林檎と蜂蜜





「ねぇ・・・ナッちゃん。」

作業場の片隅・・・椅子に座って、珍しく何かを考え込んでいるような誠が、思い詰めた声を出した。

「・・・んー？」

新しい自分の単車を組む為に、ガレージの一角を自分専用の作業場に作り直した場所で、愛車の点検をしていた夏生は、持っていたバールを動かしながら、気の無い返事を返す。

ここ最近、幼馴染み兼親友の態度が少し可笑しい事に気付いていたが、今はそれ処ではない。

昨夜の集会で、新しく知り合った連中が、そのままここにやって来て、作業している夏生を尻目に散々遊んで帰って行ったのは、誠がやってくるちょっと前の事だ。

「・・・はぁ。」

だが、聞こえてきたのは、深い溜め息。

今度こそ、珍しいと思って、作業を止めて目線を流すと・・・誠は机の上に置かれた赤い林檎を眺めたまま、頬杖を付いている。

「―――どうした？」

仕方なく立ち上がって、夏生はバールを作業服の腰についているホルダーに差し込むと、バイクから離れて誠の傍に寄る。

一服しながら、話を聞いてやるつもりで。

「林檎と、蜂蜜って・・・相性良いかなぁ？」

「・・・あぁ？」

ボソリと零れ落ちた台詞が、余りにも突拍子も無くて、夏生の目が点になる。

付けようとしたライターの火が、消える。

咥えていた煙草も、下に落ちた。

誠は、困ったように笑った。

「そりゃ・・・」

「あ、カレーの事じゃないよ。それは、晶とマー坊に・・・もう言われた。」

思わず、浮かんだフレーズのままに口にしようとした夏生は、先手を打った誠の言葉に口を閉ざすしかない。

それでも、答えを待っているかのような誠に、夏生は一瞬天井を見上げて、考え込むように眉を寄せた。

沈黙が、漂う。

「―――相性なら・・・悪くねぇんじゃねぇの？」

カレーにすら入れられるのなら、甘いお菓子に使われるのは間違いない。

どちらも、甘い事に変わりは無いし、甘い蜂蜜は例え林檎がどんなにすっぱくても、その甘さを引き出してくれるだろう。

「・・・ん。理解った。」

机の上の赤い林檎を弄びながら、誠は今度は小さく笑った。

その笑みが、余りにもいつもと違うから・・・夏生は少し焦る。

誠のこんな表情は、そう滅多に見ないからだ。

「どうした？何か、困ってるのか？」

だから、問い掛ける。

その謎掛けのような言葉に秘められた物が、判りにくいSOSならば、助けてやりたいと思うから。

「うーん。そーゆうんじゃないよ。ただ、蜂蜜みたいに、甘くて綺麗でキラキラしてて・・・そんな純粋な存在の側に・・・甘いだけの林檎として、居られるかなぁ・・・って。」

