最後の一人が消えたのを完全に確認してから、緋咲は拓に近付いた。
―――言葉は無い。
何だかまだ怒っているようで、拓も声が出ない。
無言のまま、緋咲は拓の腕の戒めを解いた。
やっと自由になった手は、縛られていたせいか、痺れている。
「・・・あ・・・あの・・・ありがとうございますっ！」
そのまま行こうとする背中に、思い切って声を掛ける。
「―――礼なら、俺を叩き起こした猫に言え。」
ぶっきらぼうに呟かれた言葉に、拓は今度こそ涙を零した。
安心したのと、嬉しさと・・・。
入り口に立った紫の髪を見た時、拓は確かに嬉しかったのだ。
垣間見せる優しさにドキドキしたり、人を寄せ付けない雰囲気に緊張したり。
それでも、拓が殴られた事は一度も無い。
どんなに機嫌が悪くても、あれ程の怒りを見せたりはしない。
そんな、人と係わり合うのを嫌う緋咲が、拓を助ける為に動いてくれたのだ。
圧倒的な力で救ってくれたのだ。
それだけでもう・・・。
　
　
―――涙が出る程、嬉しかった。
胸がドキドキして、どうにかなってしまうのではないかと思うぐらいに。
　
　
「―――拓ちゃんっ！」
倉庫を出ると、青褪めた時貞が走ってくるのが見えた。
余程急いで来たのだろう。
どんなに走っても息一つ乱さない筈の時貞が、息を切らしていた。
「・・・時貞・・・くん？」
目の前にきた時貞の表情が強張ったのを見て、拓は問い掛ける。
「・・・」
黙ったまま拓の頬を撫でる時貞の動きに、拓はドキッとしてしまう。
そして、自分が泣いた事がバレて恥ずかしくなった。
「あ・・・これは・・・」
「何かされたのか？！」
時貞の方が泣きそうな顔をしていた。
困ったように、拓は首を横に振った。
「ううん。ちょっと絡まれたんだけど・・・緋咲先輩が助けてくれて・・・それで、安心したら涙が出ちゃって・・・情けないなぁ・・・」
ゴシゴシと涙の跡を拭う。
「緋咲が・・・拓ちゃんを助けた？」
驚きの声を上げる時貞に、拓は小さく微笑った。
「ずっと恐い人だと思ってたけど、そうじゃないんだ。・・・人を見かけで判断したら駄目だよね。ボクも反省しなきゃ・・・」
顔を赤く染めて言う拓の様子に、時貞が押し黙る。
硬直したような表情に、何か変な事を言ってしまったのかと拓はちょっとだけ不安になる。
「―――時貞くん？」
問い掛けると、ハッとしたように時貞は拓を見た。
そうして、表情を柔らかくする。
「ごめん。ビックリしたから。」
「うん。ボクもビックリした・・・。」
そんな事を話している内に、鐘が鳴り響く。
午後の競技が始まる合図の空砲も鳴っている。
「・・・あぁ！お昼食べられなかったぁ！」
泣きそうな声で拓が言うと、時貞が笑う。
「応援団は着替えの準備があるから、その時に食べれば？・・・おにぎり残しといた。」
「ほんと？！ありがとう、時貞くん！！」
拓が感謝の言葉を告げると、時貞は美笑した。
そうして、拓を引き寄せる。
「・・・と・・・時貞くん？！」
抱き締められてびっくりした拓が問い掛ける。
「―――無事で、良かった。」
くぐもった声が聞こえて、拓も力が抜ける。
それだけ、心配してくれたのだと理解って、嬉しかった。
自分が、一人ではない事が理解るから・・・。
「うん。―――ありがとう。」
心から、そう思った。
　
　
にゃー。
甘えた声を出す子猫が、満足したように喉を鳴らす。
ご褒美のビスケットは甘くて柔らかかった。
定位置で眠りに付こうとする小さな身体を落ちないように片手で支えながら、緋咲はまた横になった。
見上げた空は何処までも蒼い。
あれだけ怒りが沸いたのは久しぶりだった。
あんな激しい感情が、自分の中にまだ残っていたとは。
だが、薄暗い倉庫の中で、大柄な連中に囲まれている姿を見た瞬間、何も考えられなかった。
それが、どうしてなのかはよく理解らなかったのだが・・・。
「お前より、手間がかかる―――な、チビ。」
すっかり寝込んでいる小さな毛玉を撫でながら、緋咲は自嘲気味にそう笑った。
　
　
―――遠くで、体育祭はまだ続いていた。
　
　
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