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摩天楼の夢
ニューヨーク・・・マンハッタン。
摩天楼とも呼ばれる夢の街。
全米ツアーのラストライブは、マンハッタンの一角にある劇場のステージを借りてやる事になった。
ガヤガヤと目まぐるしく人が出入りいている中で、ポツンと椅子に座っていた拓は、ステージの上の時貞の演奏が終わって、一段落ついて進行の話し合いに突入し始めたのをみやってから、そっと立ち上がった。
大柄な者たちの中を、小さな身体ですり抜けるように歩いて、ドアへと向かう。
通りすぎる時に、一瞬向けられる視線は、だが直ぐに興味を失ったかのように逸らされる。
ドアからロビーに出て、ひんやりとした空気に、漸く拓は一呼吸ついた。
「ふうっ・・・。」
側にあったソファーに、凭れるように座り込む。
ただ時貞についているだけで、音楽の事もライブ関係の事も何も知らない拓は、いつもいつも蚊帳の外だ。
語学が発達している訳でもないから、日本語しか喋れない拓では、母国以外では、何もする事もない。
皆が必死で動き回っている中で、ただボーとしているのも、何かと気まずいのだが・・・それ以上に何だか今日は身体がだるくて仕方なかった。
「・・・少しだけ、休んでこ・・・」
フーッと息を吐いて、目を瞑る。
長い間戻らなければ、超が付くほど過保護な時貞が、演奏などそっちのけで拓を探しに来てしまうので、中々気を抜ける事もできないのだ。
時貞にしてみれば、拓が居るからこそ“言葉”の代わりに『音色』として演奏しているだけであって・・・他の奴らなどどうでも良いらしい・・・。
“運命の相手”は、とにもかくにも『我が道を往く人』であった。?
最初に気づいたのは、緋咲だった。
関係者の音響や舞台装置などの横で、ちょこんと座っていた拓が立ち上がったのを見て、眉を潜める。
ふと、視線を流した時貞は、まだ気づいていないようだ。
何か新しいフレーズが生まれたのかもしれない。
ギターと語っている時貞が、拓が居ない事に気づいたら、その場で修羅場になるのを良く理解っている緋咲は、チッと舌打ちをすると、持っていたスティックを横に置いて、立ち上がった。
「カオちゃん？」
気付いた平蔵が問いかける。
「ちっと一服してくる。」
ボソリと呟くと、そのまま煙草の箱を持ってドアへと向かった。
ロビーに出て、姿を捜そうと視線を巡らす前に、拓がすぐ側のソファーに座っている事が理解った。
この国の基準は、日本と違って全てがでかいので、ただでさえ標準以下の拓の身体は尚更小さく見える。
お決まりの“ジョーカー”を口にくわえた緋咲は、持ってしまった自分の感情を、無理矢理押し込めるとその側へと近づいた。
「・・・・・・」
声を掛けようとして、拓が眠っている事に気付いて、緋咲はほんの少しだけ瞳を見開いた。
こんな場所で無防備に寝られるとは、余程肝が座っているのか・・・それとも、余程疲れているのか・・・。
まだあどけなささえ残っているようなその寝顔は、昔と少しも変わっていない。
尤も、緋咲が知っているのは写真の中でだけだが。
“敵”だっただけに、緋咲と喋る時の拓はいつも何処か身構えているのだ。
それは、今でも―――変わらない。
過去を変えられない限り、染みついてしまった印象もまた、なかなか変えられないものだ。
記憶の中・・・笑顔など、見た事もない。
泣き顔なら・・・それこそ腐る程あったが・・・。
そこまで考えて、一瞬自嘲気味に口端を持ち上げると、緋咲は吸い終った煙草を、灰皿に押しつけた。
最後の一筋の紫煙が、ゆらりと立ち上がった。
「・・・んっ・・・」
傍らに人の気配がして、拓はまた閉じようとする瞼をこしこしと擦って、何とか視界を開こうと努力する。
「―――まだ、寝てても良いよ、拓ちゃん。」
ゆったりとした甘いテノールの囁き。
ドキッとした拓は、次の瞬間すっかりと目が覚めた。
「とっとっ・・・時貞くんっ？！」
