その名の通り、ホワイトデーを白く覆い尽くした季節外れの大雪は、電車を止める程だったけれど・・・二日たったらあっという間に溶けて消えてしまった。
昨日の朝には、足跡が付けられるぐらい積もっていた雪も、今では辛うじて日陰に名残を残しているだけだった。
すっかり春の日差しが頭上に降り注ぎ、ポカポカとした温かさはただでさえ寝不足の身体にはきつい。
月曜、学校の昼下がり。
購買で買ったパンやお弁当を溜まり場でもある屋上で食べた拓たちは、いつものように他愛無い会話をしていた。

「―――だけどよぉ、何だってあんなに女はこまけーんだ？」

憮然とした良の言葉に、隣に座っていたジュンジが何故か苦笑している。
ボーッとしていて、一瞬何の事か聞き逃した拓がキョトンとすると、拓の左に座っていたカズが、ニヤニヤしながら顔を近付けてきた。

「リョーの奴、今泉に怒られたんだと。」
「・・・怒られた？」
「カズッ！聞こえてっぞ！！」

こっそり耳打ちされた言葉に、更に意味不明になった拓が小声で聞き返すと、怒ったような良の声が響く。
いつもならこの辺で、ヘッドロック等を仕掛けて憂さ晴らししてくるのだが、流石に今日は大人しくしているようだ。
何故なら、拓の膝枕で彼等のボスが昼寝をしているからである。
ポカポカ天気に気を良くしたようで、人の分まで昼食を食べた後で、当然のようにポスンと拓の膝を枕にしたまま、既にぐっすりと熟睡している。
因みに、いつもだったらそんな状態になる前に、時貞との至上最強の攻防が始まるのだが、生憎と本日は家の用事で時貞がお休みだったので、真里の一人勝ちとなっている。
高校生の男子が、男友達の膝枕で眠るという一種異様な光景でも、すっかり慣れてしまっている彼等には日常風景と変わらない。
却って、今日は平和だなぁ・・・と思っている程で。

「大体、ちゃんと“お返し”してやったんだから、あんなに怒る方がおかしいだろ？」
「―――そーゆーモンなんだって。」

口を尖らせて言う良に、苦笑していたジュンジが慰めるようにその肩をポンと叩いている。
話に付いていけなくてますますポカンとした拓に、漸く秋生が気付いて口端を持ち上げた。

「オメー、聞いてなかったんかよ？だから、一昨日のホワイトデーのお返しの話だ。」

ボソボソと告げる秋生に、漸く拓も思い当たってコクンと頷いた。
それから、ハタと気付いたように口を開く。

「え？でも・・・ちゃんとあげたんだよね？」
「だからぁ、このバカ、お返しに渡すモノの意味を知らなかったらしいぞ。」
「ば、バカっていうなっ！！第一、んなもんオレが知る訳ねぇだろーがよ・・・」
「―――知らないのに、ピンポイントでそれを選ぶかぁ？」
「しょーがねぇだろ！？ヘイゾーがそう、言ってたんだから。」

次々に浴びせられる罵倒に、段々良の言葉も勢いが無くなる。
最後に良の口から零れ落ちた台詞に、漸く他の連中の口が閉じられる。

「あーーー」
「そうきたか。」
「・・・・」
「な、な、なんなんだよ？お前等？！言いてぇ事あったらハッキリ言いやがれっ！目線を逸らすなっ、そんな可哀想な目でオレを見るなぁあああ」

声にならない者。
口を抑えて目線を外して、ぼやく者。
がっくりと肩を落とす者。
様々な仲間の姿に、言った良の方が恐慌に陥ってるようだ。

「んー、ウルサイ・・・」

拓の膝で安眠を貪っていた真里が、眠りを邪魔された事に座った目で良を窘める。

「あ、ごめんね。マー坊くん・・・」

目をコシコシと擦っている真里に、何故か拓が謝る。

「あ、わり・・・。マー坊・・・」
「“リョー”ちゃんが、どうしたってぇ？」

まだ半分寝ぼけた口調で問い返す真里に、一瞬その場の空気が気まずくなる。

「―――こ、こいつの話はもう良いからっ！そ、それより、マー坊くんも、ホワイトデーのお返し、したんだよな？」

場の空気を読んだカズが、慌てて口を挟む。

「あー・・・？」
「今朝の晶の様子見りゃ、理解るだろーが・・・」

ぼんやりと記憶を辿る様な表情を浮かべる真里に、秋生が苦笑する。
秋生の言葉に全員が記憶を辿って、そうして同意するように頷いている。
いつもちょっとふて腐れているような雰囲気の晶が、今朝は本当に嬉しそうに他の女子と一緒に居たからだ。
会話の内容までは聞こえなかったが、話題は間違いなく休み中にあったホワイトデーの事だろう。

