不意にぽっかりと目を覚まして、拓は酷く動揺した。
目の前にはもう見慣れた天井で、それが妙に霞んで見えた。
気付くと同時に、頬を伝って涙が零れ落ちる。
それを乱雑に、拭ってから・・・拓はゆっくりと息を吐き出した。
何だかすごく懐かしい感じがした。
いつからか忘れてしまったが、たまに拓は泣きながら目を覚ます事が度々あるのだ。
酷く胸が痛い時もあれば、もどかしい気分になる時もある。
―――それでも、どうしても夢の内容は思い出せない。
思い出そうとすると、身体が強張って、息苦しくなってしまうのだ。
自分でも、おかしいと思わないでもない。
何度も泣きながら目を覚ます拓を、気遣う両親の沈んだ顔が見たくなくて・・・拓も極力気にしないようにしていたのだが。
起きた時に覚えていない夢を見て、寝ながら涙を零すなんて、誰にも言える筈もないから。


窓の外は、既に夜明けを迎えたのか明るくなっている。
枕元においてある時計は、まだ明け方の時刻だったが、拓はゆっくりと起き上がった。
目が冴えてしまって、二度寝もできそうになかったからだ。
まだ眠っているだろう緋咲を起こさないように、慎重に動いて上着を羽織ると、拓は部屋を抜け出した。
寮生が起きてくるには、まだ早い時間帯。
起きている者が、いる筈も無く・・・拓は簡単に洗面所で顔だけを洗うと―――外の空気を吸う為に、玄関のドアを開けて寮外へ出た。
ゆっくりと歩いて、夏生先生の菜園まで散歩する。
朝もやの中、景色ははじめて見る場所のように思えた。
小さく、拓は嘆息を零す。
纏わりつく空気が清清しくて・・・酷く懐かしい感じがした。
この道を、誰かと一緒に歩いたような―――おぼろげな『感覚』。
掴み所の無い、それが何を意味するのか・・・それを考える前に、景色が変わる。
太陽の光に反射して、朝露が光っている。
「―――随分、早起きなんだな。」
不意に掛けられた声に、思わずビクリッと身体を震わせてしまう。
反射的に振り向くと、そこに立っていたのは、眠っているとばかり思っていた緋咲で・・・。
「お・・・起こしちゃいました？！」
慌てて、詫びる。
「・・・いや・・・」
だが、拓の危惧を緋咲は一言で消し去った。
取りあえず、怒っていないようなので、拓はほっと胸を撫で下ろした。
「たまに・・・こんな風に早く目が醒めちゃって・・・」
小さく苦笑して、拓は目線を逸らす。
緋咲は黙ったまま、胸ポケットからタバコを取り出して咥えている。
こんな所を誰かに見られたらそれだけで大問題だと思うが・・・拓はもう見慣れてしまったので敢えて口出さなかった。
緋咲がゆっくりと煙を吐き出す。
「でも・・・別にホームシックになった訳じゃないですから。」
言って、拓は笑みを作る。
そう、問題はもっと別の所にあるのだ。
それを、緋咲に言う程・・・拓にはまだ勇気がなかった。
頭のおかしな奴だ―――と、中学の時に散々苛められた記憶が、拓の心を萎縮させたままなのだ。
「もう、戻りますね。」
そう告げて、拓は帰ろうとする。
その腕を、緋咲が捕まえた。
「緋咲・・・先輩・・・？」
突然の動作に、拓はびっくりした。
緋咲も、腕を掴んでしまった自分の行動に驚いたようで、一瞬表情が変わった。
「あの・・・」
振りほどく事も出来ずに、困った拓に、緋咲は訝しげな顔のまま、タバコを吐き捨てた。
「テメーは・・・何で・・・んな顔してやがんだ？」
「え？」
いきなり告げられた言葉に、拓の思考回路が停止する。
「何、考えてやがる・・・」
続けられる問いかけに、拓は答える事が出来ない。
「べ・・・別に何も・・・」
自分がどういう顔をしているかなど、理解らない拓は、しどろもどろに声を出す。
それが、勘に触ってしまったのか、緋咲は掴んでいた手に力を込めた。
「・・・いたっ」
思わず拓の眉が寄る。
「んな、泣きべそかきそうな顔で、『何でもない』とは言わせねぇぞ。」
苛立ったように告げる緋咲の言葉に、拓は度肝を抜かれた。
自分がそんなに情けなさそうな顔をしていたのだ―――と。
なんとか、取り繕うとして・・・失敗する。
きつい緋咲の眼差しは怖いくらい真剣で、誤魔化しなんかききそうにないからだ。
心底困った顔で、拓は俯いた。
「―――えっと・・・」
心が、迷う。
言っても、信じてもらえないかもしれない。
また、馬鹿にされたたり・・・傷つくかもしれない。
それでも・・・ここで嘘を付けるほど、拓は大人ではなかった。
「・・・僕・・・」
慎重に言葉を捜す。
自分でも持て余しているもどかしい感情を、どう説明すれば良いのかが理解らなくて・・・。
緋咲は、黙ったまま拓の言葉を待っている。
「―――小さい頃の、『記憶』が無いんです。」
小さく、声に出す。
どうしても震えてしまうのは、仕方の無いことだ。
「・・・両親が言うには・・・酷い交通事故にあったからだって・・・。でも大事な物を、何処かに落っことしてしまったみたいで不安で・・・だから、何やっても、自信が持てなくて・・・。」
ゆっくりと、一言一言自分に言い聞かせるかのように話す。
「たまに、眠っている時に無意識にそれを思い出しているみたいで・・・でも起きるとその記憶は無くて・・・ただ、涙が出るんです。」
ギュッと拳を握って、胸の痛みを堪える。
「・・・変ですよね？だって・・・忘れてるのに、泣くなんて。両親は、きっといつか思い出せるからって・・・言うけど・・・でも、もどかしくて。」
伏せた睫が揺れる。
泣いちゃ駄目だと理解っているのに、盛り上がってくる物を押さえられない。
「―――自分が、何処の誰かすら・・・覚えてない・・なん・・て・・・」
ポタポタしたたり落ちる雫に、拓は顔を上げる事も出来ない。
緋咲が、どんな顔をしているのかが、怖くて顔を上げられない。
人に、嫌われる事が何よりも怖いから。
だから、中学時代もどんなに苛められても、笑っていた。
それしか、拓に出来る事はなかったから・・・。
ぐぃっと、強い力で引き寄せられる。
気付けば、拓は緋咲に羽交い絞めにされていた。
「・・・せんぱ・・・？」
「―――無理に言わせて・・・悪かった。」
拓が掠れた声で問いかけると、低い声が返ってきた。
それだけで、嫌われなかった事が理解った。
理解って貰えたのだと・・・知った。
等々堪え切れなかった涙が、ボロボロ零れた。
ふぅっと、緋咲が、ため息を吐く。
「ほんと・・・お前、泣き虫だな。」
呆れたような、それでも柔らかな口調に、拓は泣きながら・・・笑った。