そうして、自分があのまま眠ってしまった事と、更に恐ろしい事に時貞にひざ枕して貰っている事まで理解ってしまった。
プシューーッッ！！と全身から湯気が立ちそうなぐらい見事に染まった拓が、慌てて起き上がろうとするのを、時貞はやんわりと押し止めた。
「―――ボクちょっとだけって思って・・・ごめんなさい。」
真っ赤になったまま謝る拓に、時貞は小さく笑う。
「気にする事はない。だけど、俺の目の届くとこに居ないとダメだよ、拓ちゃん。あんな場所で一人でいたら、拓ちゃん可愛いから、悪い人に浚われちゃうよ。」
「・・・・・・はい。」
鮮やかな笑みでそう告げる時貞の言葉に、拓は少しだけ困ったような表情で、それでも小さく頷いた。
「良いコだね♪」
膝の上にある拓のサラサラな髪の毛を弄んでいた指先を、スッと動かすと、そのまま時貞はそっと拓に口づけた。
「・・・んっ・・・」
従順に受け入れる甘やかな唇を堪能すると、震える指先が時貞の腕にすがるようにキュッと握られた。
何処にもやらない・・・。
誰にも渡さない・・・。
そんな感情が時貞を支配する。
この腕の中・・・手にした温もりは自分をこの世につなぎ止める最後の絆だから・・・。
「時貞・・・くん？」
「―――何？」
漸くの事で口づけから解放すると、上気した顔のまま少しだけ涙に濡れた瞳で拓は時貞に問いかけた。
嬉しそうに尋ねる時貞の顔に、一瞬だけ口ごもる。
「・・・拓ちゃん？」
「あの・・・リハーサル・・終わったの？」
再度先を促すと、拓は恐る恐ると言った風に、時貞にそう尋ねた。
「・・・まだだ。」
だが、返事は別の所から帰ってきたので、拓はビクウッと身体を硬直させてしまった。
「えっ・・・？あっ・・・？！」
ビクビクと声の方を向くと、仁王立ちのような恰好で静かに怒りを漲らせている緋咲が見えた。
「―――！！！」
今度こそ、驚いて拓は慌てて起き上がると、恥ずかしさの余り真っ赤な顔で泣きそうな表情のまま緋咲の視線から逃れるかのように時貞の影に隠れた。
見られていたという羞恥に、かあぁぁぁっと熱が上がってきて目の前が真っ赤になってしまう。
そんな拓の様子を、すっかり愛しい者を見るような視線で見つめると時貞はフッと唇を持ち上げた。
「照れてるのかい？拓ちゃん・・・可愛いっ！」
必死に自分の影に隠れようとしている拓の身体を軽々と抱き上げると・・・時貞はそのまま両腕に抱き込んでギュッとした。
「・・・わあっ！！？」
「―――時貞・・・いい加減にしろっ！」
わざと見せつけるかのように腕の中の拓にすりすりしている時貞に、緋咲の額に怒りの血管が浮き上がる。
「ウルサイ。・・・俺に演奏させたかったら、邪魔するな。」
つかつかと歩いて、ふざけている時貞の肩を掴んだ途端に、ゾクリとするような“緋”の瞳に射るように睨まれて、緋咲はチッと舌打ちした。
「・・・勝手にしろっ！」
吐き捨てるようにそう言い捨てると、乱暴とも言える動作で緋咲は部屋から出ていってしまった。
「・・・・時貞くん・・・」
少し咎めるような拓の言葉に、時貞はゆっくりと拓を見つめた。
「何だか・・・時貞くん、変だよ。―――落ちつかないの？」
そっと気づかうように尋ねられて、時貞はほんの少しだけ表情を崩した。
誰にも気付かれないように気を付けているつもりだったのに、拓にはばれてしまう。
それがまた、時貞にとっては喜び以外の何でもないだけに・・・。
愛しさがこみ上げる。
「何でもないよ・・・拓ちゃん。ただ・・・」
「・・・ただ？」
ついポロリと出てしまった“心”に、拓は不思議そうな表情をする。
「・・・・・・・・」
だが、唇を閉ざして目を細めた時貞の表情に、拓は何を思ったか、ギュッと時貞をその小さな身体全体で抱きしめてきた。
「・・・拓ちゃん？」
「―――ううん。言いたくない事なんでしょ？だから、言わなくても良いよ・・・。でも、何だか時貞くんがとても悲しそうだから・・・だから・・・」
元気だしてね・・・と呟かれるその“想”いが、余りにも心地よくて。
「・・・サンキュー・・・」