「そう言えば、土曜日に駅で一緒に買い物してたもんね。」

不意に思い出したように、拓はポツリと呟いて、ほんわかと微笑った。

「ちょっ、拓ちゃん！！」

途端に、クワッと目を見開いた真里が起き上がる。

「・・・何？」
「結局、あの日何処に行ってたんだよ？！」

ガバッと真里に詰め寄られて、ギクリッと拓の肩が微妙に竦む。

「俺、昨日の昼間も拓ちゃん家に行ったのに、友達の家に泊まりに行ったって・・・まーさーか、天羽の家じゃないよね？だからあいつ今日休みだったりしないよね？」

次々と真里の口から出てくる想像外の台詞に、拓は本気で驚いて目を白黒させた。

「え？時貞くん？・・・今日は、家の用事で欠席なんじゃないの？昨日の夜、わざわざ家に来てくれた時に、行きたくない―ってブツブツ言ってたし・・・」

びっくりした顔のまま、拓は困ったようにそう答えた。

「え？あいつも拓ちゃん家に行ったの？・・・っていう事は・・・」

少し考え込むような態度の真里に、そーっと目線を空に向けた拓は逃げ道を探そうとする。

「えーっと・・・一昨日はその、雪の所為で電車が止まっちゃって帰れなくなっただけで・・・あ、ほらっ！チャイムが鳴ったよ、マー坊くん！早く教室に戻らないと！」
タイミング良く耳に届いた響きに救いを求めるように、拓は立ち上がってクルリと身を翻した。
「あー、拓ちゃん、待ってよぉ！」

その後を、慌てて真里が追いかける。
そうして、やれやれという風に他の連中もゆっくりと歩き出して、屋上を後にした。

普段なら気にしない会話に耳を傾けてしまったのは、昼休みの良の言葉が耳に残っていたからかもしれない。
その良たちは、昼休みが終わると同時に午後の授業をふけて、皆で秋生の家である真島商会へバイクを組み立てに行ってしまっているので、教室に姿はなかった。
拓だけは、単位が危ない授業だったので彼等と別れて屋上から教室に戻ってきたのだ。

「もー、ほんとあいつ信じられない。」
「でもさぁ、お返しくれただけでも良かったじゃん。大体、姫小路にチョコのお返しの意味なんて理解る筈ないって」
「だからって・・・。普通、彼女から貰ったバレンタインのチョコのお返しに、マシュマロ寄越す？！―――」

不機嫌な表情を浮かべているのは、良の彼女である京子だ。
そんな彼女を慰めようと、いつも仲の良い美紀が口を挟むと、更に怒ったような声が聞こえてきた。
その会話の中に出て来た言葉が、酷く気になったと言っても過言ではない。
＜・・・マシュマロ？＞
彼女である京子に、良がマシュマロをバレンタインのお返しとして送ったようで、その事に関してどうやら京子は怒っているようなのだ。
その意味がどうしても気になってしまって、拓は思わず耳を欹ててしまった。

「あー、それは、、、ねぇ・・・。でも、それは“意味”を知らなかったら仕方ないでしょ？去年は、お返しすら忘れられちゃって京子に物凄く怒られたからって、ちゃんと用意しただけ成長してんじゃない？ねぇ、晶。」
「え？ちょ・・・アタシに振らないでよ。」
「あーあ、良いよねぇ。晶は一緒に買いに行って、ちゃんとマー坊くんに“キャンディ”を買って貰ったんでしょ？」

女の子たちの会話はどんどん進んでいく。

「確かに一緒に買い物行ったけど・・・マー坊、自分の分も買うとか言いはじめて、他にも一杯お菓子を買ってたから、そーゆー意味であたしに買ってくれた訳じゃないわよ。」

話を振られた晶は、困ったように苦笑していた。

「えー、幾らマー坊くんでも、それはナイって。あーあ、アタシもキャンディかホワイトチョコが欲しかったなぁ・・・」
「もぅ！貰えただけ良いじゃない―――贅沢よ、京子は。」