遠くで、誰かが掛けた目覚まし時計のベルが聞こえてくる。
そろそろ、起き出して来る者もいる筈だ。
「・・・飯でも、食いにいくか。」
「・・・はい・・・。」
涙を拭いて、拓は恥ずかしそうに頷く。
それから、自分がまだパジャマのままだった事を思い出した。
「・・・あ、着替えなきゃ・・・」
「ああ？・・・そんままでも良ぃんじゃねぇか？」
「でも、すぐだから・・・着替えてきます。」
そう言って、足早に走り出そうとする。
チリン・・・。
出した足元で、小さな音が鳴って拓は驚いて足を止めた。
草むらの中、小さな鈴が転がっていた。
「鈴・・・？」
「あ、んなトコに落ちてたかよ・・・」
拓が拾い上げたそれを見た緋咲の表情が変わる。
「これ、・・・緋咲先輩のですか？」
びっくりしたように問い掛けなおす拓に悪気はない。
余りにも驚いたからだ。
だが、緋咲は顔を赤くして、ムッとしたようにそれをむしりとった。
「俺のだ。まぁ・・・預かりもん・・・みたいなもんだけどな・・・」
何処か遠くを見るような視線で、それを見つめる緋咲の眼差しは柔らかくて。
鈴の先についていたのは・・・間違いなく四葉のクローバーで。
本物のそれを硝子ケースに閉じ込めたようなキーホルダーがついていた。
それが、緋咲にとって、とても大事な物なのだと拓には理解った。
「じゃあ、見つかって良かったですね。」
心から笑って、そう告げると、漸く緋咲も拓に馬鹿にされたと思った誤解を解いたようだった。
「あ・・・あぁ。」
ぶっきらぼうにそう言うと、それをポケットに捻じ込んでいた。

―――チリン・・・と響いた音が、妙に耳に残った。


それは、酷く懐かしい・・・感じがした。



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