ささくれだっていた魂が、癒された気がした。
どうしよう・・・？
不安に怯える気持ちを抱えて・・・拓は必死に走っていた。
すぐ近くにあるホテルに、先に戻って皆の衣装とかを用意しておこうと、建物から出た途端に、白人のグループに声を掛けられたのだ。
勿論、何を喋っているのか全く理解できなかったので、唯一教えてもらった言葉で、やんわりとその場を通りすぎようとした途端に、腕を掴まれてしまった。
無理矢理引きずられかけて、慌てて拓は必死に抵抗して何とか腕を外して、逃げたのだが・・・。
追いかけてくる連中から必死に逃げて、何とか助けを求めようとするのだが、言葉の理解らない異国の中では・・拓の方が異邦人なので、誰も相手にしてくれない。
“時貞くん・・・時貞くん・・・助けてっ！”
幾つもの路地を走り抜けて、張り裂けそうな心臓を必死に堪えて走りつづける。
こんな事になるのなら、皆と一緒に出れば良かった・・・と今更ながらに後悔しながら・・・。
追い詰められていく・・・獲物のように。
「・・・あっ・・・」
遂に足がもつれて、拓は派手にすっ転んでしまった。
「・・・っ・・・」
慌てて立ち上がろうとして、瞬間走った痛みに、拓は眉を潜めた。
そうして、後ろに視線を向けた途端に、絶望に取り込まれた。
先程の連中が、勝ち誇ったような笑みを浮かべながら、ゆっくりと近づいてくるのが見えた。
「・・・やっ・・・」
余りの怖さに、動かない足を引きずってでも逃げようとした拓は、あっと言う間に、捕まってしまった。
「離せっ！嫌だっ！」
ジタバタともがいて、何とか逃げようと必死に抵抗していると、強烈な痛みに襲われた。
殴られたのだと、認識した途端に、クラッと視界が歪む。
それでも、何とか助けを求めようと弱々しく延ばされた腕は、虚しく空を切るだけだった・・・。
ビリッと音がして、着ていた服が破かれる。
両手足を別の奴に押さえ込まれている拓は、どうする事もできずに、ただ泣きながら首を振りつづける。
「・・けてっ・・・助けて・・・時貞くん・・・！」
無骨とも言える大きな手で、無造作に撫でさすられて、その時貞の繊細な動きとは全く違う感触に、鳥肌がたった。
拘束されている状態で、弱々しく身を捩って、その嫌悪感に耐えるが、溢れ出る涙は止めようがない。
更に、自分に伸しかかっている男が、チャックを下ろしその自身を見せつけるかのように取り出した時には、拓の恐怖は限界まで突破した。
「・・やだっ・・・やだやだっ・・・ときさだ・・くんっ！！」
悲鳴のように、助けを求める。
ただ一人の・・・拓を救ってくれる者の名を・・・。
「―――何、してやがる？！」
大きく足を開かれて、受け入れる体制を取らされて、もう駄目だと拓がきつく目を閉じた途端に、耳に届いたその響きに、拓はハッと瞳を見開いた。
「・・・お前っ？！」
時貞ではない・・・。
その上、苦手な相手にこんな所を見られてしまうなんて、拓は目の前が真っ暗になる気がした。
路地裏に、奇妙な空間が生まれる。
だが、一瞬後に動いたのは、その者の方が速かった。
昔培ったなんとやら・・・というのだろうか？
拓を襲っていた連中が身構える間もなく、繰り出された拳で地に沈んでいく。
拘束が解けて、漸く自由になったので、慌てて拓は震える身体を必死に動かして・・・脱ぎ捨てられていた服をかき集めて自分の惨めな恰好を隠そうとした。
「・・・ふっ・・・」
助けて貰った途端に、安堵の為か涙が溢れた。
惨めで悔しくて情けなくて・・・。
このまま消えてしまいたいぐらい・・・胸が張り裂けそうなぐらい辛かった。
うずくまるようにして、自分の身体をギュッと抱きしめて震え続けていた拓に、フワリと何かが掛けられる。
それが、相手の着ていた上着だという事に気付いて、拓は酷く驚いた。
だが、顔を上げる事ができない。
もしも嘲りの言葉など貰ったら、きっと心が潰れてしまう・・・。
掛けられた上着をきつく握り締めて、拓はきゅっと唇を噛みしめた。
カチッと音がして、密かに紫煙の匂いが辺りに漂う。