京子の情けない言葉に、今度は美紀が少し声を落とした。
そんな美紀に対して、京子はハッと気付いたように表情を変えて、声を落として何かを言ってから謝るように両手を合わせていた。
後の会話は拓の耳に入ってこなかった。
それどころか、女の子たちの会話の内容を理解して、ショックで固まっていたのだ。
＜え？意味って？お返しの品物に意味なんてあったの？！・・・マシュマロって渡しちゃダメな、もの？＞
耳に入ってきた会話が要約できた途端、グラグラと足元が崩れそうな感覚と、衝撃が全身を襲ってきた。
机に肘をついて、頭を抱えるように拓はがっくりと項垂れた。
何故なら、拓もまたホワイトデーのお返しで“それ”を選んでしまったから。
＜で・・・でも、ボクがお返し渡した時、千冬さん別に怒って無かった―――って、そう言えば、キャンディやホワイトチョコとかいう単語も言ってたような・・・＞
喜んで欲しくて渡した物が、本当は相手を嫌な気持ちにさせていたのだというのなら、それはとても悲しい事だ。
結局、その後教室に入ってきた先生が授業を始めても、拓の頭の中はその事で一杯で他の事は考えられなかった。

授業終了のチャイムの音と同時に、拓は鞄を持って教室を飛び出した。
そうして駐輪場で愛車に跨りながら、携帯を取り出す。
見慣れた番号を探し当てると、そのままボタンを押した。
だが、呼び出し音が途切れた途端に聞こえたのは、柔らかな声ではなく、機械音だった。

「あ・・・あの・・・」

留守電に声を入れようとして、何と言って良いのか理解らない。
もし、嫌な思いをさせてしまったのなら、謝りたいが・・・それは、直接言うべき事でもあったから。
言葉を探して逡巡してたら、通話はあっという間に切れてしまった。

「ああぁぁぁ・・・」

自己嫌悪に陥りながら、電話は諦めて携帯を閉じると、拓は頭を抱えた。
＜どうしよう、どうしよう、どうしよう・・・＞
ぐるぐる思考を巡らせながら、一生懸命に考える。
本当なら、これから拓も真島商会に向かう予定だった。
真里が待っている事も理解っている。
だけど、どんなに後悔しても、拓が千冬にマシュマロを渡してしまったのも事実で。
―――それが酷く気になってしまっているのも・・・本当だから。
拓の表情が変わる。
再び開いた携帯の番号は、先ほどの番号とは違っていた。

３日前と同じ街に拓はいた。
あの時は雪が降っていたので電車できたのだが、今日はバイクだ。
しかも、あのまま学校から直で来たので、短ランのままだった。
それでもまだ夜の帳が降りていない平日の街中には、特攻服を着ている者はいなかったから、拓はすっかり気を抜いてしまっていた。
この街が、横浜と同じように縄張りが合って、争いが日常茶飯事だという事を忘れていた。
だから、気付いた時には拓は単車ごと、不良共に囲まれてしまった。

「見掛けねぇヤツだな・・・」
「お前、何処のチームだ？」
「え・・・えっと・・・その・・・」

上から目線で脅してくる連中に、拓は内心で冷や汗をかく。
バイクがあるから、今日は逃げ出すのは容易い。
でも出来る事ならこの街で目立ちたくないから、途方に暮れる。
周りを囲んでいる連中は、拓の態度をどうとったのか、勝ち誇ったように更に距離を縮めてきた。

「―――なんだよ？怖くて声もでないってぇ？」
「俺等も弱いモン苛めするきはねぇしよ・・・有り金全部置いてきゃ、見逃してやっても良いんだゼぇ・・・」

嘲る様に笑われて、拓は困ったように相手を見返した。
目の前の連中は、何処にでもいる様な制服を着崩した者達だったけど、拓が良く知っている者達とは全く違っていた。
はっきり言って、怖くない。
昔の自分だったら、怖くて言われるままに財布を渡していたかもしれないけれど・・・【極悪蝶】でも【聖龍連】でもないだろう者達に恐怖は感じられなかった。

「―――何、やってやがんだぁ？お前等・・・」

囲みの後ろから、降ってきた声に、拓は意識を捕らわれた。
ザッと開かれた囲みの先に現れた人物は、拓の想像していた者ではなかったけれど、見知った相手だった。
＜あれ・・・？あの人・・・＞
つい先日、出会ったばかりの相手が、制服姿で立っていた。