「―――誰が？」

「・・・俺が。」

「いや、そうじゃなくて・・・誰が、蜂蜜なんだ？」

噛み合わない会話に、漸く先が見えて、夏生は苦笑しながら問い返す。

「それは・・・ナイショ。」

「おいっ！誠・・・」

「ナッちゃんには、その内、ちゃんと紹介するから。あ、これ・・・頂戴ね。」

言いながら椅子から立ち上がると、誠は目の前の林檎を持ったままそう言ってガレージの外に歩き出す。

「本当に、大丈夫なのか？」

「ナッちゃんが心配するような事じゃないから、大丈夫。」

振り返って夏生が口にした台詞に、自分の愛車であるバケヨンに跨ったまま、誠は微笑った。

夏生がその光景を見たのは、本当に偶然だった。

単独で街中を馴らしで走った後で、休憩の意味も込めて山下公園をブラブラしていたら、目に留まったのだ。

いや、性格には耳に飛び込んできたと言っても過言ではない。

「―――誠お兄ちゃんっ！！」

「こっちだよ。拓ちゃん！」

親友と同じ名前を柔らかな声で甘えた風に呼ぶ声が、気になって・・・更にそれに答えた声に物凄く聞き覚えがあったから。

思わず振り返った夏生の目の前で、駆け寄った小さな身体が、誠の大きく広げた腕の中に飛び込んでいく。

傍から見る分には、微笑ましい兄弟にしか見えないだろう。

だがしかし・・・夏生は知っている。

誠に妹は居ても、弟は居ない事を。

―――一瞬の絶句。

一回り半は小さな身体を受け止めた誠の蕩けそうな笑顔は、今まで夏生が見た事が無いほどに煌いている。

＜・・・誰だ？あれ・・・・目の錯覚なのか？・・・いや、別人？＞

余りの事に、夏生の心臓がバクバクいって落ち着かない。

目の前の人物は、一体誰なのだろうか？

自分が親友と思っていた相手の意外な一面は、夏生の頭を強烈な勢いで殴りつけたようなショックを与えた。

「・・・まこ・・・と？」

思わず、零れ落ちた声に、弾かれたように振り向いた目線が、夏生と絡まって・・・いやーな沈黙が流れた。

「誠お兄ちゃんの・・・知り合い？・・・あ！」

誠の腕の中でキョトンとしていた大きな黒い瞳が、夏生を見て更に見開かれる。

「えっと・・・こ・・・こんにちは。」

慌てて、ペコリとお辞儀を返すその姿に、不意に記憶の扉が開かれる。

「お・・・お前っ？！」

「あの時は、本当にありがとうございました。」

続けられた台詞に、心底驚いて、夏生は普段絶対に浮かべないような驚愕の表情を浮かべた。

バッチリと浮かんだ記憶は、４ヶ月も前の物。

あれは―――秋の夜。

集会に出る前の些細な揉め事でしかなかった事件。

助けた者たちの片割れは・・・確かに自分たちに助けを求めた相手で。

誠が弟に欲しいとか、また会えるような気がするとか言っていた時は、またおかしな事を口にして・・・と思った記憶まで浮かび上がって、つい誠を凝視してしまう。

出会ったのは、記憶の中では確かにあの一回だけだ。

なのに、どうして本当に、“お兄ちゃん”などと呼ばれるような親しい関係になっているのかが、本当に理解らない。

何時の間に、また知り合ったというのだろうか。

「あーあ、終にばれちゃったよ。まぁ、良いか。相手、ナッちゃんだし。ね、拓ちゃん。」

困ったように笑って、誠は腕の中の子供を抱き締めた。

「ふふ・・・くすぐったいよぉ。」

すっかり開き直った様子で、柔らかそうな頬にスリスリしてる親友に、夏生は眩暈を起こしかけた。

「―――誠・・・。」

「立ち話も何だし・・・座って話そうよ。」

湧き上がる頭痛に、頭に手をやった夏生を見て、誠は側にあったベンチを指差した。

「えーと、何から話そうか。」

「だから・・・どうして、その子を膝の上に座らせてるんだ？」

「え？それは、この方が気持ち良いから。俺が。」

唇に指を当てて、悩むように言う誠に向かって、夏生はまず一番の疑問をぶつける。

だが、当たり前の様に返ってきた返事に、玉砕する。

「あ・・・あの・・・やっぱり、おかしいですよね。もう、誠お兄ちゃん、下ろして・・・」

「えー、やだ。ナッちゃんも、余計な事言わないでよ。」

真っ赤になったまま、モジモジと小さな身体を更に縮込ませて言う少年に、誠はきっぱり言うと、夏生だけに見えるように凶悪な視線を投げつける。

「わ・・・分かった。」

余りにもその視線が怖かったので、夏生は大人しく誠の説明を待った。

確かに、どう見ても幼児には見えないが、まぁ・・・小学生ならまだ抱っこも許容範囲だろう。

見た目も小さいし・・・可愛いので。

「えっとねぇ、この子は浅川、拓ちゃん。ナッちゃんも、もう思い出したと思うけど・・・１０月の集会の時に友達と一緒に助けてあげたあの子だよ。あの後、１２月にこの公園でまた会ったんだ。」