「・・・風邪、ひいちまうぞ。」
ボソリと告げられた言葉に、何とか涙を止めようとしていた拓は、不意に暖かい温もりに包まれてびっくりした。
そんな言葉を貰うとは、予想もしなかったから。
「・・・緋・・・咲・・くん・・・？」
掠れる声で、途切れながら問いかける拓に、緋咲は照れたように顔を背けた。
「―――無理するな。今なら、喩えお前が泣いても弱いなんて思わねーし・・・誰にも言わせねぇ。」
更にボソボソと紡ぎだされる言葉に、拓はこみ上げてくるものを堪える事ができなかった。
「ふ・・くっ・・・ぅ・・・ぇ・・・」
慰められるように回された腕の中で、拓は怯えて壊れそうだった“想”いを漸く解放できたのだった。
「・・怖かった・・・どうしょ・・て・・・」
ギュッとしがみついて、弱々しく泣きつづける拓を、安心させるように緋咲は回した腕に力を込めた。
タイミングが良かったとしか、言いようがない。
前々から行きたかった楽器屋まで足を運んで、緋咲は歩いて帰ろうとしてた所だったのだ。
ふと通りすぎようとした時に、耳に飛び込んできた途切れかかったその言葉が、日本語だったので、気になったのだ。
そうして、その音の発せられた場所が、どうやら通りから外れた路地裏のようだったので、どうしようかと躊躇した時に、はっきりと聞こえた悲鳴に、足が動いていた。
知り合いの名を叫ぶ者など・・・まして、悲鳴のように助けを求める者など、他にいる筈もないから。
そうして、走ってその路地に飛び込んだ緋咲は、何人かの者に襲われている拓の姿を視界に映した。
途端に、意識が吹っ飛んだ。
そうして、一瞬後にはそいつらを叩きのめす為に動いていた。
全員を地に沈めてから、振り返った緋咲は、怯えて小さな身体を更に小さくするかのように身を震わせている拓の様子に、胸に痛みが走った。
抵抗した時に殴られたのか、唇が切れて頬が腫れている。
地に押しつけられていた為か、薄暗いここでも拓が汚れている事が理解った。
もっと明るい場所だったら、身体のあちこちに別の傷があるかもしれない。
既に衣服とは呼べないようなボロボロのそれで、必死に自分の身体を隠そうとしている拓が余りにも哀れで・・・緋咲は自分の着ていた上着を脱いでその上に被せてやった。
すっぽりと収まってしまったその状態で、小さく問いかけると、漸く拓は緋咲を見上げたので、少しだけホッとした。
それでも、傷ついたような瞳には、いつも自分を見る時のような強さはない。
涙に濡れたその瞳を見た時に、緋咲は自分の感情を抑えきれなくなった。
そっと、その小さな身体を壊さないように腕の中に包み込んで・・・。
思った以上に小さかった事に気付いて、眉を潜める。 こんなにも・・・小さかったのか・・・。
頭では理解しているつもりでも、実際に触れるのとは大違いだった。
時貞が、必要以上に大切にしている理由が、何となく理解ったような気がした。
やがて泣き疲れたのか、それとも緊張の糸が解けたのか・・・拓は緋咲の腕の中で、意識を失っていた。
ぐったりとした身体を、抱え上げてその軽さに緋咲は瞠目した。
こんなに小さくて、壊れてしまいそうな程だっただろうか？
昔・・・初めて出会った頃は、もう少し・・・。
根性だけは人一倍あった筈だが。
少なくとも、秀人を侮辱されたと怒って緋咲の目の前に何度も立ち上がった時は、緋咲とタイマンをした事もあるのだから。
だからこそ、自分の気持ちに気付いた時には、酷く狼狽したものだった。
そうして、時は過ぎて・・・再会した時には、既に拓は時貞の腕の中に居たのだ。
結婚したと聞いた時は、呆れて果てて何も言えなかったものだ。
元々、時貞に常識はない。
きっぱりと言い切れる程、緋咲の知っている時貞はキレていた。
それでも、拓が側に居る時のその表情に、一番驚いたのは緋咲だったかもしれない。
あの時貞をここまで懐かせ・・・なおかつ、その情愛全てを受け入れている拓の“存在”はやはりただ者ではないのかもしれない。