「・・・ヒカルさん？！」
「こ・・・これは、その・・・」

周りを取り囲んでいた連中が、驚いたように及び腰になる。
たった一人の登場だけで、場の空気がガラリと変わった事に気付いて、拓は緊張を解いた。

「どっかの馬鹿な連中と同じ事してんじゃねぇよっ！中坊なんか脅して・・・って・・・お前っっ？！」

不機嫌そうな言葉が、拓の姿を捉えた途端に途切れて、その表情が見る見るうちに驚愕へと変わる。
そんな相手に向かって、拓は困ったように笑う事しか出来なかった。

「あの・・・助けてくれてありがとう。」

ペコリと頭を下げて礼を言った拓に、相手は照れたようにそっぽを向いた。
拓を取り囲んでいた連中は、あっという間に何処かへと消えて行ってしまったので、残っているのは二人だけだ。

「べ・・・別に、礼を言われるような事してねぇし・・・」

ボソボソ聞こえる声に、拓は小さく笑った。

「―――何だよ・・」
「あ、気に障ったらごめんなさい。えっと・・・千冬さんと同じチームでしたよね？」
「そうだけど・・・。お前・・・」
「えっと、ボクは浅川拓。この前は、ボクの所為で余計な目に合わせちゃって、ごめんなさい。あの時もボクがいなければ・・・あなただけだったら勝てた筈だから・・・」
「いや。巻き込まれるって理解ってんのに、わざわざ忠告して貰ったんだし。結局、千冬さんがぶちのめしてくれて・・・って！そういや、何でここに？！また千冬さんと待ち合わせでもしてんのか？！」

いきなり表情を変えて、辺りをキョロキョロし始める相手に、拓はキョトンとして小首を傾げる。

「えっと・・・待ち合わせはしてないです。これから、マンションに向かおうとは思ってますけど・・・」
「―――はぁっ？！」

不思議そうに拓が答えると、相手はますます驚愕したように大きく瞳を見開いた。
黙って立っていれば、美形の部類に入る人物が、表情をコロコロ変える様は、見ていて不思議な気がする。

「あの人・・・私生活はほんとにメンバーにも関わらせたがらないから、自宅を知ってんのって、八尋さんか、瑞貴くらいなのに・・・。」

肩を落としてブツブツ呟いている相手に、漸く驚かれている理由を知った拓は、苦笑する事しか出来なかった。
確かに、初めて浚われてこの街に連れてこられた場所も、千冬の自宅では無くて・・・北条家の所有マンションだったらしい。
拓が千冬の自宅に初めて足を踏み入れたのも、親しくなってからだ。
千冬の全てを受け入れた後・・・。
そんな事まで思い出してしまって、拓はブンブンと強く頭を振った。
そうでもしなければ、蘇ってしまった記憶に、羞恥の余り倒れそうだったから。

「おい？大丈夫か？顔、赤いぞ。」
「―――う・・・うん。ちょっと・・・思い出しちゃった記憶を飛ばしただけだから、気にしないで・・・」

心配げな声が聞こえて、拓は居た堪れない。

「・・・って、言うか。マジで、千冬さんと付き合ってんのか？」

ズドンっ！！
いきなりの直球の質問に、耳から飛び込んできた言葉を理解した途端に、拓はカァーーーーーッッ！！と真っ赤になった。
何の準備も心構えもしていなかったのに、真っ直ぐに届いた質問は、隠す事なんかできずに、全部曝け出してしまった。

「あ、・・・あ、・・・あの、それは・・・そのっ・・・」

真っ赤な顔のまま、陸に打ち上げられて死にそうな魚のように口をパクパクとさせながら、拓がオロオロしているのを見ていた相手の方が一瞬唖然とした顔をして・・・。

「おまっ・・・！それっ・・・、マジ・・・」

―――次の瞬間、腹を抱えて笑い出した。
目の前で大爆笑している相手に、真っ赤になってオロオロしていた拓の方が今度は茫然とした。
何で爆笑されるのかが全く理解らない。
だから、恥ずかしくて居た堪れない状態のまま、拓は熱くてしょうがない頬を両手で押さえるように、顔を隠した。

