額に指先を当てて目を閉じる。
そうして一連の出来事を“過去視”した。

「成る程、今夜は『夢見月』の十七夜月。星と月の巡り会わせがあの夜と同じ・・・。埋もれていた古の魔方陣が発動したのは必然・・・という事か。」

ゆっくりと開かれた檜原の瞳は紅く光り、それは人の持つ色では無かった。
一瞬で消えた紅い光が収まると、いつもの寡黙な執事が現れる。
黒髪に黒い瞳・・・親戚にこんなモデルのような者たちがいるとはとても思えないような地味な容姿の目立たない初老紳士は、ほんの少しだけ口端を持ち上げた後で、何事もなかったかのように踵を返した。
ベッドの上、目を醒ましているだろう若主人に、どう説明すべきかを瞬時に叩き出す。
経緯を知られればそれなりに制裁を加えられそうな気もしたが、基本従僕に甘い時貞が二人に本気を向ける事は無いだろう。
――――無いと、思いたい。
複雑な思いを抱えつつ、歩き出す檜原のその真っ直ぐな背中には苦悩の二文字がくっきりと浮かんでいた。