今頃、必死の形相で拓を捜しまくっているだろう親友に、どう説明しようかと少しだけ悩みながら、緋咲はホテルへ向かって歩きだした。
「カオちゃんっ？！」
戻ってきて最初に緋咲に気付いたのは、平蔵だった。
相変わらずの化粧のままで、焦ったように近づいて来た平蔵は、緋咲が抱えているのが何かを理解して瞳を見開いた。
「―――説明は後だ。セロニアスは何処にいる？」
「・・・さっき疲れたように戻ってきて、部屋に閉じこもってる。それより、どうしたんだ？今、警察に捜索を頼んだんだぞ・・・」
口を閉ざした平蔵の代わりに、桜宮が問いかける。
それを視線だけで無視すると、緋咲はそのまま時貞の居る部屋へと向かった。
「じゃあ、俺は見つかったと連絡してくるからな。」
「―――オレは、このまま会場の方へ戻って皆に説明しとく。」
歩いていく緋咲の背中に、それぞれ声を掛けると桜宮と平蔵は動きだした。
「・・・開けろ、セロニアス。」
扉の前で、緋咲は部屋の中に居る人物に向かって声を掛ける。
だが、ドアに近づいてくる気配はない。
やり切れない“想”いを抱えて苦しんでいるだろうその心を察知して、緋咲は眉を潜めた。
「早く開けろっ！こいつが風邪を引いても良いのかっ！！」
だから、強く言い切る。
その無事を伝える為に。
一瞬後、内側から物凄い勢いでドアが開かれた。
「拓ちゃんっ？！」
だが、飛び出してきた時貞は、緋咲の腕に抱えられている拓の姿に、瞳を見開いた。
「・・・ヒザキ・・・？」
訝しげに問いかけてくる時貞の横を通り抜けると、緋咲は寝室のベットの上にゆっくりと拓を下ろした。
未だに意識を取り戻さない拓の様子も気になったが、後は自分の出番ではない。
振り返ると、視線だけで人を殺せそうな程、きつい眼差しで自分を見ていた時貞と視線があった。
「―――何でそうなったのかは、知らねぇが・・・会場からホテルとは反対地区の路地裏で、襲われてた。」
ボソリと事実を告げる。
途端に、時貞の表情が歪んだ。
「襲われ・・・て？誰にっ！！」
「俺が知るかっ！日本語で悲鳴のように聞こえたのがお前の名前だったんで、慌てて駆けつけた時には、既に襲われてたんだっ！」
胸ぐらを掴んで、噛みつくように聞いてくる時貞に、緋咲も怒りの表情で答える。
「・・・っくしょう・・・」
きつく眉を寄せると、時貞はかぶりをふった。
喩え一瞬でも、離れるのではなかったのだ。
目と鼻の先にあるホテルだっただけに、一人でも大丈夫だから・・・と言い切った拓の言葉を信じたが故に・・・拓を護る事が出来なかった・・・。
ふらりと緋咲から離れると、時貞は意識を失ったままの拓の腕をそっと取った。
「・・・拓ちゃん・・・」
そんな時貞の様子を確認してから、緋咲はそっとその場を後にした。
あんな調子では、時貞の明日のコンデションは最悪だろう。
下手をすると土壇場で“演奏”できなくなる可能性すらある。
や
拓が居なければ、時貞は“演奏”らない。
時貞の『音色』の全てが、拓に向けられた“想”いなのだから・・・。
部屋を出た途端に、寒さが身に染みた。
拓が腕の中にいた時は、少しも感じなかったのに。
腕に残る感触と、密かな温もりが消えてしまわないように・・・緋咲は拳を握り締めた。
そっと持ち上げた拓の手は、すっかりと冷たくなってしまっていた。
その指先に口づけながら、時貞は叫びだしたくなる衝動を必死に抑えた。
「―――拓ちゃん・・・拓ちゃん・・・拓ちゃ・・・ん・・・」
何度も何度も名前を呼ぶが、拓の瞳が開かれる事はない。
時折密かに動く胸の動きで、拓が生きている事は理解ったが、このまま永遠に目を覚まさないのではないかという不安に襲われて、時貞は胸が苦しくなった。
この地が、また時貞から大切な者を奪おうとしている・・・。
ネオンにきらめくきらびやかな、夢の集大成のような場所を一歩でも外れれば、そこには闇が広がっている。
光が強ければ強い程、影となる闇もまた濃くなっていくから・・・。
殴られて切れた唇・・・腫れた頬。
赤くなっているのは、沢山泣いたからだろうか？