「―――そ・・・そうですよね？ボクじゃ、笑い話ですよ・・・ねぇ・・・」

くぐもった声で、ちょっとだけ落ち込む。
信じてもらえなかったのかもしれない・・・と。
だが、一頻り笑って気が済んだらしい相手が、漸く我に返って笑うのを止めた。

「・・・悪い、悪い・・・。お前がどーこーっていう意味じゃなくて。千冬さんに対して、笑っちまっただけだから。」
「え？」
「普段から、八尋さん以外はスゲー無関心だから、他に選ぶなんて思わねーだろ？なのに、ちゃっかり違う相手がいて、俺等にも紹介しないなんて、どんだけ執着してんだよって・・・」

口端を持ち上げて、見惚れそうな顔で笑う相手に、拓はほんの少しだけ目線を落とした。
千冬の抱えている問題を今更ながらに感じたからだ。

「それは・・・」

―――♪♪♪、、、♪♪〜―――
拓が口を開こうとした途端に、何処かから音が鳴った。
それが、携帯の着信音だと気付いた拓は、ポケットからそれを取り出した。
番号を確認して、目を丸くする。
たった今、話題にしていた人物からの―――返信。

「・・・もしもし。千冬さんですか？」
『拓ちゃん・・・？』

ボタンを押すと、途端に聞こえたのは柔らかな美声。
その容姿からは想像できない少し低い耳に心地良い響き。
漸く聞けた声に、拓はホッと息を吐き出した。

『中途半端な留守電が入ってたんだけど・・・どうかしたの？昨日別れたばっかりなのに、急に電話してくるなんて何かあった？』

だが、続けられた千冬の言葉に、拓はグッと息を飲み込んだ。
そういえば、中途半端に切ってしまったままだった事を、今更ながらに思い出した。

「え？あの・・・」

謝りたかった事も思い出して、それから隣にいる人物をチラリと見る。
相手は拓の電話の相手が誰だか理解した時から、困ったように視線を彷徨わせていた。
一瞬だけ躊躇した後で、拓は小さく口を開いた。

「・・・電話したのは、謝りたかったからで。その・・・ボク今、近くまで来てて・・・それで。―――千冬さんは、今日は家にいますか？」

聞きたかった事を、ゆっくりと尋ねる。
一瞬、驚いたような沈黙が流れた。

『謝る？・・・何を？―――どういう事？近くって・・・湘南に来てるって事？』

動揺したような声が、耳に聞こえてきて拓は思わず首を横に振ってしまう。

「はい。今、この前待ち合わせした駅のロータリーで・・・。これから千冬さん家に行こうと思ってて・・・。」
『・・・今、鎌倉に呼び出されてて・・・家には居ないんだ。』

拓の言葉に、被さる様に千冬の声が響く。

「そう、ですか。あの、じゃあ、ポストに入れときますから。」
『ポスト・・・？』
「・・・ごめんなさい。ボク、マシュマロを渡しちゃいけないって知らなくって・・・それで、千冬さん、本当は嫌な思いをしたんじゃないかって。今日、学校で女の子たちが貰って嬉しいのはキャンディかホワイトチョコだって言ってたから・・・急いで買ってきたんです。本当は、ちゃんと手渡ししたかったんですけど、遅くなっちゃった分、早く渡したいから・・・だから・・・」

喋っている内に、段々声が小さくなってしまう。
一気に言わないと申し訳なさ過ぎて声が途切れそうだったから、一息でそう告げて拓は千冬の言葉を待った。
沈黙は長かったのか短かったのか理解らない。

『―――理解った。直ぐに帰るから、部屋で待ってて。この前渡した合鍵、持ってるよね？』
「・・・え？でも・・・」
『居なかったら、横浜まで攫いに行くからね。あぁ、もう！俺の背中に翼があったら、今直ぐに飛んで帰るのに・・・。そんな大事なモノ、ポストに入れて誰かに盗まれたら堪らない！ちゃんと、手渡ししてっ！！・・・逢いたいんだ・・・』

珍しく感情を顕わにしてそう告げた千冬の声に、拓は胸が苦しくなった。
―――嬉しくて、泣きたくなった。

「うん・・・うん。待ってます。」

何度も頷きながら、拓は携帯を切って大切な物のように両手でそっと包んだ。
それから、顔を上げて待っていてくれた相手を見詰める。

「・・・あの。千冬さんは、無関心なんじゃなくて、凄く優しい人なんです。だから、大切な人程守ろうとするから、自分に関わらせないだけ。八尋さんは、凄く強いから・・・心が強いって理解ってるから認めてて・・・」