拓と言う少年を抱き締めたまま、誠はゆっくりと話し出す。

「一人で寂しそうだったから、声を掛けたんだけど・・・泣かれちゃってさぁ。」

「あ、あの時は・・・！」

「うん。お友達と悲しいお別れをした後だったんだよね。それで・・・慰めている内に、仲良くなって・・・」

「僕・・・ずっと、優しいお兄ちゃんが欲しくて・・・」

「―――俺も！最近、晶がすっかり甘えてくれないから寂しくて・・・それにこんな可愛い弟が欲しかったんだぁ。」

「え・・・えへ。嬉しい。」

真っ赤になって本当に嬉しそうに笑う拓は、夏生の目から見てもとても可愛くて、こんな弟なら自分も欲しいとつくづく思う。

夏生の弟は、誠の十分可愛い妹よりも、更に可愛げがないからだ。

それでか・・・と、夏生はここ最近の誠の行動の怪しさを思い出した。

そうして、先月に誠が言っていた蜂蜜の意味も。

「ずりぃ・・・。」

沸きあがった感情のまま、声が出た。

「え？」

「―――誠だけ、ずりぃぞ。俺も、お兄ちゃんて呼ばれたい。」

「ダメ・・・絶対、駄目っ！拓ちゃんは、俺の！第一、ナッちゃんにはちゃんと“アキオ”っていう弟がいるじゃないかっ！！」

キョトンとした拓に、夏生が再度望みを口にすると、誠が物凄い勢いで拓をぎゅうぅっと抱え込む。

「ふ・・・むぅ・・・誠お兄ちゃ・・・苦し・・・」

「あ、ご・・・ごめっ！大丈夫か？」

「・・・うん。へーき。」

苦しそうに言う拓に、慌てて誠が腕の戒めを緩める。

途端に、浮かんだ笑みが本当に蕩けそうで可愛い。

それは、夏生のハートをズキュウゥゥンと打ち抜いた。

こんな真っ直ぐで綺麗な笑顔を見たら、相対する誠の笑みも蕩けそうになる訳だ。

納得しながら、夏生は更に近付く。

「えっと・・・」

「―――俺、夏生お兄ちゃん。」

「・・・ナッちゃん・・・いい加減に・・・。」

キョトンとした大きな瞳に、夏生は自分を指差してそう言った。

誠が、眉を顰めている。

こんな状態でも、誠の手が出ないのは、その腕の中に拓を抱いているからだ。

そうでなければ、有無を言わさず、蹴りの一つでも入っている。

一瞬、困ったように誠に視線を流した後で、拓は夏生を真っ直ぐに見た。

「あの・・・夏生お兄ちゃん・・・ですか？」

小さな声で、もじもじと告げられた響きに、夏生の頭の中に色とりどりの花が咲く。

湧き上がってくる抑えきれない感情のままに、小さな身体を抱き締めようとして・・・今度こそ誠に邪魔された。

ひょいと拓の身体を持ち上げたまま、誠がベンチから立ち上がったからだ。

スカッと空を切った腕の勢いで、夏生の身体が体勢を崩す。

「ああもう、ナッちゃん、邪魔！さ、拓ちゃん俺とあっちで遊ぼうね。」

「うぅ・・。ひでぇ・・・」

拓を軽々と抱き上げたまま、誠がニッコリと告げる。

その目線は、突き刺さりそうな鋭さで、夏生を切り刻む。

残された夏生は、ベンチに“の”の字を書く事しか出来ない。

横浜一の族である【爆音小僧】の“頭”なのに、情けないその姿に、先に動いたのは拓の方だった。

「誠お兄ちゃん・・・あのお兄ちゃん、可哀想。仲間外れって・・・哀しいよ。」

小さく呟く拓に、誠は大きな溜め息を付いた。

そうして、今度こそ困ったように微笑う。

「拓ちゃんは、優しいなぁ。」

「そんなこと・・・。あ、あの・・・僕、良い物持ってきたから、皆で仲良く食べよ？ね・・・」

そう言うと、拓は腰のポーチに手を伸ばす。

中から取り出したのは、綺麗にラッピングされた小さな袋だった。

「えっと・・・今日は、バレンタインだからって・・・今朝、お母さんから貰ったんだけど。誠お兄ちゃんたちにも、分けてあげるね。」

にっこり笑って言う拓に、誠は真っ赤になった。

それから、夏生に視線を向けて・・・戻すと、拓の耳元にナイショ話をするように唇を寄せる。

『それは・・・ナッちゃんにはあげなくて良いから。だって、他の女の子からも一杯貰ってるから。』

『え、そうなの・・・？うんっと・・・じゃあ、誠お兄ちゃんもいらない？』

『まさか！俺はちゃんと貰うよ、拓ちゃんからのチョコｖ』

『えへっ。じゃあ、あげるね。』

「―――ちょっっ・・・待て！誠っっ！！」

ニコニコと言い合う内緒話の内容を、しっかりと耳にした夏生が、誠の肩に手を置いてフルフルと首を横に振る。

「おーまーえー・・・俺より一杯貰った癖に、今の台詞をどの口が言うんだ？」

「・・・地獄耳。」

「おまっ！しかも、“アキラ”ちゃんからも、しっかりと貰ってただろうーが・・・！！」

誠の目線がどんどん険しくなっていくが、ここで引くわけにはいかない夏生も必死だ。

「誠お兄ちゃんも一杯貰ったの？・・・良いなぁ・・・じゃあ、これいらないよねぇ。」