自分の名を呼んだと、緋咲が言った事が更に時貞を打ちのめしていた。
拓が救いを求めていたというのに、自分は拓を助けられなかったのだ。
ボロボロになった服・・・汚れた身体。
ポタリと雫が滴り落ちる。
小さな拓の拳を両手で握り締めたまま、時貞は泣き続けた。
“神様なんて・・・いない・・・。”
昔も今も・・・どんなに願っても、時貞の願いは叶わない。
“・・・祈りなど・・・届かない・・・”
目の前で怒った惨劇は、目に焼きついたまま消える事はないのだ。
自分を包み込んでくれた温もりを失って、時貞はずっと堕ちていた。
それでも、救いを与えられたのだと、漸く理解った頃にまたそれを奪われてしまうと言うのか？
神とは・・・それほど、残酷なのだろうか・・・。
それとも、終わる筈だった“命”を、拓と共に居たいが為に執念で蘇らせた事に対する罰なのだろうか。
「・・・とき・・さ・・だ・・く・・・？」
小さな、弱々しい声が聞こえて、時貞は俯いていた顔を慌てて上げた。
ゆっくりと瞳を開けた拓は、二・三度瞬きをした。
それから、ガバッと起き上がると、ギュッと時貞にしがみついた。
「時貞くんっ！―――時貞くんっ・・・っ・・・」
泣きじゃくりながらすがりついてくる拓の身体を、時貞はきつく両腕で抱きしめた。
「大丈夫だよ、拓ちゃん。もう・・・大丈夫だから・・・」
ガタガタと肢体を震わせる拓に、時貞は言い聞かせるように耳許で囁いた。
「・・・ひっく・・・」
しゃくり上げる拓の顎を軽く持ち上げて、そっとキスをする。
「一体、何が・・・？」
「・・・建物を出たら、声を掛けられて・・・喋れないから・・・時貞くんに教えて貰ったように・・・言ったのに・・・突然・・・腕、掴まれて・・・慌てて・・・逃げて・・・でも・・・」
「もう良いっ！もう・・良いから・・・」
喋っている内に、どんどん青ざめていく拓に、時貞の方が耐えられなくなった。
「ギリギリのトコで・・・緋咲くんが来てくれなかったら・・・ボク・・・ボクはあいつらに・・・」
ポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちるのを、口づけで拭ってやる。
「・・・悔しい・・・ボクがもっと強かったら・・・あんな奴らに・・・」
ギュッと唇を噛みしめて綴る拓の言葉に、時貞は辛そうに眉を寄せた。
「拓ちゃんを、守れなかった・・・俺が・・・！」
「そんな事ないっ！それに、一人でも大丈夫だって言ったのは、ボクだから・・・時貞くんに言われてたのに・・・ごめんなさい・・・」
「拓ちゃん・・・」
時貞の胸に顔を埋める拓に、時貞の中で愛しさが膨れ上がる。
その髪先に“想”いを込めたキスをすると、そのまま時貞は拓をそっと抱き上げた。
「・・・時貞くん？」
「このままじゃ、気持ち悪いだろ。それに、身体も冷えきってしまっている。」
きっぱりと言い切る時貞に、拓は安心したように身を任せた。
何度も交わされる口づけの間に、拓の身体の汚れは落とされていく。
時貞の魔法を使えそうな指先によって・・・。
それでも、所々についた痣や傷までは消す事はできなくて・・・その代わりに時貞はその場所に甘い“所有印”を残した。
「・・・時貞・・・くん・・・」
「拓ちゃんに触れた奴ら全て、俺がその場にいたら殺してやったのに・・・」
真紅の瞳が、怖い程にきらめく。
それが本当に行われるだろう事が理解って、拓は困ったように微笑した。
「駄目・・・だよ・・・そんなこ・・・ぁ・・・」
「綺麗になったから・・・今度は俺を感じて・・・拓ちゃん・・・」
ゆっくりと拓を抱えたまま、二人で湯の張られているバスタブの中に漬かる。
普段は余り使わないコロンの匂いは、心が安らぐようなハーブ系のもので・・・。
ゆったりとした気分のままで、拓は時貞に愛された。
身も心も時貞で満たされていく。
植えつけられた恐怖を取り除くかのような繊細で慎重な・・・それでも的確な愛撫に、拓の意識は朦朧としていた。
「・・・んっ・・・」