真っ直ぐに相手を見詰めて、先ほど言えなかった言葉を告げる。
拓の眼差しを真っ向から受け止めて、相手は小さく微笑った。

「じゃあ、お前は？お前も八尋さんみたいに強いのか？」

問い掛けに、拓は小さく首を横に振った。
拓が選ばれたのは訳が違う。
拓が千冬の傍に居るのは、千冬に笑っていて欲しいからだ。
悲しくて辛い運命を背負っている千冬が、少しでも安らげるように、自分の存在が役に立つというのなら、何とかしたかった。
友達として、助けになりたい・・・それだけだった。
でも、苦しんでギリギリの状態で縋りついてきた千冬を、受け入れたのは自分の意思だ。
他に選択肢が無かったとは言わないけれど、苦しみながらも拓を巻き込むのなら死んでも構わないと言い切った千冬に、拓はどうしようもなく捕らわれてしまった。
失いたくて、助けたくて―――死なせたくなかった。
だから・・・。

「―――ボクは、弱い。でも、ボクにしかできない事もあるから・・・」

そう告げて、拓は視線を流した。

「ボクは、ボクに出来る事で、千冬さんを守りたい。」

はっきり口にした途端、ストンと心が決まった。

「あの・・・さっきは本当にありがとうございました。ボク、もう行きます。千冬さんが、ボクの事を余り周りに言わないのは、他の人たちにボクが嫌われてるからなんです。貴方はボクの事を知らないから。」

困ったように拓は告げられなかった事を口にする。
この街で、拓の味方はいないと言っても過言ではない。

「・・・嫌われて？」
「えっと・・・ボクの友達が色々とあったみたいで・・・」
「友達？」
「―――上手く言えないけど・・・人間関係がほんとに複雑で・・・。でも、ボクにとっては皆大事な友達だから。」

そう言って、拓はバイクに跨ってエンジンを蒸かす。

「千冬さんも、チームの皆の事は大事な仲間だって・・・だから、ありがとう。貴方みたいに優しい人が千冬さんの傍に居てくれて、嬉しいです。それじゃ・・・」

笑って、グリップを開く。
風に乗る様に、拓の乗ったバイクは発進した。

カツンカツンと言う少し早い足音が廊下に響き渡る。
鞄を抱えてドアの前に座り込んでいた拓は、駆け込むように走ってきた千冬の姿を捉えて破顔した。

「―――拓、ちゃんっ？！部屋の中で待っててって言ったのに・・・あぁ！こんなに冷え切っちゃって！！」

少し呼吸を乱して、傍にきた千冬は、そう言うといきなり拓を抱き締めた。

「・・・っ！あの・・・千冬、さん！？」

突然の抱擁に、拓の方が付いていけなくて真っ赤になってしまう。
そんな拓を抱え込むようにしながら、千冬はポケットから鍵を取り出すと片手で器用に開けて、そのまま拓を引き摺りながら玄関に入った。
パタンと閉じられたドアに、押し付けるようにしながら、千冬は拓を更に抱き締めた。

「あ・・・あの・・・」
「―――もうちょっとだけ・・・。」

ギューッとしがみ付くように自分を抱き締めている千冬の腕の中で、拓は綺麗に頬を紅潮させたままそれでも大人しく力を抜いた。
そうして、拓も千冬の背中に腕を回して抱き付く。

「・・・無理言ってごめんなさい。」

拓がここに辿り着いてからまだ３０分も経っていない。
勝手に部屋の中に入るのはやっぱり何だか気が引けたので、ドアの前で待っている事に決めてからはもっと短い。
鎌倉からここまでの距離を考えると、どれだけ千冬が急いで帰ってきてくれたのかが理解って、拓は申し訳なくなった。

「―――我が儘を言ったのは、俺の方だよ？あぁ、でも。夢じゃない・・・本当に嬉しい。」

拓の肩口に顔を寄せて、耳元で告げられた言葉が素直に心に染みる。
それだけで、拓の心臓はドキドキ高鳴ってしまった。
相変わらず、男なのに美人と言う形容詞がぴったりな千冬が、直ぐ側に居て自分を抱き締めているのだ。
何時まで経っても慣れない拓は、どうしてもクラクラしてしまう。