羨ましそうに言う拓の瞳が、少しウルウルと潤む。

自分の手の中にある袋をちょっと見てから・・・そっとしまおうとする姿に、誠が慌てる。

「いるからっ！・・・っていうか、欲しい！物凄くっ！！」

「―――欲しいの？でも・・・一杯あるんでしょ？」

「あ・・・明日っ！じゃあ、交換で、明日それをおやつに持ってくるから・・・！」

必死に喋る姿は、どう聞いても、高校生が小学生のおやつをせびっているようにしか聞こえない。

「うーーん・・・じゃあ、良いか。一緒に、食べよ。」

にっこり笑った拓が、もう一度チョコの袋に視線を向けた瞬間に、マッハのスピードで繰り出された肘鉄が、夏生の腹に決まる。

「・・・グハッ！」

「え？！どうしたの？」

「ナッちゃんねぇ・・・急に、お腹が痛くなったんだって。」

急に腹を押さえてガクリと崩れた夏生に、驚いた拓が顔を上げたが、誠は何でも無い顔をしながらそう告げた。

「・・・っ・・・ち・・・」

「―――だ・・・大丈夫ですか？」

きっちり鳩尾に入った所為で、上手く息が出来なくて声が出ない夏生を、拓が心配そうに伺う。

「大丈夫だって、ナッちゃんがこれ位でどうにかなっちゃう筈ないから。でも、残念だねぇ・・・拓ちゃんのチョコは食べられないね。」

拓に見えないように、ニヤリと笑う確信犯に、夏生はやられた・・・とがっくりと肩を落とした。

口で駄目なら、実力行使。

この場合、拓と居る時の誠の様子が余りにも柔らかなモノだったから、親友の本質をすっかり忘れていた自分が悪いのだ。

それは、これ以上邪魔をするなという誠の本気。

夏生にまで手を出すという事は、それだけ誠の確執が強いという事で。

「あ・・・あぁ。」

漸く、呼吸を落ち着けて、息を吐き出す。

これ以上邪魔をしたら・・・この親友は、喩え相手が夏生であろうとも、確実に“殺”るだろう。

長い付き合いで、それが理解ってしまった夏生が、渋々身を引くしかない。

それは、物凄く後ろ髪を引かれるものだったけれど・・・。

＜ちぇっ・・・＞

小さくふて腐れて、夏生は立ち上がる。

名残は惜しいが・・・仕方ない。

これ以上、親友の大切な時間を邪魔するのも野暮な気がしたから。

しかし・・・確かにこんな弟が欲しいとは言っていたが、余りにも執着している気がして、夏生は少しだけ首を捻る。

「お前も・・・弟として可愛がるのは良いが・・・道は踏み外すなよ。」

「ナッちゃんっ！！」

ニヤリとして、そう夏生が告げると、途端に誠が焦ったように声を上げる。

その表情をみて、夏生は少しだけ胸がスカッとした。

一人だけ良い目を見せるのは、やはり悔しかったらしい。

誠が焦るのは、それが図星だからだ。

大方、気に入った子を自分好みに成長させようという魂胆だろうが、夏生にはバレバレだ。

「誠お兄ちゃん？」

「あー、拓ちゃんは気にしなくて良いから！もう、ナッちゃん早く帰れっ！！」

「・・・分かった、分かった。じゃあな、“タク”ちゃん。」

しっしっというように誠に手で払われて、夏生はポケットに手を突っ込んで取り出した煙草を咥えたまま、苦笑しながら手を振った。

「あ、さようなら。」

ペコリと下げられる頭は、誠に対する仕草とは全く違う。

それをちょっと寂しく思う自分も、随分と惹かれてしまったなぁ・・・と思いながら、夏生は歩き出す。

「さ、一緒にチョコ食べよ、拓ちゃん。―――っと、その前に何か飲み物買いに行こうか？」

「うん。あのね・・・僕・・・暖かいのが飲みたい。」

背中に聞こえる声が、反対方向へと遠ざかっていく。

「本当だ・・・随分冷えちゃったね。寒い？」

「えーと・・・ちょっとだけ？」

「じゃ、こうしよう。」

「―――うん。」

背後に聞こえる会話がどうしても気になって、ちょっとだけ振り返った夏生は、反対方向へ向かって歩いていく二人の姿を目に映して、口端を持ち上げた。

夕日に照らされた二人のシルエット。

大きな影と小さな影から伸ばされた手が、真ん中で繋がっていた。

夕焼け小焼けの中・・・手を繋いで歩いていく親友の姿が、やけに眩しく見える。

思わずじーんとしてしまった夏生は、可愛げが全くなくなってしまった３つ下の弟をちょっとだけ思い出した。

＜そういや、あいつも昔はあんな風に可愛かったよなぁ・・・いつでも、俺の後くっついてきて。―――もう・・・１０年くらい前の話だけど・・・＞

少しだけ感傷に浸ってから・・・夏生は自分の愛車に向かって今度こそ振り返らないで歩き出した。

この時の夏生は、まだ知らなかった。

誠の“葵の上計画”は間違いなく、着々と実行されている事を。

夏生がその事に気付くのは、もう少し後。

そうして、夏生が拓の本当の姿を知るのも――――。

その時には、既に拓の全ては誠の物になっていたりするのだが・・・。