鼻に掛かる甘い声が、シャワールームに響く。
そうして、優しさに包まれた空間の中で、拓の意識は微睡みの中に吸い込まれていった。
「―――緋咲・・くんっ！」
ステージに向かう舞台裏で、緋咲は呼び止められた。
「・・・何だ？」
振り返ると、拓は困ったような顔で俯いている。
「用がないなら、呼ぶな。」
静かにそう告げると、緋咲はまた歩きだそうとする。
「待って！・・・その・・・」
「身体の方は、もう大丈夫なのかよ？」
慌てて引き止めようとする拓に、取り合えず緋咲はずっと心に凝りのように残っていた疑問を口にした。
「あっ・・うん・・・。それで・・あの・・・昨日は助けてくれて・・・ありがとう・・・。」
恥ずかしそうに真っ赤になって礼を告げる拓に、緋咲はフンと鼻を鳴らした。
「―――たまたま通りかかっただけだ。」
ぶっきらぼうに告げる緋咲に、拓は一瞬瞳を見開いた後で、破顔した。
「本当に、ありがとう・・・。」
ふんわりと浮かべられた笑顔に、緋咲は酷く衝撃を受けた。
初めて向けられたその笑みが、とても綺麗で・・・。
穢されはしなかったのだ・・・と。
自分は間に合ったのだ―――。
そうして、褒美をもらったのかもしれない。
「・・・拓ちゃんっ！」
向こうの方で、時貞が拓を捜している。
「あっ・・それじゃぁ・・・頑張ってね。」
そう言うと、拓は慌てて時貞の方に向かって走りだした。
ほんの少しだけ、足を引きずっているような気もしたが・・・自分が気付いた事に、時貞が気付かない筈もないと思って緋咲は声を掛けなかった。
そうして、気付く。
今の拓との会話で、いつも開けられている距離がなくなっていた事に。
どことなく身構えるような様子も、全く見受けられなかった。
少しは、近づけた・・・という事なのだろうか。
そうして、向けられた笑顔・・・。
一瞬思考を巡らせてから、そっと緋咲は首から掛けているロケットを取り出した。
パチッと音を立てて開けて、中を見つめた緋咲の口端がほんの少しだけ持ち上げられて・・・微笑った。
写真にに写っていた笑顔は、先程目の前で見たものと全く同じものだった・・・。
ステージは最高潮の盛り上がりの中、クライマックスを迎えていた。
フッと全部のライトが落とされ・・・ステージに浮かび上がるのは、蒼いライトに照らされた時貞のシルエットだけとなる。
途端に、黄色い声援が上がる。
このまま、時貞の単独演奏になる筈なのに、何を思ったのか突然に時貞はその場にギターを置いたまま、舞台袖まで戻ってきた。
「・・・セロニアスっ？」
「おいおい、演奏は？」
焦ったメンバーを無視する形で時貞は、座っていた拓の側までくるとその頬に軽くキスした。
「・・・時貞くん？」
「これで最後だから・・・おいで。」
ひょいっと抱えられて、拓は目を丸くした。
「ちょっ・・・？！時貞くんっ！！」
そのままステージに向かう時貞に、その意味を悟った拓がオロオロと問いかけるが、それは艶やかな笑顔で躱されてしまった。
ライトに晒されて、会場内にざわめきが走る。
泣きそうな表情で拓は時貞を見やるが、何も考えていないようだ。
「俺の側にいるって、約束した。」
「それは・・・でも・・・っ！」
まだ何か言おうとする拓に、時貞はニッと笑ってまたキスをした。
しかも今度は唇に・・・だ。
絶句してしまった拓が何か言うよりも、悲鳴のような声がいくつも上がった。
だがそれも、拓を側の使っていないアンプの上に座らせてから時貞がギターを持ち直した時には、会場内はしーんと静まりかえっていた。
備えつけてあったマイクの位置を上に向けると、時貞はステージの上で初めて言葉を発した。
『この唄は、俺の一番大切な拓ちゃんに。』
英語でそう呟くと、ピックを持ち直してゆっくりと弦を弾き始める。
静かなクラッシックのようなフレーズ。
流れるような“響き”に合わせて、低い“トーン”が時貞の唇から紡ぎだされた。
胸に響くようなその演奏と唄声は、静まり返った会場の隅々まで広がっていった。