「拓ちゃん・・・」

甘い声と共に、綺麗な顔が近付いてくる。
それだけで、千冬が何を求めているのか理解ってしまった拓は、酷く動揺した。
ドキドキと鳴る鼓動が、耳に煩くて・・・心臓が口から飛び出してしまいそうだ。

「―――良い？」

問い掛けられて、否と言える筈も無く。
ゆっくりと無くなった距離が、触れ合う感触を齎した。
ギュッと瞳を閉じたまま、拓は千冬に身を任す事しか出来なかった。

気付いた時には、拓は部屋の中のソファーに凭れ掛かっていた。
玄関でキスされて・・・途中で意識を飛ばしてしまったようだ。

「・・・気付いた？ごめん。手加減できなかった・・・」

目の前で、困ったように微笑う千冬に目が惹き付けられる。
途端に、拓の全身を羞恥が駆け抜けて、穴が合ったら逃げ込みたい気分になった。
恥ずかしくて逸らした視線の先に、自分の鞄を見つけて、漸くここにきた用事を思い出した。

「千冬さん。・・・えっと、ボク、これを持ってきたんです。」

手を伸ばして鞄を取ると、その中から綺麗に包装された包みを取り出す。

「さっき、電話でも言ったけど・・・その、ボクは、バレンタインのお返しに渡すモノに意味があるなんてほんと知らなくて。」
「拓ちゃん？」
「マシュマロを渡すのがどういう意味を持ってるのかも良く理解らないけど、でも彼女とかに渡す物じゃないって知って・・・だから、あんまり良い意味じゃないんだと思って。でも、千冬さんに渡しちゃったから・・・だから・・・」

そこまで言って、拓はキュッと唇を噛み締めた。
そんな拓を見て、千冬は少しだけ困ったように微笑した。

「えっと・・・拓ちゃん？」

スッと動いた綺麗な指先が、拓の手を持っている包みごと捉える。

「先日も言ったと思うけど・・・元々、お返しを貰えるとは思ってなかったから、貰えただけで俺は嬉しかったよ。それに、白くて甘くて柔らかな拓ちゃんの頬みたいなハート形のマシュマロは凄く美味しかった。確かに意味を考えると微妙だけど・・・でも知らなかったんなら猶更嬉しいなぁ。」
「・・・千冬さん？」

千冬の言葉に、全然怒っていない事を知った拓が、キョトンと目を丸くする。
もしかして、考え過ぎたのだろうかと今更ながらに理解った。

「それで、わざわざまた持ってきてくれたの？」
「え？・・・うん。余りお小遣いが残って無くて・・・本当に安くて申し訳ないんだけど・・・」

モジモジと告げる拓に、千冬は恐ろしく艶やかな微笑を浮かべた。

「ふふ・・・。どうしよう。幸せ過ぎて、怖い。嬉しさの余り、死んじゃうかも・・・」

両手で拓の手を包むと、そのまま千冬は騎士が忠誠を誓うかのように、そこに口付けた。

「・・・あ、あ、あの・・・」

全身を硬直させて、頭から湯気を出しそうな程真っ赤になった拓が、泣きそうな顔で千冬を見詰める。

「―――そんな顔しないで、拓ちゃん。」

顔を上げた千冬が、請うようにそう言って、そっと拓の頬にキスをした。

「千冬さん・・・」

「中身、見ても良い？」
「え？あ・・・はい。」

いつの間にか千冬の手に渡った小さな包みを、紫のマニュキュアが塗られた爪先が器用に開けていく。
中から出て来たのは、色々な色彩のキャンディが詰まった透明なガラスのボトル。
掌に納まる小さなサイズだったけれど、コンビニや駄菓子屋で売っている物ではない。
なけなしの小遣いの中から、精一杯の想いで拓が選んだ、それ。
千冬の反応が怖くてドキドキしていた拓を、千冬は黙ったままそっと抱き締めた。

「―――ち、千冬さん？」
「参ったな・・・ほんと、拓ちゃんには適わない。」
「喜んでもらえて・・・良かった。」

肩口からくぐもった声が耳に届く。
ほんの少し震えるその響きが、喜んでもらえた証拠だと理解った拓は、嬉しそうに笑った。

その後、嬉しさが頂点に達して、感極まった千冬に拓が押し倒されたのは言うまでもない。
そうして、キャンディよりも甘いホワイトデーの延長戦は、千冬が鎌倉で約束をすっ飛ばしてしまった相手が邪魔をしに来るまで続くのだった。