誰もが息を飲んでそれに耳を傾けていた。
全部英語なので、拓にはその意味を理解できなかったが・・・自分に向けられたのだという事は理解る。
何しろ、歌っている時貞の視線が、会場を埋め尽くす観客ではなく、拓の方に向けられていたから・・・。
言葉が途切れ・・・何度か余韻を残して、弦を弾く指先が止められた。
『メリークリスマス・・・』
うっとりと囁かれるように告げられた甘い囁きに、今度こそ絶叫が沸き上がった。
思わず拓もパチパチと拍手をしてしまう。
そんな拓を見て、本当に嬉しそうに時貞が笑うと、また会場から悲鳴があがった。
フッと蒼のライトが消されて、暗くなったステージの上で、拓はきつく時貞に抱きしめられた。
「・・・時貞くんっ？」
ドキドキしながら、拓は慌てて声を掛ける。
そんな拓を、またしてもと軽々と持ち上げると、時貞は来た時と同じようにスタスタと舞台裏まで戻った。
そこには、どうなる事かとはらはらと見守っていた連中が、漸くホッとした表情で待っていた。
元の椅子に戻すと、時貞は不安そうな顔をしている拓に向かってまた微笑った。
「もう少しだけ、待ってて。拓ちゃん。ちゃんとここに居るんだよ。」
「・・・うん。」
「―――終わったら、何か美味しいものでも食いにいこう。」
「―――うん！」
漸く拓の顔に笑顔が戻ったので、時貞も息を吐いた。
そうして、クルリと振り向く。
その顔はいつもの“氷”になっている。
「じゃあ、まとまったトコで、ラスト行ってみよーかっ！！」
おどけたようにそう言うと、平蔵がマイクを持ってステージ向かって走っていく。
途端に、また全てのライトが灯された。
続いて桜宮がベースを構えて定位置につく。
ゆっくりとした動作で緋咲も煙草を消すと、歩きだした。
最後に時貞がステージに出て・・・演奏が始まる。
途端に総立ちとなる観客の熱気が、凄まじい程のエネルギーでステージを包み込んでいった。
そうして、全米ツアーの最終ライブは、摩天楼の夜を震わせる程の大成功で締めくくられたのだった。
全てが終わって、漸くホテルの部屋に戻ってきた時には、日付が変わろうとしていた。
窓から街の景色を見ていた拓は、不意に後ろから抱きすくめられて驚いた。
「・・・時貞くん？」
だが、答えはなく・・・代わりに甘いキスが降り注がれた。
「・・・ん・・・」
重なりが深まる頃には、既に拓は全身を時貞に預ける形で自分で立っている事も出来なくなっている。
そんな拓を抱え込むようにして、時貞はベットの上に倒れ込む。
無意識の内にギュッとしがみついてくる拓に、少しだけ苦笑すると、そのまままだ十分柔らかな拓の頬に音を立ててキスをした。
はぁ・・・っと呼吸を整えている拓を、時貞は満足そうに目を細めて見つめながら、そのさらさらな髪先を指で弄ぶ。
「明日の午後にはこの国を離れるから・・・もうすぐ帰れるよ。」
静かに告げる時貞に、拓も嬉しそうに笑う。
「うん・・・。長い間お疲れ様・・・時貞くん。」
労るように告げられた言葉に、時貞は唇を歪めた。
それを言わなくてはならないのは、本当は時貞の方なのだ。
なのに、拓はいつも時貞を思いやって、先に言ってしまうから・・・。
「―――帰ったら、温泉に行こう。拓ちゃん、行きたいって言ってただろ。」
「ホント？嬉しいなぁ・・・。」
時貞の提案に、本当に嬉しそうに告げる拓に、時貞も嬉しくなる。
「これで暫く海外はないから・・・。」
慰めるようにそう囁くと、時貞はゆっくりと拓に覆い被さっていく。
与えられる温もりに、拓は安心したようにその身を預けて・・・そっと瞳を閉じた。
気怠い感覚に、意識を失っていた拓はぼんやりと目覚めた。
だが、まだ完全に意識は目覚めていないのか、ボーッとしたまま時貞の胸元にもぐり込むようにモゾモゾと動いて位置を安定させている。
そんな拓を腕に包み込んで、ぽんぽんと叩いてやると途端に、スーッと拓は眠りに引き込まれていった。
眠りに落ちるその前に、拓は、何処かで子守歌が聞こえたような気がした・・・。
終わり。 ／ 戻る |